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大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2022年03月02日 | 創作

<3696> 写俳二百句(114) クロッカス

           クロッカスみなお日さまと交信し

    

 馬見丘陵公園の日当たりのよい草地に細い緑の葉を見せ始めていたクロッカスであったが、日差しに暖かさが感じられるようになった二月の末、その葉の際から黄色の花を咲かせ、その花がいま盛りを迎えている。

 クロッカスはヨーロッパ南部から地中海沿岸、小アジア方面が原産のアヤメ科の球根植物で、花は黄色、白色、紫色など多彩で、秋咲きのサフランに対し、春咲きなので、ハルサフランの名でも呼ばれる。

 なお、黄色と白色や紫色のものは別種であるが、園芸ではクロッカスの総称で呼ばれているという。 写真は草地の一面に咲き出したクロッカス。みな上を向いて咲いている。


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2022年02月26日 | 創作

<3692> 写俳二百句(113) 頬 白

             頬白や汝も生きとし生けるもの

                           

 今日二十六日は昨日までと違い、大和地方は穏やかな暖かい日になった。最近の天気予報は正確で、予報通りになることがほとんどである。週間天気予報では今日から暖かくなると言っていた。で、その通りになり、快晴の温暖な日中になった。その暖かさに誘われ馬見丘陵公園に出かけた。公園は土曜日でもあり、人出が多かった。

 堅い芽を温みのある日差しが和らげているサクラの枝にホオジロが来ていた。ホオジロもその日差しを受け、はつらつとして見えた。生きとし生けるものの望む春の兆しにホオジロの眺めは久しぶりに心地よいものであった。

   頬白や天下泰平よろしけれ

 世の中は新型コロナウイルスの感染症の蔓延に悩まされ、全世界が右往左往している最中、ロシアがウクライナへ侵攻し、戦争を始めた。どこまで拡大するのか、予想がつかない展開を見せている。この戦争の波はジワリとしかし速やかに拡大し、関わりのない日本にも影響しかねない様相である。果たして、どのようになるのか。

   久しぶりに出会った春の訪れを告げるホオジロの姿は、この人間さまの右往左往などには感知しないといった風に芽立ちの枝に来ていた。 写真はサクラの枝にとまるホオジロ。

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2022年02月23日 | 創作

<3689> 作歌ノート  瞑目の軌跡(十二)

             歌をせむ言葉の矢数月を射よ雁を射よ我が魂を射よ

 ここでいう「歌」とは短歌。つまり、五七五七七。三十一文字。その初めは『古事記』の神話に見える須佐之男命の歌。命は狼藉の振る舞いによって天界を追われ出雲国に下った。そこで人々を苦しめていた八俣の大蛇を退治し、櫛名田比売を娶って須賀の宮を造った。そのとき、雲が湧きあがり、この雲を瑞雲と見て歌に詠んだ。

  八雲立つ出雲八重垣。妻籠みに八重垣つくる。その八重垣を。

 これが、そのときの歌で、歌は新築を祝う新室寿、または新婚を寿ぐ歌であるが、五七五七七(三十一文字)の短歌形式になっていた。で、この歌が短歌の初めと言われることになった。この詩形は現在に至る日本の伝統的短詩形で、言の葉、和歌とも呼ばれる。

 祇園祭りで知られる京都の八坂神社は須佐之男命を祀っている由緒の神社であるが、祭りは、荒ぶる神である命の霊を鎮め、命の祟りとされる疫病や自然災害が起きないように願って、酷暑の盛夏に町衆主催で行われる。こうした資質の八坂神社で、正月三日に「かるた始め」の行事がある。

 この行事は『小倉百人一首』を読み上げて札を取り合うもので、恒例になっているが、八重垣の祝歌を詠んだ須佐之男命が和歌の初めと見なされていることに由来するもので、『小倉百人一首』の冒頭の歌「秋の田の刈庵の庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ」の詠者天智天皇を祀る近江神宮のそれとともによく知られる行事である。

                                   

 それはさておき、私は、命の歌を濫觴として脈々と連なっている歴代の数ある歌に習い、自分の感じるところ、思うところ、即ち感知の力量において五七五七七の言葉に託し、これまでいくらかの短歌を作って来た。

