風音土香

21世紀初頭、地球の片隅の
ありをりはべり いまそかり

「切羽へ」

2012-03-08 | 読書
何も起きない。
登場人物達による熱い心情の吐露も無い。
ただ淡々と、炭坑閉鎖によって寂れた島で
主人公は画家の夫とともに暮らしている。
養護教員として勤める小さな小学校での
教員達や子ども達と触れ合いも、
島の人々との交流もゆっくりとした時間の中で
灰色の空や周囲の海の風景とともにながれる。
それでも読者は
何気ない日常のシーンのひとつひとつから
登場人物達の言葉や行動のひとつひとつから
切ないほどの心情を自然に汲み取ることができる。

表面的には何も起きない、静かな物語。
でも実際、現実の世界では
他の小説のような激動や展開があることの方が少ない。
心の中で熱い思いをぶつけることも多くないだろう。
日常のほとんどは淡々と
特別大きな変化も無く送られているはずだ。
その中で生まれることがある心の中の小さなさざ波や
ささやかな思いを人々は飲み込み、
それによってちょっとした行動や言葉が生まれてくる。
それが例え本人にとっては「切羽」に向かう
思い切った行動だとしても
周囲の人間達に微かに波紋を投げ掛けながらも
日常はそれとは関係なく流れていく。
そういう意味ではとてもリアルな作品だと思う。

かつて、こんな小説を書いてみたかった。
何も起きない。熱い独白も無い。
けれども登場人物のひとつひとつの行動により
それぞれの心情がにじみ出てくるような小説。
読者の想像力をかき立て
いつしか自分をその身に置き換えて感じる小説。
それにはそれなりの筆力が必要だ。
この作者のことはよく知らず、作品も初めて読んだが、
読了後に作家井上光晴の娘さんと知って納得。
もう少しこの人の作品も読んでみよう。
直木賞受賞作品。

「切羽へ」井上荒野:著 新潮文庫
コメント
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