真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館
ピンク映画は観ただけ全部感想を書く、ひたすらに虚空を撃ち続ける無為。
 



 「ザ・SM 緊縛遊戯」(昭和59/製作:幻児プロダクション/配給:新東宝映画/監督:中村幻児/脚本:吉本昌弘/企画:才賀忍/撮影:伊東英男/照明:出雲静二/音楽:PINK BOX/編集:J.K.S/助監督:高原秀和・伊藤博之/撮影助手:阿部宏之/照明助手:田島正博/効果:伊佐沼龍太/出演:伊藤麻耶・聖ミカ・藤モモコ・縫部憲治・塩野谷正幸・飯島大介)。企画の才賀忍は、中村幻児の変名。当時の配給はa.k.a.ジョイパック、現:ヒューマックスのミリオンフィルム。
 別荘地の朝、左から各々赤青のガウンを着た女二人と、黒いガウンの男が凍りつく。右手に赤いロープを握り締めただけの男が、階段をうつ伏せに滑り落ちるやうな格好で死んでゐたのだ。実際の劇中では徐々に語られる各人の素性は、心なしか落ち着いても見える赤いガウンの女はデザイナーの池園愛子(伊藤)、狼狽する青いガウンの女は女子大生の遠野亜美(聖)。硬直する黒いガウンの男は県会議員の松永セイジロウ(飯島)、そして全裸で死ぬ男が、別荘の所有者・竹中ケンジ(縫部)。馬鹿馬鹿しく当たり前でしかないが、まあ飯島大介が若い若い、髪も黒い黒い(*´∀`*) さて措き、表面的には誰も竹中の死の真相を呑み込めてゐなささうな別荘を、その時制服警察官が訪問する。事件の発覚を恐れた一同には戦慄が走るが、警察官・久保田(塩野谷)は、単に戸締りの用心を告げに現れただけであつた。三人が安堵する中、立ち去つてはゐなかつた久保田に、窓の外から竹中の死体を目撃されてしまふ。どう見ても自然死には見えない竹中の死亡に関して、久保田は捜査を開始。しかも先の選挙で投票したと称する久保田に、松永の面は割れてゐた。竹中も含めて四人で別荘に集まり、飲み食ひし遊んでゐたまでは三人の供述は一致したが、肝心なところとなると、何れもが口をつぐんだ。やがて三人には、それぞれ脛に傷のある旨明らかになる。松永は、海岸道路の補修工事に関する特定業者との癒着疑惑。愛子は自身の商品を納品する際の、丸越デパート担当者に対するいはゆる枕営業。亜美は通ふ女子大の教授と、不倫関係にあつた。その事実をネタに強請(ゆす)られでもした場合、全員に竹中を殺害する動機は認められた。展開自体は兎も角、細部としては正直少々以上に粗雑かとも思へるが、出し抜けに国家権力と拳銃とを振り回し始めた久保田は、分裂の様相も呈し始めた三人を、残る二人は手錠に繋いだ上で一人づつ取り調べる。小六法でいゝから誰か持つて来て呉れ、それでこんなら―久保田―ブン殴る。供述内容が一々睦事に直結する構成はピンク映画として全く麗しく、濡れ場の背後に本来ならその時刻のその場にはゐない、観察者の久保田が黙して佇むショットは素晴らしく虚構的。撮影に魚眼レンズを用ゐることにより女体の質感を増幅せしめる手法も、近年さういふ撮影をする人が俄には覚えのないのもあり、実に新鮮に映つた。交錯する三人の供述、仮に真実を語つてゐる者が一人である場合、犯人以外のもう一名も、犯人を庇ふ構図が成立する。
 デフォルトで要請される煽情性は微塵も疎かにするでなく、といふかしかもアグレッシブに攻め続けた本格的な叙述ミステリーに、股間だけでなく期待も膨らませてゐたところ、仔細は清々しく省略した、久保田の底の浅い検分が火を噴く。竹中の口からは愛子の陰毛と、恐らく愛子の尿が。首筋からは亜美のマニキュアが付着した絞められた跡と、肛門からは、この三人の中では松永のものでしかあり得ない精液が検出される。とか何とかいふ次第で、何者か一名が竹中を殺害した訳ではなく、三人の共同正犯による犯行であるといふ久保田の推理は、冷静にならなくとも清々しくまるで論理になつてゐない。そもそも、痕跡が竹中に残された時点が死亡と同一時刻なのかといふ、検証から全く欠いてゐる。ところが、こゝからが更に凄まじい。観客に落胆させる間も与へず、映画は急旋回。糞尿料理の強制食事。亜美の股間に火の点いた蝋燭を突き立てる、などといふのはよく目にするギミックでもあるが、吊るだけならまだしも、完全に吊つた愛子の体の上にしかもよじ登つて責めたてるなどといふ、これで壊れない伊藤麻耶の頑丈さに感動すらしかねない、激越なSM描写。挙句にトリプルクロスに異常な、同性屍姦肛姦!プレイ内容を差し引けばあくまで冷静な本格叙述ミステリーから、エクストリームに暴走する久保田が司る、バゾリーニばりの鬼畜大宴会へと展開は豪快に移行する。更に更に、この正しく圧倒的な衝撃にさへ、今作は安住しない。動く筈のないものが動き出した驚愕を発条に、それまで積み重ねて来た全てを惜し気もなく引つ繰り返した、誇張でなくアッと驚く落とし処に物語を叩き込む。精緻な脚本と粘度と鋭角とを併せ持つた強靭な演出、そこにプログラム・ピクチャーといふ度重なる修練に鍛へられた堅牢な技術とが具はつた時、三人づつの女優部と男優部、一軒のハウス・スタジオだけで、映画はこゝまで辿り着けるのかといふ大いなる可能性を示した到達点。文句なしに面白い、吃驚するくらゐ面白い。たゞし同時に、昔は良かつた、昔は凄かつた。そんな繰言ならば、クズにでも吐ける。二十六年前の、決して大袈裟にでなく本作の偉業を、過去の伝説として、通り過ぎられた今や再び得ること叶はぬ遺業として済ませる訳にはなるまい。そのために作り手ではない我々市井のピンクスに出来るのは、淫らな風潮に乗せられずその場の空気に染められず、真に優れたピンク映画を、リアルタイムの荒野の中から名前に囚はれもせず一本一本拾ひ上げて行くことのほかないのではなからうか。

