風音土香

21世紀初頭、地球の片隅の
ありをりはべり いまそかり

国境を越えて 2

2004-09-15 | 風屋日記
ベトナムのハノイに「ザ・メー(お母さん)」という
ストリートチルドレンを保護するNPOがある。
昨年のバンコクでのACCFで彼らの歌を聴いた。
その歌の意味は「お母さん、私は元気」から始まって、
「離れているけど寂しくないよ。勉強もして友達も沢山作る」という内容になり、
最後が「大きくなったら小さな花になりたい」という歌詞だ。
日本語訳を読み、その健気さに涙が出た。
控え室での彼らの表情の乏しさがとても気になった。
今年のACCFにも彼らはやってくる。
日本での滞在を楽しんでくれればいいが。

タイからは東北地方(イサーン)の学生寮の子達がやってくる。
貧しかったり、家の近くに学校がなかったりという子達が、
畑で野菜などを作りながら一緒に生活している、メコン川沿いの寮だ。
都市部スラムの子供達や少数民族の子供達にも教育機会を与える援助をしている
日本のNPO「シャンティ国際ボランティア会-SVA(http://www.jca.apc.org/sva/)」と
その現地法人である「シーカー財団(http://sikkha.at.infoseek.co.jp/)」により運営されている。
SVAはタイの他にもラオス、カンボジア、アフガニスタンで精力的な活動を行っている。
ACCFもSVAが主催するイベントだ。

3年前のACCF参加以来、SVAの方々との付き合いの中で様々なことを学んだ。
SVAの発足が約20年前であり、私と同年代の大学生達が始めたということ。
(その頃の私といえば、毎日遊ぶことしか考えていなかった)
援助は直接的なものではなく、自助努力に対する援助でなければ意味がないこと。
(援助を受ける人達を「待っているだけの存在」にしてはいけない)
最もショックだったのは、
子供達やスタッフを日本に連れてくるということが大変困難であるということ。
東南アジアの人達に対して日本政府は、余程の裕福層でないとビザを発給しないらしい。
不法滞在、不法就労の問題があるのだという。
今回のACCF開催にいたるまでの、関係者の努力は想像を越えたものだったに違いない。
心から感謝したい。

コメントを寄せてくれているrwwaさんもSVAのスタッフだ。
私の会ったSVAの方々は、みんな明るく、優しく、そしてエネルギッシュ。
その人達の活動を見ていて、私も何かしらお手伝いしたくなり、
昨年からSVAの維持会員となった。
会員が増えれば増える程心の輪が広がり、また活動資金も増えていく。
平和への祈りや子供達の笑顔も増えていく。
ぜひ皆さんにもお勧めしたい。
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国境を越えて

2004-09-14 | 風屋日記
小さい頃はアラビアンナイトの話が大好きだった。
あの不思議なお話の世界にいつか行ってみたかった。
今考えると「シンドバット」はイラク、「アリババ」はイラン、
「アラジン」はアフガニスタンからタジキスタンのあたりが舞台かと思う。
もちろん治安事情が許せば今でも行ってみたい。
トルコやリビア、シリア、ヨルダンあたりの遺跡や文化にも興味がある。

親父が古い映画のファンだったので、古い映画をよく見た。
中でも「カサブランカ」や「モロッコ」「外人部隊」「望郷」がお気に入りで、
当然その舞台となったモロッコやアルジェリアに憧れたこともある。
小学生の頃のことだ。

3年前と昨年秋の2度、
アジア子ども文化祭(ACCF-Asian Children's Culturai Festival)に
うちの神楽の子供達が招待されて出演してきた。
場所は2度ともタイのバンコク。
3年前はタイ国内のスラムや農村、少数民族の子供達との共演。
貧しいとされる東北部(イサーン)や北部のモン族、カレン族の子供達との交流は
とても楽しいものだった。
みんな明るいけどシャイで、優しい人達だった。
昨年は底抜けに明るいタイのスラムやイサーンの子達、ベトナムの子達、
小さくて可愛いインドネシアの子供達、
シャイで大人しいけどいつもニコニコのミャンマー、カンボジア、ラオスの子供達と一緒だった。
東南アジア、インドシナ半島の文化への憧れをもった。