   冒頭に掲げた短歌の「言葉の矢数」については、漢字、平仮名、片仮名、外来語、熟語、成句、季語、枕詞、歌枕、縁語、人名、地名、物名、諺、箴言、古語、方言、述語、名詞、動詞、助動詞、形容詞、形容動詞、副詞、助詞、感動詞、接続詞、敬語、擬声語、奇語、隠語等々をあげることが出来る。

   この用語の知識は豊富なほどよく、とにかくひたすらに学ぶこと。加えて、比喩とか象徴とか、過去の例に習って勉学するほかないものである。例えば、本歌取り。そして、温故知新。古きに学んで新しきを知ること。このようにあれば鬼に金棒。また、造語もあって然るべきと思う。これに加えて大切なことは、藤原定家が『毎月抄』に言っている。「歌の大事は、詞の用捨にて侍るべし」と。つまり、心に従う言葉の吟味が大切である。歌を作るに、これが第一と言えようか。

 「月を射よ」とは、月を花や雪に置き換えても差し支えなかろう。「雪月花」、所謂、自然ということであり、自然にともなうところの真理の言いにほかならない。表現の上で自然を曲げてはいけない。松尾芭蕉は『笈の小文』で言っている。「見る處花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。像花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類。夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり」(中村俊定校注)と。そこに至らんとするには、「楽ハ虚ニ出ヅ」で、虚心でなくてはならない。心を乱し、心を曲げては自然、真理を十分に汲み入れることは出来ない。

 「雁を射よ」とは、四季に連なるもののことである。つまり、四季の国に住まいするものとしては欠くことの出来ないところ。その妙味を捉えよということ。例えば、藤原良経家集『秋篠月清集』の中の一首、「帰る雁今はの心ありあけに月と花との名こそ惜しけれ」の「帰る雁」が思い浮かぶ。「今はの心」に顕れるところの妙味。その心のうち。言わば、気息。良経が夭折の人生をして詠んだ一首であることを思えば、一層切なく「今はの心」は伝わって来る。こういう妙味を胸奥に置いて歌も作るべきと教えられる。

 そして、なお、その上に「魂を射よ」ということがある。この大事を『毎月抄』は次のように言っている。「心と詞と兼ねたらむを、よき歌と申すべし。心詞の二は、鳥の左右の翅のごとくなるべきにこそとぞ思ひ給へ侍りける。但し、心詞の二をともに兼ねたらむは、言ふに及ばず、心のかけたらむよりは、詞のつたなきにこそ侍らめ」と。一球入魂のごとく、心を込めて歌は作るべきであると強調している。まこと、その通りであると思える。

 総じて言えば、それは『古今和歌集』の紀貫之の仮名序に見える。「ひとつ心を種として、よろずの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけていひ出せるなり。花に啼く鶯、水に住むかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」(佐伯梅友校注)というほどの心。蛙はいかに鳴くか、感じて捉えるのはそれぞれの心である。いかに詠めども、私の歌は私の歌であるが、歌をなさんとするものに、先人は以上のごとく教えている。

 写真は雪月花。雪月花は自然を基とする諸事の言いにほかならず、これを感と智、即ち、思いによって捉え、五七五七七の言葉の器によって表すのが短歌である。では、短歌についての歌、多少。

   短歌とは五七五に七七の韻律による定形短詩

       短歌とは伝統詩形我が国の歴史の歩みとともにあるなり

       短歌とは言葉を込める器なり言葉は思ひのほかにはあらず

       己てふ思ひの船に言葉とふ帆を張らしむる短歌を言へば

       思ひみよ良し悪し評価のあるとして人ある限り短歌の希望

       短歌とは私のもの公の政治と対極して立つ詩形                    私(わたくし)

       短歌とは個々己がじしなる抒情主体における定形短詩

       政治史と短歌史それは公と私の関係性において見らるる

   短歌とは渚に寄する波のごとあり且つ似て非なりける詩形

       問はるべし和歌がイコール短歌なら短歌はイコール和歌と言へるか


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2022年02月21日 | 創作

<3687> 写俳二百句(112)  雛飾り

               幼きころ思ひ出さるる雛飾り

                     

