大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2018年04月05日 | 写詩・写歌・写俳

<2288> 余聞、余話 「サクラの花とニュウナイスズメ」

       花が咲く花に集へるものがゐるゆゑにし花はにぎはひとなる

 まさに春たけなわの候。サクラは何処も花盛りである。花が咲けば、花に集うものがいる。これは人情、否、生きものの性。世の常で、芭蕉は「京は九万九千群集の花見かな」(きょうはくまんくせんくんじゅのはなみかな)と詠んだ。「京」は「都」、即ち、京都であるが、「今日」に通じる。つまり、所と時を表す。 「九万」は「酌まん」で、「酌まん」は花の下で酒を酌み交わす意ばかりではない。花を愛でる意が当然ながら込められている。「九千」は「貴賎」で、言わば、サクラの花が咲き盛かる京(みやこ)の今日は貴賎を問わず花に集い、大いに花を愛で、楽しんでいる図が思い浮かぶ。

  春の麗らかな陽気の中で、ぱっと花を咲かせ、ぱっと散ってゆくサクラは、「花より団子」派なども花に寄り来るものはみな拒むことなく迎える。故に花の辺りはにぎわうという具合になる。これがサクラのサクラたる花の所以と、その満開の花を見上げていたら、花に集うのは花見の人ばかりではない光景が目撃された。

                                                

  咲き盛かる花の枝で動くものがある。よく見ると小鳥である。傍若無人なヒヨドリはよくサクラの花に来る。野鳥の中では大きいのでよく目につく。だが、ヒヨドリよりかなり小さく、メジロほどである。メジロも花に来るが、そのメジロでもない。傍にいる人に聞いてみたら、野鳥に詳しい人だったようで、即座にニュウナイスズメだと教えてくれた。

 その人が言うには、花を散らすので嫌われものだという。ニュウナイスズメ(入内雀)はスズメ科スズメ属の小鳥で、全長14センチほど。民家の近くに棲むスズメ(雀)の仲間で、スズメに極めてよく似るが、頬にスズメのような黒斑がない点で見分けられるという。

  スズメは留鳥で、民家の近くに多く、一年中見かけるが、ニュウナイスズメはよく大群で渡りをし、アジア一帯に見られ、日本では北海道で夏を過して繁殖し、冬場は関東地方以西の暖かい地方に渡り、各地で越冬する冬鳥で、近畿でサクラの咲く時期に見られるものは南から北に向かう旅鳥のニュウナイスズメだろうという。

 ニュウナイスズメ(入内雀)の名は、頬に黒斑がないので、斑のことを古くは「にふ」と言ったことから斑のないスズメの意により、「にふない」と言われ、これがニュウナイに転じたとする説や新嘗祭のころ大群でやって来ることにより、新嘗(にいなめ)が転じてニュウナイになったという説などがある。大群で移動するニュウナイスズメは収穫期を待つ稲の未熟穂を荒らす害鳥と見なされ、外敵の汚名を着せられて来た。この汚名がサクラの花においても適用されているらしく、嫌われものになっているという。

 そう言えば、半世紀ほど前のことであるが、塒にしている竹薮に大きな網を仕掛けてスズメを一網打尽にしたのに出会ったことがある。あれもニュウナイスズメと言っていたのを思い出した。確かあのときは朝鮮半島の方から海を越えて来ると聞いたような気がする。網の中には凄い量のスズメが団子状になってもがいていた。その塊は生温かく独特の臭気を放っていたが、焼鳥に売られるということだった。最近、そういうニュウナイスズメの大群には出会わないし、ニュウナイスズメによる被害の話も聞かないが、知る人は知っているということのようである。

  私が満開のサクラの枝で花を啄んでいるのを見たのは三羽で、大群を思わせるところはなかった。思うに私が目撃した花を啄むニュウナイスズメは北を指して帰りつつあるものたちに違いない。サクラ前線とともに北上して行くのだろうと察せられる。サクラ前線に乗っかって行けば、エサにこと欠くことはなく旅をすることが出来る。これは渡りの知恵というもの、賢い旅だと思える。

 このサクラとニュウナイスズメの関係を思うに、辺りをにぎやかにさせるサクラは自らの身を犠牲にしてニュウナイスズメを養っているということも言える。果たしてこれはサクラの徳目の一つということになるだろう。お釈迦さんは自身の股の肉を割愛して、飢え求むるものに与えたという。サクラとニュウナイスズメの関係はこの仏心を思わせるところがある。もちろん、サクラの花を欲しいままに啄んでいるニュウナイスズメにそんな頓着はなかろう。しかし、ありがたく花をいただいているのだろうとは思われる。

  ニュウナイスズメにとってサクラの花は生きてゆくための糧にほかならない。嫌われても已むを得ない。背に腹は代えられないところ。この話は生きとし生けるものすべてに共通して課せられた宿命としてある。生きものは生きものの命を奪うか傷つけるかしなければ生きて行けない。つまり、この宿命を生きているものはみな負っている。しかし、奪われ傷つけられた命は奪ったものの中で働きとなり、生き続けることになる。だから、サクラは花を奪われる宿命に恨み辛みばかりでなく、そこには美徳が見て取れる。サクラには本能的にそれがわかり、承知しているのではないかというようなことも思われるところである。

  サクラは、言わば、仏心をもってニュウナイスズメを養っているという風にも考えられる。しかし、サクラは黙して語らず、粛々と万朶に花を咲かせている。このサクラと花見を楽しむ私たち、そして、サクラとサクラの花を啄んでいるニュウナイスズメの光景を見るに、喜ばれようが、嫌われようが、その関係性において昔からみなそれぞれに生きて来て今にあるということが思われて来る。

  それにしても、花の基部を嘴に銜え、蜜を吸うのかどうなのか、銜えた花をぽいっと捨てる。その軽快なこと。確認出来たのは三羽で、この数だと花がなくなることはないと、そう思いながらカメラを向けたことではあった。因みに、ニュウナイスズメは、しばしば大群をなし、稲田を襲う害鳥として鳥獣保護法による狩猟鳥にあげられている。言わば、人間との衝突が知られている小鳥である。 写真はサクラの花を銜えて踊るような仕草を見せるニュウナイスズメのメス(左)とヒヨドリ(右)。ニュウナイスズメにはサクラ前線を追って五月には故郷の北海道に帰り着くのだろう。