yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

明治専門学校

2022-02-10 06:24:36 | 歴史
九州の財閥、安川敬一郎は炭坑などの事業で巨額の利益を得ました。彼は「児孫のために美田を買わず」という信条を持っており、本業以外の動産を全部投じて、科学的専門教育の学校を作ろうと考えました。当時東京帝国大学総長の山川健次郎は安川の要請に応えて、東京帝国大学工科大学の教授達を伴って九州に向い、学校の規模、教育方針など学校の概要を決めて安川に話しました。当面、採鉱・冶金・機械の三学科で出発し、後に応用化学科、電気工学科を増設する、期間四年、全寮制という内容でした。
「校名は安川工業専門学校としてはいかがであろうか」
と、健次郎が提案すると安川は即座に断りました。
「私は自分のために学校を開くわけではない。校名も山川さんに一任します。」
そこで健次郎は明治時代に羽博たくという意味で明治専門学校と名付けました。これが現在、北九州市にある九州工業大学の前身となりました。健次郎は明治四十二年の入学式で、九州を中心にして全国から集まった俊英である新入生を前にして訓辞しました。
「本校は単に技術者を養成するのみの学校にあらず、技術に熟達せるジェントルマンを養成する学校である」
と、生徒達に切々と訴えました。

また、次のような徳目も掲げました。
一 忠孝を励むべし
一 言責を重んずべし
一 廉恥を修むべし
一 勇気を練るべし
一 礼儀を乱すべからず
一 服従を忘るべからず
一 節倹をつとむべし
一 摂生を怠るべからず
まさに會津の武士道の徳目を見るようです。若い頃、白虎隊士であった健次郎の面目躍如たるところです。
安川敬一郎は莫大な私財を投ずることにより、学校建設という国家百年の大計に寄与し、また、山川健次郎はこの計画に魂を吹きこみました。全く私心のないスケールの大きい二人の偉人により、明治専門学校が創立されたと言えます。これが、今日の北九州工業大学となりました。

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