こうやってみると、私の憧れる国は素朴な文化が残っている国になるのかな!?
他にも中国南部やバングラディシュ、ブータンなどのアジア地域、
チェコやセルビアなどの東ヨーロッパの文化にも興味がある。
そこにあるのは「生きる」エネルギーと「生活」の匂い、そして「信仰」。
私達に最も大切なものではないだろうか。

今年10月11日(月-体育の日)、
ACCFが、今年は東京のよみうりホールで開催される。
私ももちろん駆け付けて、あの優しい笑顔達に再会するつもりだ。
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国柱会

2004-09-13 | 風屋日記
祭で神輿を担ぎ、今日は筋肉痛・・・。

さて、今日はまた別なウンチク話を。
私は満州国建国前後の歴史にとても興味がある。
日本陸軍の手先だった甘粕満映社長や大陸浪人川嶋浪速、
その養女で、男装の麗人として陸軍のスパイを働いた川嶋芳子、
有名女優という立場を関東軍に利用された、実は日本人の李香蘭など、
ひとりひとりがテーマになるほどの群雄割拠の時代。
その時代の本を読んでいるうちに、とても面白いことを発見した。

旧日本陸軍の中でも中国大陸で名を馳せた関東軍、その参謀に石原莞爾がいる。
関東軍が関与したとされる数々の事件の首謀者と目され、
中華民国政府に幽閉されていた旧清国皇帝を密かに連れ出し、
満州国の建国を実現させた黒幕としても知られている。

・・・と書くと、まるで悪の権化というか、
旧陸軍の罪を一身に背負う人物のような感じを受けるかも知れないが、
実はアジアを今のEUのような形にしようという理想に燃え、
(方法はともかく)悪い意味ではない「八紘一宇」を実現しようとした人物であり、
他の陸軍上層部とはひと味違う人間らしい。
実際当時の事を書いたものを読んでみると、「平和主義者」と書いてあるものもある。
陸軍大学出のエリートとして欧州の日本大使館付武官も長く経験し、
世界的な視野を持っていたらしい。

彼は仏教系の政治団体「国柱会」の熱心な会員であり、
その教えが彼の思想の源となったとのこと。
大政翼賛体制だった当時にしてはリベラルな考え方の団体だと思う。
「仏教の教えをもって、生き物の共生を図り、人生を考える」というその思想の基本から、
「仏教を基本にもつアジアの人達同士で共生を図っていく」という考えこそ、
彼がイメージしていた「八紘一宇」だったのではないか。

ところで国柱会にはもうひとり、現代によく知られた会員がいた。
宮沢賢治である。
「法華経の思想をもって、全ての生き物の共生を図る」という賢治の思想もまた、
国柱会の思想が源にあるような気がする。
というより、賢治は元からそういう考えをもっていて、共鳴したというべきか。

石原莞爾と宮沢賢治。
泣く子も黙る関東軍参謀と野に住む心優しい農学者&文学者。
その2人の思想の源泉が同じ所にあるというのは、とてもおもしろい。
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野球仲間

2004-09-12 | 風屋日記
祭で3日間休むと書いておきながら、毎日書いてるし(笑)
昨日のヒット数は過去最高の65。
BLOG全体で見るとたいした数字じゃないのかも知れないが、
知人に広くPRしているわけでもなく(6人程には教えてあるが)、
ひっそりと続けている割には、私的にはとても多い数字に感じる。
とてもうれしい。


さて、高校野球秋期大会が真っ盛り。
親やファン、OBなどは結果に一喜一憂しているが、
選手本人達は他校にも知り合いが沢山いて、これがわりと仲がいい。
同じ中学校出身者からはじまり、どんどん知人の輪が広がっている。
ベンチに入れなかった奴を他校の奴が励ましたり、
負けた相手に賞賛のメールを送ったり、
見ているととても微笑ましい。
これから来年の夏にかけてますますその輪が拡がり、
大人になっても交友は続くのだろう。
その関係を面白く感じると同時に、ちょっとうらやましくもある。

中学3年の次男も、中総体引退後に召集された、
市内の中3を集めた合同チームでの活動で、
他の中学校の選手達と仲良くなっている。
これもそれぞれが高校進学後、知人が増えるきっかけになるのだろう。

