<190> 鬼 瓦
悲願あり 祈願も即ち 鬼瓦 寒風荒ぶ さ中にありて
最近、社寺に赴くことがよくある。信仰心によるものではなく、主な目的は祭りや法会の見学にある。その祭りや法会を見ていると鬼の登場するものが結構多いのに気づく。で、その鬼に接しているうち鬼に関心が持たれ、屋根に上げられた鬼瓦にも目がいくようになった。
こういうわけで、 社寺を訪ねるたびごと屋根を見上げて鬼瓦に目を 向けていたら、 鬼瓦にも結構バリエーションのあることに気づいた。で、大和の各社寺に赴くたび、近くの民家も含め、このバリエーション豊富な鬼瓦にカメラを向けるようになった。この二カ月ほどで相当数撮ったが、今回はその写真の一部を掲載し、鬼瓦について記してみたいと思う。
鬼瓦は屋根の一番高い棟の両端に上げられるものなど一段大きな飾り瓦を言うもので、塀の部分や門の四隅に掲げられる飾り瓦まで含めると、種類は結構なものになる。 その飾り瓦に鬼の名が冠せられているのは、ほかの瓦に比べて大きく厳ついからであろうが、古来よりその飾り瓦に鬼が表現されて来たからという。
鬼瓦の最も古いとされるものは、法隆寺の若草伽藍跡から出土した八葉蓮華文の瓦で、飛鳥時代の鬼瓦であると言われる。この瓦はその名が示す通り、鬼の登場はなく、仏教に深く関わったハスを表現したものである。出土品の状況からみて鬼瓦に鬼が登場するのは白鳳期からのようで、奈良時代にはアーチ形の鬼神面の鬼瓦が主流だったようである。
ただ、世界最古の木造建築で知られる法隆寺の五重塔の四隅に梁を支える鬼が表現されていることや鬼瓦に鬼の見られることなどをどのように解釈するか論議されてよいような気がする。で、私にはこの五重塔の鬼が創建時既に存在していたのではないかということが思われる。
もちろん、鬼瓦は全国的に見られる瓦で、鬼神面の鬼瓦は九州・太宰府の旧跡から出土した白鳳期のものが最古とされ、大和では奈良時代の出土で、遅れているが、法隆寺の五重塔にも言えるように、大和は古社寺の多い土地柄で、古来より大小さまざまの建築物が各地に見られ、その社寺に関わる千四百年余り前に生まれた飛鳥瓦の流れを汲む大和瓦で知られ、社寺のみならず、 それは民家にも及んで、 日本建築に欠くことの出来ない飾り瓦として今日広く行き渡っている。
この鬼瓦を見るにつけ、悲願と祈願を示すものの多いことに気づく。そして、これには主に二つのタイプがあることがうかがえる。一つは恵比須、大黒に見られるように、豊かさと繁栄を願う意をもって上げられているもの。 今一つは鬼や鍾馗に見られる外から来る災いを防ぐ魔除けの願いと祈りを込めて上げられたものである。
加えて見えるのが、その建物やその建物に住まいする人の存在を顕示するために上げられた鬼瓦で、そこには住む人の誇りのようなものがうかがえる。例えば、家紋を入れた鬼瓦が結構多く見られること。また、その建物の謂われを表すものも見られ、鬼瓦が単なる意匠ではなく、人の意志が見て取れることである。
では、写真に沿って、個々の鬼瓦ならびに鬼瓦のバリエーションである飾り瓦について説明していきたいと思う。上段左からお寺に多く見られる鬼面の鬼瓦。これは仏敵に睨みを利かせている表現で、お寺でよく見かける。順に、塀の隅に配された隅鬼(東大寺戒壇院)。玄宗皇帝の夢に現れ皇帝の病魔を退けた魔除けの鍾馗。民家の塀にときおり見られる。次に、豊かさと繁栄を願って上げられた七福神の恵比須、大黒の鬼瓦。長寿長命、家運長久を願うツルとカメの飾り瓦。サルの鬼瓦は庚申堂(大和郡山市小泉町)の干支の申(さる)に因むもので、堂を象徴するものである。
下段は左から、東大寺二月堂のお水取りのときお香水を汲み上げる若狭井のある閼伽井屋の屋根に配されたウで、これは若狭井の湧水が若狭国(福井県)の遠敷川の上流、鵜の瀬より来たる清水であるという謂われによる。次は名前の入った鬼瓦で、二月堂を表わす。次の二点は家紋のある鬼瓦で、神紋の入った鬼瓦(菅原神社)も見られる。ハトの飾り瓦は塀の上などに見られ、これには平和を願う気分が伝わって来る。最後は鬼か獅子か、門の屋根に見える飾り瓦である。角があるので鬼の全身を表現しているようにも見えるが、下半身は獣で、魔除けの意味があると思われる。
まだ、ほかにもあるが、鬼瓦の傾向を見ると、鬼を表現した鬼瓦はほとんどがお寺で用いられ、民家にはほとんど見られず、民家では現世利益に当たる七福神の恵比須と大黒を飾ったところが目につく。