 二月も半ばを過ぎるこの時期になると我が家では毎年内裏雛を出して飾る。今年も出して床の間に飾った。夜になって雪洞をつけるとそれなりの雰囲気があって、おぼろげながら幼いころが思い出される。私は男子であるから女の子の桃の節句(三月三日の上巳の節句)である雛祭りの雛人形より、男の子の菖蒲の節句(五月五日の端午の節句)の鯉幟や武者人形ということなのであるが、幼いころの事情により、端午の節句に思い出がなく、雛祭りの方に思い出が片寄る。これは幼いころの経験によるところで、致し方ない心情の経緯によるものと思われる。

   あのころがあってこのころそしていま齢の旅を思ひ出づる身

 私は男二人、女一人の三人姉兄弟で、正確に言えば、私のすぐ上に次男が生まれ、名前は付けられたが、届ける前に亡くなったようで、私はその兄の生まれ変わりの感なきにしもあらず、ということがあり、戸籍では次男の末子。姉とは七歳、兄とは四歳違いで、姉と兄は太平洋戦争が始まる前の生まれで、私は戦時下の生まれ。こうした諸事情が私の節句に対する思い出に影響しているという気がしている。子供のころはこの男女の節句に全く頓着することがなかったが、最近、雛人形を出す度にこのことが思われてくるようになった。

 私が子供のころ、雛祭りは旧暦で行ない、桜や桃の花が咲く四月の初めで、床の間に緋毛氈を敷いた七段ほどの段飾りを設え、一番上に御殿を組み立て、内裏雛を収め、下段に左大臣、右大臣、五人囃子、三人官女などを順に並べ、着物の胸を押すと泣く市松人形などを配し、左近の桜、右近の橘、それに菱餅やあられなどのお菓子を供え、生花の桃の花や菜の花を添えて、雪洞をつけたりした。

 私には雛飾りのそうした光景が脳裏の奥にある。ところが、鯉幟や武者人形にはこうした思い出に残る光景が全くない。男の子でありながらないのである。兄が生まれたときは男児誕生で、まだ、戦争も始まっていないときだったことにもよるのだろう。鯉幟を揚げて祝った。その形跡がある。長い鯉幟の棒が母屋の軒下に吊るして仕舞われていた。多分、兄の誕生以来使うことがなかった棒である。その後、間もなく戦時になり、次兄が誕生間もなく亡くなるという事情も重なって、私のときは使われず、軒下に吊るされたままになった。父母に確認したわけではないが、こういう次第で、私には男の子の節句の記憶がない。

 私が生まれてから間もなく敗戦で終戦を迎え、戦後が始まるのであるが、世の中は混乱していたと思われる。当時は産めよ増やせよの時代で、子供の姿が多く見られたが、どこの家でも鯉幟を上げて誕生祝いをするような状況になく、実際そうした風景はなかった。そのころは大人の事情を知り得る年齢にあらず、端午の節句などは全く意識になく、思いの端っこにもなかった。こうした事情にあって、鯉幟の棒は長い間軒下にぶら下げられていたが、鯉幟自体はどうなったのか。戦時下で供出したのか、処分したのか、私には全くわからない。で、私には端午の節句の思い出がないのである。敢えて、あるとすれば、サルトリイバラの葉で代用し、母が作ってくれた柏餅ぐらいである。

 という次第で、戦時下、あるいは戦後間もない世の中の事情も影響し、私の端午の節句は奪われたのであろう。だが、上巳の節句の雛祭りは室内の飾りつけであるから目立たないこともあって、私の幼いころからずっとその段飾りを出し、飾っていたということで、男児ながらその思い出がいまも脳裏の奥にあり、この時期になると思い出される。そして、その思い出には何か切ないようなものが纏うのである。 写真は床の間に出した内裏雛の雛飾り。


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2022年02月17日 | 創作

<3683> 作歌ノート  瞑目の軌跡(十一)

             種々相にありて思ひのありけるが座標の軸は微動だにせぬ

 日々のさまざまな出来事、その様相の中にあって、いかに私たちが悲しく落ちぶれても、いかに誰かが大仰に馬鹿騒ぎをしても、太陽は遍く照らし、四季は滞ることなく巡る。しかし、落胆した心はその不変の営みさえもときとして憂いの中に置き、冷静さをなくした大騒ぎをする心は、その営みの恵み以上に自らの力を錯覚し、幻影を辿る。