息子達はいい仲間を増やしつつある。
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人の最期

2004-09-11 | 風屋日記
昨日の祭初日でかなり疲れた。歳かな・・・。
朝起きてみて、かなり疲れていたので今日の神輿は休むことにする。

一昨日のrwwaさんのコメントを読んで色んなことを感じた。
うちの親父の最期の言葉は「お母さんは?」
肺の病気で、最後の3日間は血中酸素濃度が下がり、半分意識のない状態だった。
2晩ほどは寝ていない状態だったため、体力が持たないと思い、
耳元で「少し寝た方がいいよ」と言ったら、うん とうなずき、
身を起こしてゆっくり歯を磨く仕種をした。
もうろうとした中で、いつもの寝る前の習慣が残っていたのだろう。
黙って見ていたら、歯を磨き終わったらしく「お母さんは?」と
母の事を聞いてきた。
「お母さんももう休んだから、お父さんも休みな」
と言うとゆっくりうなずいて身を横たえ、そのまま呼吸が停まった。

世の中には予期せぬ理由で、一瞬のうちに命を落とす人もいるので、
その人らしい最期を迎えることができるというのは幸せな事なんだと思う。
その「その人らしい最期」は、見送る人に色んな思いを抱かせる。

私の伯父と伯母は、昭和のはじめ頃に駆け落ち同然で結婚したという。
いわゆる「身分の違い」ってやつで、伯母がお嬢さんだったらしい。
伯父と伯母はその後50年にわたり、仲良く連れ添ってきた。
伯母の最期、下顎呼吸を続けている時、
見下ろしていた伯父が突然伯母の頭に手を置き、「さよなら」と言った。
その瞬間伯母の呼吸が停まり、血圧がすとんと落ちた。
そばに居た私はその光景に驚きつつ、とても感動したことを覚えている。
伯父も2年前、いかにも伯父らしい最期を96歳でとげた。

人が生きるということは、一瞬ごとに歴史をつくっていくことだ。
人の色んな思いをリレーして、世代は移り変わる。
思いをリレーする瞬間というのも最近になって感じるようになった。
昨夜のNHKTVでの「神楽を受け継ぐ子供達」の中で
小さい孫に教える神楽の代表が、孫の初舞台を見ながら
「私の初舞台の時の、当時代表だったおじいさんの思いを感じた」
と言った瞬間も思いをリレーした瞬間だと思うし、
最期もそうなんじゃないかな。

私の最期はどんな迎え方になるのだろうか。
せめて自分らしい、納得した最期を迎えたいものだなぁ。
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2004-09-11 | 風屋日記
今日は以前書いた地元の祭。
・・・ということで、どたばたで書き込む時間がない。
申し訳ないが、3日間のお休み。

皆さん、昨日の書き込みに対し、たくさんのコメントありがとう。
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息子の誕生日

2004-09-09 | 風屋日記
今日は長男の誕生日。
とはいっても高校野球新人戦の最中で、かつ定期考査テスト初日、
帰りは遅く、帰るなり机に座ってしまうので、
せめて夕メシ後にショートケーキ食うか。
プレゼントは「中古で良いからパソコン」と言われたが
(タイの友人達とのメールに使用)
今年はそんなこんなで出費が多くてNG (^^;
携帯電話の機種変でガマンしてもらうことにした。

それにしても、もうあれから17年経ったんだなぁ。
私が祭で神輿を担いでいる最中に陣痛が始まりながら、
ちゃんと祭が終わってから生まれてきた17年前。

生後6カ月で高熱を出し、救急車で運ばれた日。
あの時は「命が助かっても麻痺が残るかも知れない」と言われ、
「生きてさえいてくれたら」と願ったものだった。

どうしても祖父母宅の都合がつかず、初めて無認可保育所に預けた日。
「たくさん泣いた後は、TV見て元気に体操してました」との記録を読み、
いじらしさに涙が出た。

母親の勤める幼稚園を卒園する日。
小学校という、親のいない新しい世界に飛び込む覚悟の表情をしていた。
私とお揃いのブレザーを着ての卒園式だった。

野球の学区大会と文化会館での初めての神楽披露が重なった小6の頃。
準決勝終了後に車で文化会館に向かい、披露も大成功。
取って返して決勝に臨み、初優勝。
「よくやった」と誉めると「父の日だしね」と返しやがった。

