弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

友野宏氏そして松尾雄治氏

2009-12-02 22:28:46 | Weblog
11月20~21日にかけて、何気なく見ていたテレビで、住金社長の友野宏氏と元ラガーマンの松尾雄治氏を目にすることができました。ここにメモしておきます。

朝日ニュースター経済の達人
『第3回 「100年企業のサスティナビリティ」
ナビゲーター :三富 正博(株式会社バリュークリエイト パートナー)
経済キャスター:鈴木ともみ
ゲスト :友野 宏(住友金属工業株式会社代表取締役社長)
歴史が長く規模も大きな会社になると、大企業病に襲われる、と言われます。その結果、企業の成長率は落ち込んでいきます。ところが、創業から100年の歴史を持つ大企業は、いまも新しい成長ステージを目指しています。強いところをより強くしながら、質と規模をバランスよく高めていきます。大企業病に陥らず、常に成長を続ける企業とは、どういう理念を持って経営されていくのかを探っていきます。』

私は、某高炉製鉄会社に以前勤務しており、入社から13年間は「製鋼技術」という分野を担当していました。高炉で還元され不純物を多く含んだ銑鉄を、転炉という精錬装置を用いて溶けたままで精錬し、連続鋳造装置で凝固させるまでの工程です。

友野社長も、住友金属工業の和歌山製鉄所に入社し、私と同じ製鋼技術で連続鋳造を担当して働いていました。私より2学年上だと思います。出身は京都で、京大卒と記憶しています。
同じ製鋼技術を担当したライバル会社のエンジニア同士で、私は紆余曲折を経て弁理士稼業を営んでいますが、友野さんは住金の社長にまで上り詰めました。

友野さんが社長になってからです。それまで低迷していた住金の株価が急上昇したのは。

番組では、若いエンジニアの頃にスイスのチューリッヒに留学したことなどを話されていました。

高炉大手各社の最近の社長を見ると、住友金属が上記のように製鋼技術出身の友野社長であるほかに、JFEにも製鋼技術出身の社長がおられます。JFEホールディングス社長の数土文夫氏で、川鉄社長、JFEスチール社長を歴任しました。数土氏の前に川鉄社長だった江本寛治氏も、やはり製鋼技術出身です。
11月23日日経朝刊「私の課長時代」によると、神戸製鋼所社長の佐藤広士氏も、九大冶金出身で入社当時はチタン研究者として活躍されたようです。
新日鐵だけは、文系でないと社長になれません。

友野宏氏の経歴を記しておきます。
1971年 住友金属工業入社
1996年 鹿島製鉄所副所長
1998年 取締役電子部品事業部長
1999年 常務執行役員・エレクトロニクス事業本部長
2001年 常務執行役員、鹿島製鉄所長
2003年 専務執行役員、鋼板・建材カンパニー長
2005年 代表取締役社長


ヒストリーチャンネル時代の響き
『2009年1月4日(日) 16:00 #24 元ラグビー日本代表 松尾雄治
松尾が歩んできたラガーマンとしての歴史、そして今、大学のラグビー部の監督として学生たちと共に闘う、「松尾雄治」に迫る。
明治大学を史上唯一の日本一に導き、その後新日鉄釜石の司令塔として日本選手権7連覇を達成。日本代表としても1983年にウェールズ相手に24対29と感動的な試合を演出した、名実共に日本ラグビー史上最高のスタンドオフと呼ばれる。現在、成城大学ラグビー部の監督(ヘッドコーチ)。』

その再放送を11月21日に放映していたのでしょう。

昭和50年代でしたか、私は毎年1月15日を楽しみにしていました。ラグビー日本一を決める試合がその日に行われ、新日鐵釜石が7連覇を達成する経過を毎年目撃することができたからです。
当時、新日鐵釜石ラグビー部でスタンドオフをしていた松尾雄治氏は、素晴らしい選手でした。変幻自在のパスやステップで敵を翻弄します。タッチパントを上げれば、タッチラインぎりぎりの内側でバウンドしてそのままボールはタッチラインを割ります。
ぬかるみに近いグラウンドでの試合では、ほとんどの選手のジャージーが泥だらけになる中、松尾選手のジャージーだけは泥がついていません。司令塔として試合を支配しながら、タックルで倒されたことが1回もなかったことを物語っています。

番組によると、北島忠治監督の下で明大ラグビー部所属の頃、スクラムハーフで日本代表にも選出されました。ところが3年時、日本代表から帰ると、北島監督からスタンドオフに転向するよう命じられるのです。本人はこれに一時くさりましたが、後に奮起。4年時に大学選手権優勝、そして明治史上初の日本選手権優勝を果たします。ポジジョン変更を命じた北島監督の深謀は何だったのでしょうか。

また番組では、新日鐵釜石時代に明大と戦ったビデオが映されていました。明大のスクラムハーフから出たパスを松尾氏がインターセプトし約40mを走りきってトライを上げます。スクラム前に明大が確認しあった“33”というサインは、松尾氏自身が明治在学中に作ったサインだったのです。

7連覇達成後の1985年に現役を引退。しかし1992年にポーカー賭博事件により警察に逮捕され、表舞台から姿を消しました。

番組は、成城大学ラグビー部ヘッドコーチとなった松尾氏を追います。
登場する松尾氏の顔を一目見たら“松尾だ”と気付きました。現役時代と変わらず、元気にコーチを務められているようでした。
コメント
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