日差しが強くて本当に暑い。風もあんまり吹かない。気化熱が奪われないので、暑さが滞る感じだ。気温も25度以上はあるのであろう。湿気もあってちょっと動けば汗が出るので不快である。散歩もできないので休憩時間は読書に切り替えて、夕方から少し歩くことにする。しかし陽が傾いてからも暑かった。目標時間やコースなども検討しなおす必要がありそうである。
注文していた本が続々と届く。本の梱包は厳重なものが多く、包みを開ける作業が煩わしい。ひどく折れ曲がったりしているのは確かに不愉快だけれど、もう少し適当でもいい感じはする。新品の破れなどは以前なら気になっていたかもしれないが、今となっては個人的にどうでもいい。新品であるとか中古であるとかが関係ないのが本である。どうせ書き込んだり折り目をつけたりするわけで、少し古い方が使いやすかったりする。CDなんかもそうで、ビニールがべたべたついているものより中古品のほうが扱いやすい。開けてしまわないと使えないものなので、パッケージが美しい必要などまったくない。
農相の自殺のニュースがあって、なんでだろう、と思う。いろいろ騒ぎがあったらしいが、そうだったのかといまさらながらに思ったりする。そういえば、この人が高熱水費の人だったのか。一時期新聞の川柳欄で何とか還元水の話題が多かったので不思議に思っていたので、やっと謎が解けた。というか、最近はまじめに新聞を読んでいなかった。僕は新聞マニアの時期があって、必ず朝から最低4紙に目を通さなければ気がすまなかったのだけれど、今はいつの間にか興味を失っていた。あんがい新聞は必要無いものだけれど、面白いことには違いがない。また新聞を読むのも楽しいかもしれない、などと思う。
自殺自体は大変に痛ましいことであるし、まわりもそこまで追い詰めてしまったということに対して嫌な感じもする。悪さをする人を一方的に糾弾する姿勢は幼稚である。まあ、凶悪犯罪にはもっとやって欲しい気もするが、政治的なものは、どうも気分が悪い。
さて自殺に関していうと、そのように個人を追い詰めてしまった状況も確かに構造的な問題はあるにせよ、一種のテロであるし、殺人だと思う。人には死ぬ自由があるという考え方も状況によっては考える余地があるのかもしれないが、少なくとも政治的状況で自殺をするのは、行為としてはテロであろう。人が死ぬことは、他にも影響がある。自分の命であるから自分のものだという考えは幼稚な人のものであろう。人は関係性の中で生きている社会的な動物なのであるから、自ら命を絶つという行為は自分を殺すということであって、殺人行為と同意なのである。他者がいないので法的に罰することができないだけのことであろう。
何も死ぬほど深刻なことなどは何もない。深刻にしている社会状況のほうがどうかしている。さっさとやめてしまえたらよかったのに、それすらできないという考えに閉じこもってしまった不幸が、自分を殺すという殺人行為まで犯させてしまったのであろう。償いもできないので非常に性質の悪い殺人である。
なにより家族が可哀相である。この人を愛している人だっていただろうに、と思うと、やりきれなくなる。
じゃあ犯した罪はどうなるんだ、という声も聞こえそうだが、だから本当は個人の問題じゃなくて、組織の問題なんじゃなかったのかと僕は疑っているのである。本当は個人として認めたい自分がいたのだろうけれど、それが許されない組織の問題があったのだろう。
子供にごめんなさいといわせるのが、むつかしい世の中になったと思うのである。謝ったって何にもならない。本当に困っていた人が怒るのは無理ないが、怒っていた人たちのどれくらいの人が本当に困っていたのかなあ、などと考えてしまった。
注文していた本が続々と届く。本の梱包は厳重なものが多く、包みを開ける作業が煩わしい。ひどく折れ曲がったりしているのは確かに不愉快だけれど、もう少し適当でもいい感じはする。新品の破れなどは以前なら気になっていたかもしれないが、今となっては個人的にどうでもいい。新品であるとか中古であるとかが関係ないのが本である。どうせ書き込んだり折り目をつけたりするわけで、少し古い方が使いやすかったりする。CDなんかもそうで、ビニールがべたべたついているものより中古品のほうが扱いやすい。開けてしまわないと使えないものなので、パッケージが美しい必要などまったくない。
農相の自殺のニュースがあって、なんでだろう、と思う。いろいろ騒ぎがあったらしいが、そうだったのかといまさらながらに思ったりする。そういえば、この人が高熱水費の人だったのか。一時期新聞の川柳欄で何とか還元水の話題が多かったので不思議に思っていたので、やっと謎が解けた。というか、最近はまじめに新聞を読んでいなかった。僕は新聞マニアの時期があって、必ず朝から最低4紙に目を通さなければ気がすまなかったのだけれど、今はいつの間にか興味を失っていた。あんがい新聞は必要無いものだけれど、面白いことには違いがない。また新聞を読むのも楽しいかもしれない、などと思う。
自殺自体は大変に痛ましいことであるし、まわりもそこまで追い詰めてしまったということに対して嫌な感じもする。悪さをする人を一方的に糾弾する姿勢は幼稚である。まあ、凶悪犯罪にはもっとやって欲しい気もするが、政治的なものは、どうも気分が悪い。
さて自殺に関していうと、そのように個人を追い詰めてしまった状況も確かに構造的な問題はあるにせよ、一種のテロであるし、殺人だと思う。人には死ぬ自由があるという考え方も状況によっては考える余地があるのかもしれないが、少なくとも政治的状況で自殺をするのは、行為としてはテロであろう。人が死ぬことは、他にも影響がある。自分の命であるから自分のものだという考えは幼稚な人のものであろう。人は関係性の中で生きている社会的な動物なのであるから、自ら命を絶つという行為は自分を殺すということであって、殺人行為と同意なのである。他者がいないので法的に罰することができないだけのことであろう。
何も死ぬほど深刻なことなどは何もない。深刻にしている社会状況のほうがどうかしている。さっさとやめてしまえたらよかったのに、それすらできないという考えに閉じこもってしまった不幸が、自分を殺すという殺人行為まで犯させてしまったのであろう。償いもできないので非常に性質の悪い殺人である。
なにより家族が可哀相である。この人を愛している人だっていただろうに、と思うと、やりきれなくなる。
じゃあ犯した罪はどうなるんだ、という声も聞こえそうだが、だから本当は個人の問題じゃなくて、組織の問題なんじゃなかったのかと僕は疑っているのである。本当は個人として認めたい自分がいたのだろうけれど、それが許されない組織の問題があったのだろう。
子供にごめんなさいといわせるのが、むつかしい世の中になったと思うのである。謝ったって何にもならない。本当に困っていた人が怒るのは無理ないが、怒っていた人たちのどれくらいの人が本当に困っていたのかなあ、などと考えてしまった。