弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

オプジーボ特許紛争~本庶佑氏側から

2024-06-28 14:27:30 | 知的財産権
がん治療薬「オプジーボ」については、ノーベル賞授賞学者本庶佑氏と小野薬品との間で特許紛争があったことを承知しています。
このブログでは先日、「オプジーボ特許紛争~小野薬品側から 2024-06-27」として記事をアップしました。
この6月、日経新聞の「私の履歴書」は一方の当事者である本庶佑氏です。ここでは、私の履歴書の記事から、オプジーボ特許紛争の内容についてピックアップします。

本庶佑 私の履歴書(19)がん免疫療法
2024年6月20日 日経新聞
『「PD-1」は免疫が亢進(こうしん)するのをコントロールするブレーキ役を果たしている。ならば、がんや感染症、関節リウマチなどの自己免疫疾患、移植された臓器の拒絶反応といった、免疫制御の欠陥を特徴とする様々な病気の治療へと道が開けるのではないか。
1998年春ごろだった。研究室メンバー数人で将来の臨床応用への可能性を探る研究が始まった。(PD-1の)がんに対する免疫効果をいち早く見つけたのが当時、大学院生だった岩井佳子くん(現在、日本医科大学教授)だ。』
動物実験の結果、がん治療薬としての効果が発現してきました。成果が論文として公表される前に特許を押さえておかなければなりません。
01年、京大内の「発明委員会」で、大学としてきちんと特許を持つため、弁理士を雇って申請してほしい、と力説しました。しかし大学本部の知的財産を扱う部署は実態は「もどき」の組織で人も資金も足りません。
『「(特許の)申請や維持に相当のお金がかかる。大学では無理です。先生、どこか企業に頼んでください。」と、担当者の回答はそっけなかった。
PD-1の一連の研究には全く関与していなかったが、付き合いのある小野薬品工業に依頼せざるを得なかった。』

本庶佑 私の履歴書(20)オプジーボ
2024年6月21日 日経新聞
『「PD-1」に関する特許は、いくつかの別のテーマで共同研究していた小野薬品工業に援助をお願いし、特許出願することになった。
特許は普通、申請後1年半ほどで公開される。2002年の論文発表後、直ちに抗がん剤の開発に着手してほしいと小野薬品に依頼した。
しかし、小野薬品は関西を基盤とする中堅の製薬会社で、当時、がんに関する医薬品を扱っていなかった。臨床試験(治験)まで含めると数百億円かかるかもしれないハイリスクな開発に尻込みした。』
本庶氏は小野薬品の担当者にがん治療薬開発を迫りました。小野薬品は単独では無理なので共同開発のパートナーを探しました。1年かけましたが、どこからも開発協力が得られません。
その後一転して、小野薬品が「うちで開発をやる」と言ってきました。後からわかるのですが、04年頃、メダレックスという米ベンチャーが小野薬品に共同開発を持ちかけてきたのです。そして09年、巨大製薬会社である米プリストルマイヤーズスクイブ(BMS)がメダレックスを買収しました。治験は一気に加速します。
PD-1抗体(製品名オプジーボ)は14年、メラノーマを対象にがん免疫薬として承認されました。
『進捗状況について小野薬品からは知らされなかった。オプジーボ誕生のよろこびとは裏腹に、私の中に同社への不信感が芽生えていった。』

本庶佑 私の履歴書(23)特許係争
2024年6月24日 日経新聞
『重い決断を下さざるを得なかった。2020年6月、長年の共同研究先でがん免疫治療薬「オプジーボ」を製造・販売する小野薬品工業に対し、約262億円の支払いを求めて訴訟を起こした。
PD-1分子を使ったがん免疫治療には大きく分けて3つの特許がある。物質そのものに対する特許、免疫の仕組みに関する特許、そして薬につながる用途特許だ。いずれも私と小野薬品とが特許権者になっている。
小野薬品は米メダレックスと共同開発するにあたり、特許権の独占的使用を認めるよう私に求めてきた。』
本庶氏は当時、研究に多忙であり、小野薬品との交渉は京都大学にいた大手製薬会社出身の知財担当者にすべてを任せていました。この判断が失敗であったと本庶氏は言います。
本庶氏は、特許契約での自分の取り分が少なすぎると感じるようになりました。契約条件について再交渉が始まりました。
条件の見直しがまとまりかけていた頃、今度は小野薬品とメダレックスを買収した米BMSとが、オプジーボと似た薬を発売したメルクを特許権侵害で訴えました。本庶氏はこの訴訟への協力要請を受けたので、同時に提示された条件を前提にこれに応じることにしました。米国での特許訴訟は、ディスクロージャーであらゆる証拠の提出を求められ、本庶氏は科学者としては想像を絶する壮絶な争いに巻き込まれてしまいました。17年1月、小野薬品・BMSとメルクとの係争は和解が成立しました。
『製薬会社同士の紛争がようやく解決してよかったと思った。その後、私と小野薬品との紛争が続いたことは広く知られているとおりである。
21年11月、訴訟協力や発明の対価に対する私と小野薬品との係争は、裁判所からの勧告もあって大阪地裁で和解した。』

以上が、「私の履歴書」における本庶氏の主張です。
前報にも記載したように、産経新聞 オプジーボ訴訟詳報2021/9/2 によると、本庶氏が請求していたのは、オプジーボに似た薬を販売する米製薬大手メルクから小野薬品が得る特許使用料の一部についてとのことでした。小野薬品などはメルクを特許侵害で訴え、2017年1月、メルクが約710億円などを支払う内容で和解しました。
オプジーボに関する特許を共同で持つ小野薬品と本庶氏は以前から特許使用料の配分をめぐり対立していました。本庶氏は、メルク訴訟に協力すれば小野薬品に支払われる和解金の40%を配分するという提案を相良社長から受けたのに、実際は1%にとどまったと主張しています。これに対し小野薬品側は、40%の提案をしたことは認めていますが、本庶氏自身が「はした金だ」と一蹴したために金額交渉自体が決裂したとの見解です。「第三者から特許使用料を得た場合、1%の対価を支払う」としたメルク訴訟前の平成18年の契約に基づき、それまでに数億円を配分したと反論していました。

私の履歴書の記述によると、本庶氏はメルクとの訴訟への協力要請を受けたので、同時に提示された条件を前提にこれに応じることにしたつもりでいましたが、「同時に提示された条件(多分40%)」は本庶氏が蹴飛ばしていたことのようです。
メルク訴訟への協力要請をうけたときの協議に、本庶氏は法律・交渉事の専門家を同席させるべきだったですね。

それと、時々刻々、小野薬品から本庶氏への情報共有が不足していたようです。それが、本庶氏の小野薬品に対する不信感を増幅させたのでしょう。

小野薬品側は、契約を盾にとってごり押しするのではなく、妥当な条件での和解に応じました。これにより、両者の紛争は一件落着することができたようです。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« オプジーボ特許紛争~小野薬... | トップ | 掛川城訪問 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

知的財産権」カテゴリの最新記事