<1328> 狂人の戯言
理不尽に 彩られゐる この世では 狂人の戯言(いひ) 正しかるやも
五年後に開催される東京五輪のメインスタジアム新国立競技場の建設を巡って騒ぎが大きくなっている。この競技場の建設については、昭和三十九年(一九六四年)の東京五輪の記念碑的施設であった国立競技場を取り壊した跡地を利用するもので、既に跡地の整備が進められているが、これにまず問題があった。それは国立競技場が近代日本の発展を物語る象徴的競技場だったからである。
世界遺産が注視されている昨今であるにも関わらず、これに学ぼうとする気配もなく、新競技場を建設するため、近代化のシンボル的先導役として働いた遺産とも言ってよいこの競技場を何の躊躇もなく、いとも簡単に取り壊してしまった。この新国立競技場の建設はこの取り壊しのとき既に現代人の感性のなさが現れていた。
言わば、これは、先人の功績などには思いを致さず、自分の手柄を優先する今の政治的現れと見てよいが、その上に、建設費が二千五百億円超もかかり、以後の維持管理費も膨大に及ぶ競技場を造るという。これが最近になって明らかになった。いくら日本を代表するメインスタジアムとは言え、一つの施設(箱モノ)に二千五百億円はどんなに考えてもあり得ない。工事の成り行きではもっと費用が嵩むという。
これはまこと尋常なことではなく、見直しが叫ばれているのは当然と言える。しかし、政治の世界では尋常でないことがまかり通る。このような成り行きには、狂人の言葉が必要であろう。狂人にはその言葉が戯言でも何でもないが、一般人には戯言に聞こえるかも知れない。聞こえても、それはそれでよい。とにかく、戯言でも狂人は言葉を発するにやぶさかではない。
元を辿れば、この新競技場建設の問題は、開催国を決める際のプレゼンテ―ションのときに遡る。東京(日本)、マドリード(スペイン)、イスタンブール(トルコ)が名乗りを上げ、この三都市によって誘致合戦が行なわれた。国際オリンピック委員会の委員による選挙の結果、日本が勝利したわけであるが、誘致に当たっては投票者である委員へのアピールが必要で、日本においてはメイン会場の新国立競技場がそのアピールの目玉だった。
競技場のデザインは公募により、イラク出身の女性建築家ザハ・ハディド氏の作品が選ばれた。流線形のいかにも未来志向の利いた装いで、素人目にも素晴らしいものに思われた。しかし、建設費がべらぼうにかかり、工期も長く取らなければならない。このことが今になって問題になっているわけである。しかし、これは公募選考のとき、プロの建築家も立ち合っているからわかっていたはずである。なのに何故ハディド氏の作品に決まったのか。この不思議が解明されない限りこの問題は理解されない。
膨大な費用が生じてもよい。アピールに十分な設計の新競技場でなくてはならない。そういう方針だった。東京、マドリード、イスタンブールではイスタンブールの下馬評が高かった。だが、景気浮揚を政策の目玉に据えていた安倍政権は五輪の東京開催をどうしてもやりたかった。そこで、なりふり構わないPRと根回しを行なった。この一つに新競技場があり、斬新なハディド氏の作品によってPRがなされた。そして、建設費の工面は政治に任せなさいという具合にことが運んだ。
もちろん、これでは十分でなく、なお根回しが必要で、これ以外にも手を打った。日本人らしくないプレゼンのスピーチが好評のように伝えられたが、狂人には或るは歯の浮くような思いで、そのスピーチを聞いたのを覚えている。まあ、それはよいとして、ほかにも疑義を抱かせるようなことがあった。一つには、トルコに対する原発供与のことがある。トルコにおける安倍外交によって原発輸出の件が打ち出された。これは、福島の事故があったばかりで、まだ事故の収束もつかず、地元の人たちには困り果てているときだった。なのに地震国のトルコに原発を供与するという。
狂人には耳を疑ったが、こういうのをやってのける。一つには国内で造れなくなった原発を海外に売り込むということ。また一つには原発供与によってトルコから五輪の開催地を譲ってもらうというやり方である。これに加え、なお一つ疑惑に思われることがあった。それは開催地を決定する国際オリンピック委員会(IOC)の委員による投票が行なわれる直前にイスタンブールで奇異なデモが起きたことである。
このデモは小笠原沖に現れた中国の密漁船団のごとく、一過性に終わったが、テレビニュースを見る限り、相当酷いデモだった。このためイスタンブールには当然のごとく、「あんな都市では」というマイナスイメージが加えられた。ところが、このデモが西側のプロ集団のマッチポンプの焚きつけによるデモだったことが明らかにされた。あまり問題にされることなく、デモはいつの間にか終わったのであるが、仕掛けたある種の人間には成功だったこのデモの一過性はまことに奇妙で、狂人には疑念を抱かせることになった。このデモも東京には有利に働いた。
このデモに日本が直接関わったとは思わないが、金銭が絡む闇の動きが疑惑として想像を掻き立てた。で、トルコが不当なデモを問題にしなかったのには事情があったのではないかと憶測された。もちろん、発覚の時点でデモの問題を騒ぎ立てても開催地は既に東京に決まっていた。言わば、これは後の祭りということで、このデモの問題はそれほど尾を引くことにはならず忘れられていった。
新国立競技場の建設に絡む問題にはこのような経緯も見え隠れするのであるが、狂人の発言などは、戯言であるから聞き流せばよかろう。だが、国民の信を得ないまま進める建設の愚だけは避けるべきだと思う。既に、ハディド氏の流線形のデザインは変更され、亀の甲羅のようになっている。これではハディド氏も浮ばれまい。中途半端にすれば、後世の笑い草になる。真夏の祭典で五万以上の人を集めて行なうその暑さを想像すると、これでよいかということがなおも加えて言えることではある。この問題は、候補に名乗りをあげたそのはじめから自然体でなく、無理な誘致を通した結果の現われと言ってよかろう。
加えて言うならば、新国立競技場のこの問題は、スポーツの捉え方が変質して来ていることへの懸念も投げかけている。五輪誘致による経済効果優先の考えがそこにはある。スポーツが見せもので、競技場が選手のためというよりも、見る者の側にあるというものの考え方、つまり、オリンピック、即ち、スポーツの哲学が問われる問題もこの騒動にはうかがえるのである。足りない建設費の一部を選手の強化費用からねん出するというような愚の骨頂な方策も飛び出すといった具合である。
とにかく、お粗末なことであるが、中途半端はよくない。他の開催国の建設費用の五倍もかかるような競技場は、武士は食わねど高楊枝ではないが、千兆円もの借金があって、国民の福祉にも四苦八苦している状況の中で起きた騒動であることを考えると、見えもいい加減にしてほしいという気になる。言うならば、日本は成り金の体質が抜けず、大人になり切れない、なお成熟出来ないでいる国家の様相を見せている。五輪に対する日本のやり方は金持ちの国の都市でしか開催出来ない雰囲気づくりを促しているに等しく、国際オリンピック委員会が進めている簡素化を目指す精神にも反している。 ここのところをよくよく考えなくてはならない。 写真はザハ・ハディド氏のデザインから変更された新国立競技場のイメージ図 (新聞記事による)。