大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2020年04月12日 | 写詩・写歌・写俳

<3012  余聞 余話 「二〇二〇年のサクラ」

      早いのがあれば遅いのも見ゆる花にも宿るこの世の刹那

   今年のサクラは散散な気がする。もちろん、コロナウイルス禍によるところ。ヤマザクラの名所吉野山をはじめ、各地で見られる花見の光景に一変しているところがある。奈良大和では今日から明日にかけて春の嵐となるという予報。花も一気に散るのではないかと思われる。

 サクラというのは不思議な木で、春の花期、その十日ほどの間、樹冠いっぱいに溢れんばかりの花を咲かせ、その花が終わると、葉を広げ、秋に至って紅葉し、紅葉を散らした後、裸木の状態になって、花を開く春を待つ。紅葉は他に比較してそれほど遜色を云々されるものではないが、あまり気に留められない。所謂、花時以外、地味で目立たない存在の木としてある。

   短歌的さくらに俳句的さくらどちらにあれどさくらなりけり

 この地味さゆえに、春の一斉に咲く花の印象が強くなるのだろう。そして、その花期を私たちはよく承知し、花見と称して、花の下に集うことを楽しみにする。松尾芭蕉は「京は九万九千群集の花見かな」と詠んだ。「京」は都、「九万九千」は数限りない数多の貴賤であり、「群集」は「くんじゅ」と読む。言わば、京における花見の賑わう様子を言っているもので、サクラという木と人との関係性をよく表していると知れる。

                         

 これは江戸期のサクラで、時代的に見て、ソメイヨシノの出現前、多分ヤマザクラかオオシマザクラか、それらから派生したサクラが想像されるが、花見の気分や様子は現在のソメイヨシノの花見に等しいと思われる。ところが、今年はその花見の様子が一変し、サクラの下に人々の集い楽しむ姿がない状況になっている。

   惜しまれず散り行く花か人の世の姿に沿へるこれも一景

 その原因は言わずもがな、新型コロナウイルスの感染症の猛威によるもので、この冬、中国の武漢に端を発し、世界に蔓延しているこのウイルスが日本にも及び、春の今の時期に感染を拡大しているからである。それにしても、花は例年通り咲き、散っている。 写真は満開のソメイヨシノ。花の下に花見客の姿はなかった(馬見丘陵公園)。