因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

劇団唐組 第66回公演『少女都市からの呼び声』

2021-01-21 | 舞台
*唐十郎作 久保井研+唐十郎演出 公式サイトはこちら 下北沢駅前劇場 24日まで(1,2,3,4,5,6,7,8,9,10
 昨年の秋上演予定だった作品が冬の下北沢にお目見得した。これまで観劇した新宿梁山泊(2018年3月)、流山児★事務所(2019年12月)と違うであろう「呼び声」を聴きに、いざ!

 腹の中から長い髪の毛を除く手術を受けている田口に、親友の有沢とその婚約者ビンコが付き添っている。手術の途中、田口は雪子を探す旅に出る。現実の手術室から田口の旅、そして再び手術室へ戻るまでを描いた90分の物語だ。

 田口に福本雄樹、その妹の雪子を大鶴美仁音、雪子のフィアンセでありガラス工場の主任フランケ醜態博士に全原徳和と、すでに紅テントで大いに活躍し、めきめきと力をつけた若手俳優がさらなる重責を担って存分に魅力を発揮している。看護婦の藤井由紀は相手に容赦ないところが別役実作品にしばしば登場する「きつすぎる看護婦」風かと思えば、当然のように煙草を吸う奇妙なおもしろさ、オテナの塔へ行軍する氷の兵隊の連隊長の稲荷卓央は、軍服が抜群に似合う風貌ながらどこかずれたところがあり、同じくオテナの塔へ向かう老人の久保井研は、開演前に座長代行として客席に挨拶していたのと同じ人とはとても思えず、いずれも出番こそ少ないが「ベテランが脇を固める」などという 表現が凡庸に思えるほど強烈だ。それぞれ役作りには挑戦や葛藤があったと想像するが、俳優の誰ひとり悪目立ちしていない。自分の肉体と声を作品に誠実に捧げている。

 雪子は兄の田口に探されることによって、彼の夢の中だけに存在できた少女である。夢から覚めると、記憶は断片しか残っていない。雪子は探して探しても出会えない存在だ。だが田口の記憶からも消えた雪子を、客席のわたしたちはずっと覚えている。悲しく切ない物語だが、雪子の記憶を抱えて帰路に着く心持は、これまでの唐組観劇では味わったことのないものであった。

 紅テントの公演では、既に舞台化粧を施して異形の雰囲気を纏った劇団員のきびきびとした誘導で列を作り、夕暮れの開場を待つあの高揚感や、開演しても日常と非日常の境目が常に揺れ動いており、最後の屋台崩しによって一気にもたらされる陶酔と解放感は、紅テント観劇が唯一絶対というほど麻薬的な魅力である。それが劇場公演ではどうなるのかと懸念があった。

 しかしそれは杞憂であった。劇場という閉じられた空間であること、客席やロビーでの会話を控え、粛々と開演する過程において否応なく舞台に集中し、いつもより強く鋭く濃密な世界へ引きずり込まれた。田口の夢から満州、オテナの塔へと果てしなく広がってゆくかに思われたが、田口が夢から覚めたことで雪子の存在が消えてしまったこと、最後に蝋燭の灯りが一つひと消えてゆく様相は、雪子の心臓の鼓動が少しずつ遠のいていくかに見え、思わず「消さないで、消えないで」と呼びかけたくなるほど悲しく、切ない終幕であった。

 田口の台詞に「ここは、無い世界なんだ」という言葉がある。雪子は「居ない少女」だったのか。あそこで出会ったはずなのに、今ここに居ない人。わたしたちの日々は「出会い」と同じくらい、それ以上の「出会わない」ことによって綴られていくのだ。田口と雪子は夢のなかだけで出会った。探しても探しても出会えない相手なのかもしれない。

 下北沢駅前劇場での『少女都市からの呼び声』は、静かに始まり静かに終わった。しかし濃厚な劇世界から「しん」としたものを抱えて帰路に着くのは、何と幸せなことだろう。半数の客席で静かな観劇の続くなかで萎えてしまっていた演劇活力を少し取り戻せた。また劇場に通おう。

 再び紅テントでの観劇の日が訪れることを強く祈り願いながら、劇場での上演も選択肢のひとつとして、何らかの形で継続されたらと新たな夢を抱いている。

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