中学校の野球部でレギュラーを狙い、
大量の鼻血と涙を流しながら、個人ノックのボールを追った日。
終わった後は出血がひどくひっくり返ってしまったっけ。

神楽の公演でタイへ行った時は、終了後のさよならパーティーで、
固まって見ている他の神楽の子達を尻目に、1人でタイ人グループと一緒に踊っていた。
その時知り合った友人とは、今でもメールや手紙で付き合いがある。

そして私の母校である高校へ入学し、私が踏み出せなかった野球部へ入部。
3年間続かなくても仕方がないと思っていたが、よくやっている。
来年は受験生となり、いよいよ家を離れていくのだろう。
あまり先ばかりを心配せず、自分の思う道に踏み出していけばいい。
17年間いっしょに転げ回ってきた私としては、ちょっと寂しいけれど。


長男の事ばかりでなく、次男の事もそのうち書こうかな(笑)
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高校時代

2004-09-08 | 風屋日記
昨日の書き込みに対して、
rwwaさんから涙が出そうなコメントをもらったので、
引き続き、昔日の思い出を・・・。

中学生の私は、よくひとりで街をぶらつくことがあった。
色んな店先を冷やかして歩くのが面白かった。
(それは今でも好きなのだが・・・)
中学生だった私が憧れたサブカル系の雑貨屋は、
メインストリートの裏通りにあった。
「金曜日」という名のその店は、
隣の「ぐがーん」という狭い喫茶店と奥で繋がっており、
長髪の若い店主が両方を切り盛りしているのが分かった。

「ぐがーん」の方は黒い板壁に窓だけ白い縁取りで、
店先には錆びたアルトサックスが郵便受けとしてぶら下がっていた。
「金曜日」は駄菓子やのように店の前まで商品を並べる店構えだった。
いつも数人の、長髪やら髭面やらのヒッピー然とした若者が、
店の中でたむろしていた。
置いてあるものは中古品が中心だったように思う。
今でいえばリサイクル店のようなもの。
そこで私は丸い缶に入った2枚組中古レコードを見つけた。
当時既に解散していたフォークグループ「赤い鳥」のBEST盤だった。
日本の地方古来の土臭い音楽を取り入れていた赤い鳥は
当時の私にはちょっとした憧れだったので、
そのレコードに強く引かれたことを覚えている。
その時、確か持っているお金で足りず、結局買うことができなかった。
ぼんやりとした額縁に縁取られ、モノクロで思い出されるその記憶は、
何か大きな出来事や特別な体験があった訳でもないのに、
私にとってとても大切な思い出のような気がする。

「金曜日」はすぐになくなったらしく、
高校時代は学校帰りに本屋へ寄り、
庫本を一冊買って「金曜日」の分まで広くなった「ぐかーん」へ。
それが日課となった。
JAZZのことを教えてもらいに時々行っていた
町で唯一のJAZZ喫茶「エル・グレコ」と合わせ、
あるいは当時夢中になって読んだカミュやドーデの本も一緒に、
私の高校時代の全てがそこにある。


つらつら、とりとめのない思い出話で失礼。
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2004-09-07 | 風屋日記
お固い話題が続いたので、チョト身近な話題を・・・。

私の住む町の住宅地図昭和51年度版が実家にある。
私が高校1年の頃の発行だ。
調査そのものはその前年か前々年だろう。
毎週末実家へ行くが、
その度に開いてみると時間を忘れる。

「あ、ここはこうだったんだ」
「そうそう、こうだったよなぁ」
肉屋があり、八百屋があり、酒屋がある。
あちこちにレコード屋や喫茶店がある。
中学生の私が憧れたサブカルチャー系の雑貨屋もあった。
暮らしがあり、文化があり、人がいる。
(ただの地図なのに、人が沢山歩いているのが見える気がする)
生活も、夢も、情報も、全てこの町の中で完結していた。
「いい町だなぁ」とつくづく思う。

