<2156> 余聞、余話 「横綱日馬富士による暴行騒動に寄せて」
真実は顳顬のうち噛み締めてあるは男といへる存在
モンゴル人力士の親睦会の酒席において起きた横綱日馬富士の平幕貴ノ岩に対する暴行事件は、連日報道されて世間を騒がせているが、ことの起こりは単純で、その因は、二人の仲違いと酒の飲み過ぎによるものと推察される。これは二人の個人的な関係によって起きたことで、この点をして言えば、この暴行は世間一般によくある事例と言え、起こるべくして起きたということが思われる。加害者の立場になった日馬富士の仕儀は世の中でよく言われる酒を飲んで酒に呑まれたという結果にほかならない。
酒は人を変える。これは昔から言われていることで、酒席に侍る者は誰もが多少は経験して知っている。笑い上戸に、泣き上戸、酒の量が進んで来ると必ず怒り出す怒り上戸もいる。また、眠ってしまう眠り上戸というような酒飲みも見られる。こうした中で最も質が悪いのは暴力を奮う御仁である。今回の事件では昔から言われて来た酒飲みに纏わる教訓のようなものが見えて来る感じがする。つまり、今回の暴行事件は仲互いプラス酒量によるところと推察出来る。
言わば、酒は魔物であり、怖いということであって、そこそこにしないと取り返しのつかないことになる。しかし、酒に強い御仁は飲み始めると切りがなくなる。この度の暴行事件ではこの酒が災いしたと言えるが、日馬富士には暴行を認めた以上、横綱という立場においてその責を負うことは免れない。この点、けじめをつけなければならないところであるが、この事件の始末がどうもすっきりしないところでぎくしゃくしている。
思うに、この件の要は内容の異なる二通の診断書に秘められていると察せられるが、暴行もさることながら、この事件から明らかになった問題の方が大きいと言える。その問題というのは、モンゴル人力士による親睦会自体の寄り集まりのことで、大相撲を仕切る日本相撲協会には、組織運営の点においてみると、個人的なトラブルである暴行事件よりもむしろこちらの方が重大なことであると思われて来る。では、このことについて私なりの私見を述べてみたいと思う。
私はこの暴行事件が起きるまでモンゴル人力士がことあるごとに親睦会なる酒席を設けて寄り集まっていたということを知らなかった。多分、相撲フアンも世間一般も知らず、この事件でこのことを知ったのではなかろうか。私はこのことを知ったとき気色の悪さを感じた。それは大相撲が他のスポーツ競技の選手と異なり、部屋割された個々の力士が一対一でぶつかり合って戦い、十五人と戦ってその勝敗の差をもって優勝を競うというもので、原則同部屋力士以外の総当たりで取り組みが成り立ち、その取り組みが公正を期して行なわれるというものである。
つまり、力士は相撲協会のどこかの部屋に属し、その部屋ごとに稽古を積んで本番の相撲(試合)に臨む。部屋は現在六門の四十五に及び、規約改正によって原則一部屋一外国人力士の制限が設けられている。これは外国人力士が強くなり過ぎたため、日本の力士の活躍の場が少なくなり、国技である相撲の立場から大相撲を仕切っている日本相撲協会は外国人力士の制限に当たり、原則一部屋一外国人力士という制限を加え、現在に至っている。結果、モンゴル人力士が上位を占有する勢いにあって現在の大相撲の勢力図、即ち番付の状況がある。同部屋力士の取り組みを避けているのは、手心が加わる懸念が大きいからである。
こうした部屋を単位にして成り立っているというのが大相撲の公正を期する仕組みなのである。然るに、この度の暴行事件でモンゴル人力士の親睦会の酒席の寄り集まりが一般世間に知られるところとなったという次第で、私たちに疑問を投げかけるところとなったわけである。この親睦会なるものは部屋を越えた力士の集まりで、大相撲の公正を期して出来ている部屋による仕組みを崩しかねない懸念を含むものであることが言えるわけである。
この度の暴行事件はこの寄り集まりの人間関係がマイナス方向に働いて騒動になっているわけであるが、部屋を越えたこの親睦会の寄り集まりが人間関係の親密さにおいてプラスに働き、その仲間が過度に親しくなったりすると、その親密な間柄において本番の相撲にも手心が加えられたりして、昨今問題にされている忖度なども生じ、不正へと繋がりかねない懸念が生じて来るということになる。暴行もさることながら、大相撲の組織としてはこちらの方が重大な問題を孕んでいると言ってもよかろう。はっきり言えば、このモンゴル人力士のみによる親睦会の酒席の寄り集まりは八百長の素地を生むことに繋がる。
そこで思われるのであるが、親睦会の酒席というのはどのくらいの頻度で行なわれ、その費用はどのようにして捻出されているのかということが問われて来る。このことは琑抹なことのように思われがちであるが、勝負を仕事にしている力士においては重要なことである。個人一律に積み立てた会費によって寄り集まりを行ない、親睦に当っているのであればまだよいが、横綱とか上の力士が面倒を見るというようなやり方であれば、下の力士は上の力士に従わなければならない雰囲気が生じ、そこには自ずと心遣いの忖度も働いて来ることになり、これが本番の取り組みにも反映されるということになれば、取り組の公正さが保てなくなる。
暴力沙汰で傷害に至ったということも大きい問題であるが、大相撲の組織の上において見れば、こちらの懸念の方が重大性を秘めていると言える。大相撲が勝負に勝つことによってものごとの評価が決せられるという性格のものであれば、なおさらのことで、同郷とか、愛国心とかという精神的なバックボーンを考えると、ここのところは曖昧に出来ないけじめが必要に思えて来る。
同胞による飲み会において異郷の淋しさを癒すというような単純な同情心のみでは済まされないところがこの親睦会には見え隠れしている。大相撲の成り立ちを考えると、この問題はいつの時代にあってもついて回るものであって、このモンゴル人力士のみによる親睦会なる酒席というのは、気色の悪さが拭えないのである。
大相撲を人体に例えれば、四十五に上る力士が所属する部屋というのは部位であって、個々の力士は細胞に当たる。この細胞が健全であれば、人体である大相撲は公明正大で健全な活動(運営)が出来る。ところが、その部位以外に、別の浮遊する部位が現れて今までの範囲を越えて細胞が人体内で動いているという風に見えるのがモンゴル人力士の親睦会の図で、これは規約に則って出来ている部屋にとって、まことに異様な存在と言え、正常な部位における細胞を狂わせ、人体である大相撲の健全な活動(運営)の支障になることに繋がる。一年に一度くらいの親睦会ならまだしも、場所ごとに行なわれているとすれば、これは深刻に考えた方がよいように思われる。
この度の暴行事件は以上のようなことも考えさせるところがある。日本相撲協会は果してこの問題についてどこまで把握し、どのように考えているのだろうか。外国人力士はモンゴル人のみならず、もっと遠くの異国から来ている力士もいる。この力士の孤独を踏まえて考えるならば、自ずとその厳しさは納得されよう。国技とされる大相撲が公正で健全に行なわれてはじめて国技たる精神性を保つことが出来るということが思われるゆえに敢えてここにこの問題を取り上げた次第である。親睦会を全くなくせよというわけではない。節度というものについて一考が必要と思われる。 写真はカットで、大相撲九州場所。