吉澤兄一のブログ

お江戸のど真ん中、平河町から、市井のトピックスを日記風につづりたいと思います。

変化(チェンジ)の過程としての2010年の意義

2010年01月12日 | Weblog
 オバマ米国大統領のチェンジや自民党から民主党鳩山首相への日本の政権交代の2009年を"変化”の年と捉えることに疑問を持つ。国や社会および世界の価値基準や体制に大きな変化を認識することができないからだ。もともと”変化”は、”革命”のように一瞬にして出る現象ではない。結構長い過程としての時間をともなう現象のような気もする。

 変化を希望して政権交代を選択した日本の2009年だが、交代は変化への"期待”でしかない。国の姿や社会のあり様を変えてほしいがゆえに、政治を行う政権の交代を選択したのだ。新しい政権や体制が、いままでと違う新しい政治を行って、いままでと違う”自分たちが希望する”社会や国をつくってくれるであろうことを願ったのだ。

 そのような国や社会への変化のスタートの年が、2010年。戦後の団塊の世代生まれの方々が61~63歳、ほとんどのヒトが(定年)退職し、近く年金支給が開始される2013年前後を鶴首している時期だ。年金支給以降のささやかな夢希望はあるが、ただいまは毎日の”労働”がなく、家庭の中の粗大ゴミ的な扱いにいささか面くらって暮らしている。

 この国の高度発展やただいまの国の姿をつくってきた彼らの少し前の世代は、結構それなりに楽しそうな年金生活をしている。自分たちのあとのただいま50代にある世代は、政治の世界においても経済や企業の世界においても”中心的な”扱いを受容しているように思われる。少し損しているように自分たちをみている団塊の世代のヒトたちだ。

 2013年65歳、団塊の世代への年金支給を皮切りに加速する高齢社会と福祉高負担社会だ。2010年は、ポスト2013年日本国家や社会の安心ビジョンを確かにしなければならないギリギリのトシだ。21世紀高齢社会が、ポスト団塊世代以降の高齢者にとっても、高齢社会を支える若い世代の方々にとっても"希望的な”安心社会にできるかどうかは、2010年をどのようなスタートの年にできるかなのだ。

 変化が希望的なそれになるか、そうなれないかは、2010年のあり様で決まりそうなのだ。政党分裂や政界再編もありですが、ただのゴタゴタ軽躁で希望や安心がどこかに行ってしまうようなことだけは避けてほしいと願っている。
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