今は大手スーパーやショッピングモールが巾をきかせ、
昔ながらの商店がひとつひとつ無くなっている。
文化も情報もすべて首都圏からやってくる。
市民の目も、どこか違うところに向いている。
常に急ぐ人の流れはばらけ、車だけが知らん顔で走り去る。
公共の施設は無機質なハコでしかなく、どこかにありそうなものばかり。
もしかしたら肉屋や八百屋、楽器屋や映画館のある町が、
「いい町」の基準なのかもしれないなーと、今になって思ったりする。

9/10から祭が始まる。
中心となるのは、かつてメインストリートだった空店鋪だらけの商店街。
祭の3日間だけは人の波で埋まるが、入ってみたい店はすでにない。
せめて人波に揉まれて昔日を偲ぼうか。
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テロ

2004-09-06 | 風屋日記
いかな理由があってもテロは許せない。
何か大きな力に対する抵抗行為だということはわかるが、
犠牲になるのは、その大きな力とは関係ない弱い人達だ。
人として絶対にしてはいけないことだ。
イデオロギーも信仰も、哲学も関係ない。

ただ、そのテロを招いているのは誰だ?
「テロと戦う」と宣言している
ブッシュやプーチンやシャロンがやっていることはテロじゃないのか?
第3者的に見ると、
「ガキ大将が誰かを虐め、虐められた者が更に弱い誰かを虐める」
という図式にしか見えない。
その都度痛みを感じるのは、その周辺にいる弱い人達だ。
暴力は暴力しか生まない。
ロシアの学校占拠事件の犠牲者の遺族がTVのインタビューに対し、
「けものですらこんなことはしない。絶対許さない」と言っていた。
その通りだ。
しかし、ロシア当局もチェチェンで同じように暴力を振るったことも事実だ。
暴力を振るった側は気付かない(あるいは気付かない振りをしている)。
第二次大戦中の中国・朝鮮半島における日本や原爆を落としたアメリカなど、
「やったこと」を棚に上げ、「やられたこと」のみ言い立てる。
これではいつまでたっても暴力の応酬は終わらない。
そして弱い人達が巻き込まれ、犠牲者が増えていくばかりだ。
相手に対する憎悪ばかりが増えていく。

アルカイダ、PLO、IRAなど、「テロ組織」と呼ばれる人達が、
なぜテロに走るのか、歴史を遡ってみると、
欧米の身勝手さが現在の状況を招いていることがわかる。
先進国と呼ばれる国々が、何を踏み台に発展してきたのかを、
よく考える必要がある。
でも、それらの国の国民すら、多分そういうことに気がついていないのだろう。
情報操作して、自分達に都合のよい情報だけを国内に流しているのは、
本当に北朝鮮をはじめとする「非民主国家」と呼ばれる国だけなのか?
自ら民主国家の代表と自負しているアメリカでは、本当にそういうことがないのか?
日本は?


人が人を殺めることは、どんな理由でも許されるべきことではない。
ましてその対象が市井の人々や子どもなどの弱者である場合は特に。
これはブッシュ達力の強い人達ばかりではなく、
ビン・ラディンやアラファト達にも考えて欲しいことだ。
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ごめんなさい

2004-09-05 | 風屋日記
昨日はサボった。
言い訳すると、何度もパソコンを開けてみたものの、
ADSL回線が繋がらなかったのだ。
たまにあることだが、混んでいたのかなーと思う。

閑話休題。
今朝の朝日新聞に、小林よしのりの「ゴー外1」の広告があった。
いつもは基本的に私と意見を異にする小林よしのりだが、
今回のコメントは目を引いた。
----------------------------------------
イラク人質バッシングは
「自衛隊撤退」の世論を恐れた政府による
情報操作の結果だった!?
官邸・政治家の流したデマと、
それに乗った保守マスコミの虚報ぶりとは!?
----------------------------------------
そんなことはじめからその通りなんだけど、
小林よしのりは「保守マスコミ」の一部だと思っていた(笑)

情報操作はよくあること(恐)として、
世論がそれに簡単に乗ってしまい、
「自己責任」論が一人歩きしたのは、私にとってショックだった。
ことは人質事件に留まらない。
「アメリカからの押し付け憲法を改正」だの
「痛みを分かち合う三位一体の改革」だの
政府のブラフにより世論は簡単に揺れ動いてしまう。
成立過程は知らないが、
世界に誇れる条文を持つ憲法を何故改正しなければならないのか?
(世界中から評価されている憲法なのだが)
三位一体とは言いながら、閣僚・議員の痛みがない改革ってどうなの?