 なかなか登場しないどころか本当にオーラスにならないと姿を見せないため、ポスターには名前があれ本当に出演するのかどうかさへ不安になりかけた藤モモコは、狂宴をドタキャンした大友アケミに間違はれる、道を訊きに来ただけの女。女優三本柱の中で実は最も美形なのではと思へなくもない、ハーフ風の容姿と文字通り悲痛な叫びとで、無体な結末を鮮烈に加速する。

 以下は映画の感想とは全く力の限り関係ない、純然たる雑記である。今回今作を、天珍こと天神シネマに於ける、偶さかの順番上も文字通りのラスト・ピンクとして観たものである。因みにもう一本は、勝利一の「義母と教師 教へ娘の部屋で…」(2001)の、2009年旧作改題版「煽情教師 お義母さん、もつと!」。映画を観に来る訳では必ずしもない客層を排除した、果敢といふか素人目にも無謀な姿勢が綺麗に祟り、周年の節目は何とか二週間跨いだものの、残念ながら一年で力尽きる運びとなつてしまつた。結果論ではなく一般論として、営業上の戦略としてではなくあくまで観客目線でいふが、容易く全否定してみせるシネフィルの傲慢には与せず、ピンクスは積極的にせよ消極的にせよ、所謂ハッテンを容認すべきではあるまいか。それは積極的にとはいふまでもなく寛容―ないし節度―であり、消極的にとはリアリズムを意味する。
 補足すると、こゝで“節度”といふ用語も持ち出した真意は、一定の期間を経た一つの文化に対する一応の敬意といふ意味での、一種の保守の姿勢である。


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