<2145> 余聞、余話 「事件の報道に寄せて」
彼我にしてありけるこの世 常ながら事件(こと)の次第もこの彼我の間
神奈川県座間市における九人殺害事件で、このほど被害者の男女全員の身元が判明し、新聞、テレビ等で一斉に報道された。結果、九人(男性一人、女性八人)の被害者全員の氏名並びに顔写真が公にされた。事件における動機や経緯など詳細についてはまだ不明な点もあるようであるが、九人は自殺願望によって加害者の男(27)と接触し、犠牲になったことは明らかにされている。
この事件はインターネットが仲立ちの現代を象徴するネット社会に現われた現象の一端で、犠牲になった九人全員がネット利用の十代から二十代で、犯人も二十七歳という若年層に展開した事件であるが、今一つは、自殺願望を抱えながら日々を送っている絶望的な思いを秘めた若者が存在するという社会の一面を浮き彫りにした事件でもあることを物語るものとして捉えることが出来る。
この事件では自殺願望という個人的動機が一つの引鉄になったわけで、殺害の犠牲者という以前に、被害者には個人的重大な問題が心の中にあり、悩みを抱えていた。このことを抜きにして、この事件を単なる殺人事件として扱い、被害者の報道をしているところに、その氏名と顔写真の使用は繋がったことが思われ、この点において、私には報道が何を考えその任に当たっているのだろうかという疑問が湧いて来たのであった。
被害者というのは被害の認識が生じるとき、相対して存在する加害者との経緯において、常に同情の目によって世間の俎上に上げられ、弱い立場を強いられる。被害者にとって、この同情による世間の目に曝されるということは決して好ましいことではなく、「そっとして欲しい」という気持ちになることの方が強かろう。単純な事件でもこれは言えるが、この事件では自殺願望という心に秘めた問題が被害者個人の中にあった。このことを思うとき、果して被害者の氏名並びに顔写真の使用が妥当だったかどうか。犠牲になった死者には何も言えないが、被害者の家族とか関係者からこのことについて何の声も上がらないのだろうかと思われたりする。
事件を浮き彫りにし、事件の真相を明らかにして社会に貢献するという社会的な責務の重要性に照らして、報道する側の新聞やテレビはそれに当たるというのが建前にあるはずで、興味本位に捉えているとは思わないが、被害者の氏名並びに顔写真の使用については、私のような疑問を抱く人も多いのではなかろうか。果して事件を伝える報道の立場はこの疑問に対し、どのように答えるのだろうか。
思うに、事件の重大性から被害者の氏名並びに顔写真の使用は已むを得ないとするところに落ち着いたのだろう。つまり、事件の重大性にウエイトを置くという報道側の論理が通されたということなのだろう。いつの事件にも言えることであるが、この種の問題では、被害者や被害関係者には納得の出来ない辛さがつき纏うことになる。これは報道する側に同情心はあっても、被害者の人権や名誉にまで思いが及ばないという第三者的立場の考えが支配的にあるからに違いない。
この問題は、これまでもことあるごとに論議されて来たが、現在の報道の状況を見ると、死者には将来がなく、同情はしても、人権も名誉も認める姿勢にはないと受け止められる。私たちには知る権利があり、ゆえに、私たち一般大衆に知らせる義務を負う報道には知る権利の行使が認められている。しかし、知ったことを何でも報道してよいかと言えば、その影響力の大きさにおいて自制も必要になって来ることが常に考慮の対象として求められることになる。常々人権を重んじることを標榜する現代社会の担い手である報道にして被害者の人権が疎かにされているということは、やはり問われて然るべきと思われる。報道は権威の高みによるばかりでなく、常に読者や視聴者という一般大衆に寄り添い悩まなくてはならないという一面のあることを自覚してもらわなくてはならない。言わば、自由には責任がともなうということである。
この事件を振り返れば、先にも触れたように、九人もの若い男女が殺害され、それもかなり異常な、目を背けたくなるような殺人であったが、事件の原因の一端が殺害された被害者の方に多少はあるという負のイメージが被害者に持たれている事情を考えると、被害者の氏名並びに顔写真を出して報道するということがより死者を鞭打つことに繋がる。このことが報道する側には論議されなかったのだろうか。それとも、氏名並びに顔写真を出して報道することで今後の事件抑止に繋がり、よりよい社会を作るのに役立つという具合に考えたのだろうか。
それにしても、被害者というのは何の抵抗も出来ない弱い立場に思えて来る。九人の被害者の中には未成年者が四人含まれている。加害者が未成年だったら、仮名になり、当然のこと顔写真も出すことはない。それは加害者当人の人間形成あるいは将来を考慮するからで、その理由づけはわからなくもないし、よいにしても、犠牲者にはプライバシーがなく、人権も認めないという報道の在り方はどうなのだろうと思われて来る。
このような事件報道に接すると、報道は知る権利を誰に向かって発し、言論、表現の自由を誰に向かって訴えているのかを問い直さなくてはならないような気がして来る。弱い者に対し、報道する側は自らの都合のよいように知る権利を通す。これは報道の権利の履き違えであり、私たちはもしかしてこの履き違えを容認しているのかも知れない。事件究明が正しいとして、被害者並びに被害者の関係者をこの報道によって痛めつけるのではニュース報道の本末転倒というほかはない。考える必要がある。 写真は新聞紙面。