 見失ってはいけない。どんなに心が揺れ動き、乱れてもその地歩の一歩一歩に確固たる座標軸のあることを。この自然の座標軸。この軸は、私たちにいかなることがあっても決して壊れ失われることはない。このことは、ときに触れていろんな人が言っている。

  国破山河在 城春草木深 (杜甫『春望』)

      戦争が終っても少しも変らずそこにある緑濃い草木 (三島由紀夫『太陽と鉄』)

  今夜も霜は地上のすべてのものを覆って静かに降りている (辻井喬『深夜の読書』)

  さびしい時も、悲しい日も、そして苦しい年にも春はくる (前登志夫『吉野山河抄』)

      自然だけはまぎれもなく、冬の後に春がくる (田中澄江『雪間の若菜』)

  さらば象さらば抹香鯨たち酔いて歌えど日は高きかも    (佐々木幸綱『夏の鏡』)

      どんなにつらい目にあっても、その目の前に草は生えている (安永蕗子「受賞談」)

  山は昔から山であり、川は昔から川である (毎日新聞朝刊コラム「余祿」)

   これらの言葉を見ていると一つの共通点があるのに気づく。それは自然というものをよく見、その不変の自然の座標軸の上に自分という存在を確かめている点である。その座標軸が傾いたと思うような出来事があっても、その傾きは私たちの思いによるもので、なお、その出来事を内包して座標軸は確固としてある。私たちがいかにあっても宇宙的にバランスされた自然の座標軸は傾かず、微動もしない。変化は私たちの側にある。  写真はイメージで、緑溢れる深山。

                               

     楽浪(さざなみ)の志賀の辛崎幸くあれど大宮人の船待ちかねつ                                     柿本人麻呂

   この歌は、廃都になった近江の地を訪れた柿本人麻呂が眼前の風景に対して天智天皇の近江の宮の往時を偲び詠んだもので、「志賀の辛崎の景色は昔と変わらずあるのに、ここに遊んだ大宮人の船は今いくら待っても見ることが出来ない」と感懐した。つまり、自然が織りなす風景は変わらずあるが、人の世の光景は変遷して変わり行くということを言っているもので、人の世の哀れを詠んだ歌と知れる。では、もう一首。

     去年(こぞ)見てし秋の月夜は渡れども相見し妹はいや年離(さ)かる                                   柿本人麻呂

   この歌も同じような内容の歌で、自然は変わりないが、人は変わって行くことをいっているものである。人麻呂の歌は二首とも『万葉集』巻一に見えるが、後にもこの種の歌は登場する。次の歌は『古今和歌集』の歌だが、やはり、思いは一つ。似るところがある。

     月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身ひとつはもとの身にして                                            在原業平

   今の月は昔の月ではなく、春も昔の春ではないと業平は嘆く。だが、それは逆説的言いであって変わったのはもとの身であると自分では思っている業平自身の心情であることをいうものにほかならず、歌は自分の哀れを詠んでいると知れる。

   つまり、自然の座標軸は少しも変わらず、その座標軸上にあって、ときとともに人の心は移ろい、切なくも悲しみは悲しみとして人の心に訪れることを示すもので、業平以後もこの種の歌はそこここに見える。新古今時代の歌をあげてみると次のような歌が見える。

        恋しとは便りにつけて云ひやりき年は還りぬ人は帰らず                                                藤原良経

      かへり来ぬ昔を今と思ひ寝の夢の枕ににほふ橘                                                      式子内親王

      わすれじよ月もあはれと思ひ出よわが身の後の行末のあき                                               藤原定家

   業平の月も定家の月も同じ月、その影は見るものの心模様によって変わる。両方とも今というときの思いを詠んだもので、ともにその身の心もとなさ、覚束なさという人生上の意を込めた歌と知れるが、どちらにしても月は不変の存在であり、変わり移ろうのは月を眺める私たちであることが見て取れる。季節は還り来るが、その季節は新たなる心に来たるもので、昔のなつかしさはその新たなる心の中に宿るものである。そして、そこにあわれが感じられるのは、比して月に不変を感得する心があるからにほかならない。

