吉澤兄一のブログ

お江戸のど真ん中、平河町から、市井のトピックスを日記風につづりたいと思います。

目にあまる社会的インフラ族の公害

2011年05月13日 | Weblog
 日本は、教育国だという。官僚国家だとも言われる。一般の庶民から見れば、高い教育を受けたエリートが支配する民主自由国家なのだ。自由で民主的に施政される国の代表国だとも言われる。公平に負荷された税金を納めていれば、だれでも国会議員に立候補できる。だれでも、市長や知事にさえなれる。

 だが、現実は違う。行政を支配する役人官僚になろうとしても”試験”がある。公平だというが、高いレベルの受験校から東大や国立大を出たようなヒトでなければ合格できない試験がある。いわゆる環境やお金がなければ、とても届かないハードルだ。そういうハードルで自分たち種族を作ってきたのが、いわゆる官僚やエリート帰属社会だ。二世三世になろうとしている代議士も、官僚も、このたび世の中を騒がせているインフラ族も”仲間”なのだ。

 このような方々の得意が”想定外”。この度の大震災や福島原発の大事故も”想定外”なのだ。想定外なのだから、想定の責任をとれといわれても取れないのだ。想定して、想定内で想定したシゴトをちゃんとしてきたことが評価されて、当たり前なのだという。いわゆるエリートは、学者や科学者でも役人でもインフラ企業の経営に携わる人々でも”条件や想定”をセットする。想定外を無視し、考慮外にし、想定内のことを”自由に”行う。平気で”人間は神様ではないのだ”という。そして、想定内のことを自由気ままに利己的に”担当”するのだ。

 この度の原子力や電力会社にかかわってテレビや新聞に出た人々の何と高慢で不遜なことか。少し昔の航空会社や郵便会社の人々もそうだった。その前の鉄道や高速道エリートの方々も、そんな感じでした。道路や公共事業を担当する国土交通省や農業や林業水産業などを所管する農水省のお役人もそうでしたが、国の公共インフラ関係者の不遜は、一般庶民への目線だけではない。原子力や電力に天下る経済産業省官僚も彼らエリート族の典型だ。自然や港湾やみどりの環境に対しても高慢だ。自然のチカラを勝手に見積もるのだ。

 自然に聞いたり、庶民に聞いたり、被災者に聞くことを怠る。聞けという何気ない言葉を耳にすると、アンケートをする。自分たちの机上で質問と回答肢をつくるのだから、”イタイところはおろか被災者が願っていること”にも迫れない。高慢で不遜な自分たちを自省することも想定外だから、汚染土や被災がれきの感覚すらつかめない。イマジネーションというか想像力欠乏種族なのだ。

 官僚だけを云々しているのではない。東電などをはじめとする社会的インフラ族の方々が、早く自然や環境や一般の人々の声に謙虚になってくださることをお願いする。

 被災者の特によわい、上からでは目の届かない人々の様子を、ご自分たちの目や足で掴んで手当てしてください。お願いする。
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