エライ方々の発言や、報道は注意して見聞きし、
事の本質を自分で考えることの重要さを痛感する。
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2004-09-03 | 風屋日記
今日は昨日に続き、「教育2」とする予定だったが、
下記ニュースを読み、あまりの怒りに急きょ変更。
正誤如何を世に問う!!!

----------------------- 産経新聞より -----------------------

米国産牛肉、年内にも輸入再開 BSE検査緩和 政府方針
20カ月以下は除外

 BSE(牛海綿状脳症)全頭検査の見直し問題で、政府は二日、検査対象外
とする牛の月齢を暫定的に生後二十カ月以下とする方針を固めた。国内で見つ
かった最も若い感染牛である生後二十一カ月を下回る二十カ月以下が消費者の
理解を得るぎりぎりの線引きと判断した。食用牛が若いうちに出荷される米国
では二十カ月以下は肉用牛の八割を占めており、米国産牛肉の輸入が早ければ
年内に再開する見通しとなった。 
 BSEの国内対策を検証している内閣府の食品安全委員会は六日にプリオン
専門調査会で若い牛を全頭検査の対象から除外しても人への感染リスクは増加
しないとする報告書案を合意する見通し。
          (中略)
 これまで米国は、日本で確認された二十一、二十三カ月齢のBSEは国際的
な同意を得られていないとしているほか、牛の個体識別が不十分な米国では、
歯列で識別が可能な三十カ月齢以下の安全性を主張している。これに同調する
形で外務省内には二十カ月齢に慎重論があるが厚生労働、農林水産両省は二十
カ月齢で大筋合意した。
          (中略)
 これまで厚労、農水両省で検討された線引きの月齢は、国内で最も若い感染
牛の生後二十一カ月齢を下回る「二十カ月齢」、国際的に検査が困難とされる
「二十四カ月齢」、米国が危険性がないと主張する「三十カ月齢」の三案。
          (中略)
 検査コストの削減を考慮すれば三十カ月齢が効果的とする意見が厚労省内に
あったが、BSEの国内発生を許し事後の混乱防止で不手際が続いた教訓から
農水、厚労両省は消費者の理解を得やすい二十カ月齢を選択する方針となった。
 実際の検査除外となる月齢の線引きについて、食品安全委員会で審議するが、
当面は国内の最も若い発生例である生後二十一カ月齢を否定せず、暫定的に二
十カ月齢の線引きを容認すべきだとする意見が強まっている。
          (中略)
消費者の反応について政府関係者は「未検査を理由に牛肉を食べないという消
費者も二割程度予想されるが、若者ら二割は牛丼復活を歓迎する。残りの六割
の層に、政府が十分に安全性を説明し、米国が、顧客である日本人の意向を十
分に尊重する姿勢を示すことができれば輸入再開は軟着陸でる」としている。

------------------------------------------------------------

このニュースをどう思うだろうか。
私の怒りをいくつか挙げてみる。

・二十月齢以下がどうして安全なのか、全くわからない。
 ただ症例がなかっただけで「安全」と判断するのなら、
 「私は癌にかかったことがないから大丈夫」と言っているようなもんだ。

・アメリカが「安全と言っているから」と同調する外務省にも呆れたが、
 検査コストの削減を理由に三十月齢ボーダーを検討した厚生労働省もどうなの?

・未検査を理由に二割の国民が食べない・・・と分かっているなら何故基準を緩めるのか。
「歓迎する」と言われた若い人達!! なめられてるぜ!!