   もちろん、月は一例に過ぎず、私たちの生の根本は、自然の不変の座標軸の上に展開しているということにある。私たちは、日々のさまざまな出来事に惑わされながらも、この座標軸を見開いた目で見据えていかなくてはならない。その目がしっかりとしてあれば、私たちの自負の思いは必ずや幸甚として輝くに違いない。恋歌も挽歌もすべてにおいて。

     危ふくも傾斜せむとすいや待てよいや逸れるなよ思ひは半ば

     譲れざる思ひを染めて酷暑より幾日か過ぎぬ葉鶏頭(かまつか)の赤

 葉鶏頭の赤い葉は、私がいかなる思いにあろうとも、確固たる自然の座標軸と同じ意を持つ存在であって、変わらない赤色である。これを変えようとする思いはあるが、その思いを通そうとすれば、そこに戦ぎが生じるのは自明である。要するに、根本のところは変わることがなく、変わるのは人の思いの方なのである。

     不条理の言葉呑みつつそこ過ぎて薹の立ちたる葉牡丹の花

     不条理の声もときには聞き及ぶされどここなる風景の道

 私たちの心は揺れる。しかし、確固たる自然の座標軸は揺るがない。ときには不条理の声も聞き及ぶが、確固たる自然の営みは、決して曲げられはしない。生きることについて、中島敦は「まったく何事も我々には判らぬ。理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きていくのが、我々生きもののさだめだ」と、『山月記』に述べている。自然の座標軸は確固としてあり、決してその意に逆らうことは出来ない。

 では、いま一首。

     ほととぎす鳴きつる方を眺むればただ有明の月ぞ残れる                                                   藤原実定

 この歌は『千載和歌集』に初出し、『小倉百人一首』にも選ばれた歌で、その眺めは私たち現代人にも容易に想像出来る。しかし、武家が台頭し、公家が衰退しつつあった平安時代末期に後徳大寺左大臣と称せられ、公家の名門にあった実定の歌であることを考えるとき、この歌が単に実景を詠んだものというに止まらず、内容の深さを感じさせるところがある。

   このほととぎすは単に夏を告げる渡り鳥ではなく、有明の月も単なる望月ではない。ほととぎすも月もそれ以上の何か、心象を意味しているように思える。詳しく言えば、ほととぎすを公家の面影とすれば、月は確固たる自然の座標軸に等しい存在の一景である。

   つまり、この歌は衰退を宿命づけられた公家である実定の心が見据えたもの。月は実景であろうが、実定の心持ちに思いを致して鑑賞するのが正しかろう。平清盛の福原遷都の後、旧都を訪れた際、異母妹の御所で詠んだ即興の歌とともに心のうちのその思いが伝わって来る一首の感が背景にある。

      ふるき都を来てみれば、

      浅茅が原とぞ荒れにける。

      月のひかりは隈なくて、

      秋風のみぞ身にはしむ。

 これがその即興の歌で、『源平盛衰記』が伝える有名な詩句であるが、感性の人、実定の心象をうかがい知ることの出来るものと言ってよかろう。つまり、移り行くのは人であり、月は変わらず、隈なく照らし、秋風はその季節にあって吹き荒ぶ。これをいかに感じるかは人の心というもの。変わるのは人であって、自然の座標軸は少しも揺らがないのである。

   時代は人がつくり、人が動かすものであるが、時代の変遷にかかわらず、自然の座標軸は少しも変わらずある。そして、歌は一面において時代が人をして生ましめるものであるが、それがいかにあっても、自然の座標軸は決して変わることはない。そして、生きとし生けるもの、その人のあわれがここに纏わる。つまり、私たちの感知の基本に自然の確固たる座標軸がある。これを私たちは真理ともいうが、このことを忘れてはなるまい。

   最近、地球温暖化が問題になって、日増しにそれを訴える声が高まっている。これは私たち人類にとって極めて重要な問題だが、ここで勘違いをしてはならない。つまり、温暖化は生物の環境に影響を及ぼすということで、地球の確固としてある座標軸が損なわれるわけではないということである。

   つまり、それは地球自体の問題ではなく、地球上に生きるものたちがその変化に右往左往するだけだということであり、それが私たち人類にも及びつつあるということにほかならない。そして、それは、私たち人類に及ぶ前にある種の動植物にすでに深刻な影響を及ぼし、私たち人類に警告しているということである。

       危ふさの地球規模なるその意味を問ひ問はれつつあるは人類(にんげん)