日本政府が国民の安全についてどう考えているのか、これでよくわかった。
ことは「食」に留まらない。
防衛に関しても「国民を盾にしてアメリカを守る」ことになるんだろうね。
      (`へ´)フンッ。
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教育

2004-09-02 | 風屋日記
「市内にゃ全校生徒が30人位の学校もあるが、かかる経費は一緒だから無駄だ」
「7万程度の人口だったら小中学校は各1校あればいい。金は公共事業にまわすべきだ」
「1クラス60人なら先生も少なくて良いんじゃないか? 昔はそうだった」
「少人数教育だの、不適応対応だの、先生ばっか多くて人件費がかかりすぎだ」
「だいたい学校不適応とかいうが、やる気がないだけじゃねぇのか」

これらはみな、とある市議会議員のことばだ。

「市の予算で各校に加配講師を派遣してるのだから、成果を上げてもらわないと困る」
「学校の遊具は安全第一。ちょっとでも危ない物はPTAから言われる前に撤去」
「公立幼稚園予算がない。非常勤から常勤の園長になったから事務担当職員はおかない」
「幼児は保育所にまかせ、幼稚園は民間だけでいいかも知れない」
「PTAの活動は教委からも助言・協力します。ただしお金はありません」

こっちは市職員のことば。



ひとつひとつの言葉に対して何かを言うつもりはない。
世の中に様々な意見や考え方があることは承知の上だ。
ただし、2つだけ言わしてもらう。
(上記の方々がココを読んでいるとは思わないが)
「教育と福祉は未来に関わる投資だから効率を求めるな」
「学校は行政とPTAと地域で支え、地域のランドマークにすべきだ」
地域が学校を支え、学校が地域に活力をもたらす。
日本の教育は昔からそうだったはずだ。
1クラスの人数より、そういうことを思い出して欲しい。

学校不適応、少年犯罪、リストカットなどの精神不安定・・・
子ども達に関わる様々な問題が取りざたされているが、
子ども達自身は何も悪くない。
恐らく親達も一生懸命で、責められるべきではない。
ってか、親も含めた大人、ひいては社会全般の責任かな。

『子どもはモルモットじゃない』
「ゆとり教育」「学力低下対応」など、方針をコロコロ変えるべきではない。
自分達が進むべき方向性を見失い、教育に不審を抱いてしまう。

『子ども達に夢を持たせて欲しい』
夢や目標を持って努力することを学んで欲しい。
そして努力したことが報われる社会を形成しなければならない。
将来の安定のみを求めるのではなく、何度も挑戦できる社会にするため、
様々な福祉を充実させる必要もある。



教育や福祉は国、地域の未来を決める。
政治や行政に携わる人達にもそういう認識を持って欲しいなぁ。
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2004-09-01 | 風屋日記
今年も9月の10日から12日まで地元の祭が行われる。
お盆前から山車小屋ができはじめ、
夜はあちらこちらから練習のお囃子が聞こえ、
市内は当日に向けて徐々に盛り上がってくる。
以前青森のミニコミにこの祭の紹介を載せたことがある。
以下はその時の記事。今日は楽しよう(笑)

---------------------------------------
 熱気を孕んだ闇の中を、提灯の明かりでボーッと
浮かび上がっている無数の神輿が、妙にテンション
の高い雄叫びや手拍子につつまれながらゆっくりと
動き始める。周囲は目だけをやたらとギラつかせて
いる神輿の担ぎ手と観客に埋め尽くされ、神輿が黒
い波間に漂いながら流れていく灯篭の様にも見える。
約120台の樽神輿による蛇行やもみ合いの中で担ぎ
手達のエネルギーは爆発し、歓声や怒号やかけ声や
飛び散る汗につつまれて、神輿は次々にうねるよう
に流れていく。
 2時間近くも続いた神輿のもみ合いの後、腫れぼ
ったく膨れ上がった空気をさますように、祇園祭の
流れをくみ、哀調を帯びたお囃子に乗せて、約20台
の山車によるパレードへと場面は移っていく。
 400年以上の歴史を持つとはいえ、神楽権現舞、
鹿踊、神輿、山車と、この祭は特別変わったことを
する祭ではない。全国的に有名でもない。しかし、
人口7万人の町で120台の神輿や20台の山車は半端
な数ではない。市民にとってこの祭は観光のために
ある祭ではなく、年に一度の魂の咆哮なのだ。
 最近は観光客も多くなり、30万人の人出などとも
言われるが、人出があろうとなかろうと、人々は数
カ月も前から準備をはじめ、遠くに住む人もこの日
に合わせて帰郷して、祭の日には神輿を担ぎ、山車
の太鼓を叩く。そして熱い祭が終わると田圃は収穫
の季節を迎える。

  (「ゆきのまち通信」00年8月号より 一部改)
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コメント (7)
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