日記

お遍路情報と、日記を綴っております。

夏の終わり

2015-08-31 10:46:51 | 日記

 今年も、8月30日、観音寺でトライアスロンの全国大会が行われた。関東ブロックの予選で勝ち残る大学も人数も、毎年ほぼ一定しているのか、初めて観音寺で開催されて以来うちに泊まってくれている国士舘大学の学生さんたちは、今年は男子選手6名女子2名である。前日には応援の学生達が合流、満員の21名になった。

 この時期は、普段静かな観音寺の町も、ロードレーサーに乗ったカッコいい若者が走り回って、活気に溢れている。うちのお客さんたちはいつも素泊まりで、食事は、外食したり、コンビニ、スーパーで食料を調達している。彼らが去ったあとはゴミの山であるが、観音寺でお金をおとしてくれたんだなあと、感謝している。

 本番4日前から泊まってトレーニングする。宅配便で先に着いた自転車の梱包を解いて、組立調整をする。

 大会前夜、11時もとっくに回っているというのに、緊張と興奮でテンションが上がっているのか、ユニフォームをきて記念撮影をはじめた。今夜はこのままで寝ると言ってたけど、トイレが不自由じゃないのかしら?いつの間にか髪を金髪に染めている。金髪は、応援の際に見つけ易くてよかった。目立つスタイルは、応援する側にはありがたい。

 社会人でもない、自由な大人の悪ふざけ、大学時代を思い出した。男子学生達は本当に、ふざけるのが好き、人を笑わせるのが好き、遊ぶ時にはバカになれるのである。女子はそうはいかない。なので、内心うらやましくもあった。

 予報通り、翌日は雨。選手は7時半ごろカッパをきて公園に向かった。雨だとバイクがスリップして危ない。が、女子スタートの9時半ごろに雨は上がって、1日中曇りという絶好の天気だった。

 

 午前中私は用事があったので、男子のランの少し前、1時半に、いつもの応援席?に行った。ここは夫の叔父の家の前、今年は進化して、パラソルを設営、お茶とお菓子が用意してある。応援団員も3名増えた。スゴイ!、来年はどんな応援団ができあがるのか楽しみである。

 あとで学生さんに聞くと

 「この応援、めっちゃよくわかりましたよ」

と言っていただけた。叔父さんのバケツをたたく音と

 「にいちゃん、歯くいしばってがんばれよー!」

と叫ぶ声、苦しい走りの途中で何某かの励みになったと思う。朝9時から最後のランナーが走りすぎるまで、ずっと応援していたという。こちらも、お疲れ様でした。

もうひとり、頑張った子がいる。ロクちゃん、お兄さんお姉さんの休憩のひととき、遊んでさしあげたのである。ロクちゃん、まだあまり人馴れしていなかったけれど、大勢の学生さんたちに遊んでもらって、旅館のネコとして成長したかも。立派な看板ネコになってもらいたい。

 きょうで夏休みも終わり。4年生の孫はまだ宿題が終わっていないという。私も母親もやらせることができなかったのである。ここまで勉強しないのも、たいしたものだ。さあ、明日の始業式どんな顔していくのやら。

 宴の後のお掃除、ゆっくりぼちぼちやろう。


立ち寄ったお店

2015-08-29 16:53:00 | 日記

  

 私の友人の、息子さん夫婦が営むうどん屋さん「みよしうどん」

 かわいい奥さんの好みで、「うどんカフェ」といった感じのお店である。看板、店内の小物、器など、アートが溢れている。半年くらい前、移転したこの店は、町はずれ山の麓にある。前の店は遍路道にそう外れていなかったので、「お昼ごはんにうどんをどうぞ」と紹介していたのだが、新しい店は、お遍路さんが立ち寄るわけにはいかない。けれど、引っ越ししてからは、駐車場も店も広くて、忙しそうに働いていた。どうか、繁盛するように祈っている。

 「山田牛乳」の氷メニュー、クリーム金時、400円。

 私が高校時代からこの店はあったように思う。それほど繁盛していたという記憶はない。高校時代、私たちのクラブが、日曜日の部活が終わっていく店は、正門前の藤原食堂だった。道路の拡張とともに消滅した。娘たちの時代は「山牛のソフト」を食べる為に店はたいそう賑わっていた。今は、ネットで調べて、遠くから食べにやってくるような有名店になった。多くの店が立ち退きの際、やめていくのに、「山牛」の老夫婦はまだ頑張っている。特におばあさん、お金の計算も、ソフトクリームを盛り付ける手際もシャキシャキしている。ファンの熱い要望に応えて店を続けてくれているが、途切れることなくお客さんがやってくる真夏は、しんどかろう。

 食の雑誌やテレビで、かき氷がしばしば取り上げられる。一旦広まると長い行列ができるほど、みなさん食にこだわっている。仁尾という町にある、「氷室」という氷しか売ってないお店、大勢の人が店の前に立っていた。まだ梅雨の肌寒い時期、ここの氷を食べに行ったら、ガラガラに空いていて、とても気持ちが良かった。大きなガラス窓の向こうに海が広がっている。その日、生憎の雨だったが、ギラギラ照りつける真夏や、日が沈む夕暮時は最高のロケーションと思った。こんな時は長い行列を覚悟しなくてはいけない。

 

 妹がイヌを連れて帰ってきたので、食事はペット同伴可の、広い庭のあるカフェでとった。室内は冷房が効いていて快適だけど、外のテラス席は気兼ねなく、ゆっくり食事ができた。隣席にボーダーコリーが3頭いた。妹のはボルゾイだ。まだ子供なので一緒に遊びたがっている。様子を見ながらリードを離してやると、大喜びで誘いに行ったが、相手に嫌がられて可哀そうに繋がれた。体の大きさが違うと遊びにくいそうだ。 


継続は力です

2015-08-24 10:05:07 | 日記

 先日お出でたお客様は、中国人の留学生。暗くなってもいらっしゃらないので、キャンセルかなあと思っていたら、9時も過ぎて若い女性が現れた。くには江蘇州で、一年間京都大学に留学してるという。来月中国に帰るというので、最後の旅行をしている。うちに泊まった前日は高知のゲストハウスらしい。高知では、牧野植物園に行ったそうだ。私もいつか、リニューアルしたこの植物園に行ってみたい。

 日本語はとても上手で、私が中国語を話す機会は少なかった。私が中国語にとりかかったのは、かれこれ20年以上も前のことだ。子育てに少し余裕ができて、家でできることだったから。ラジオとテレビの語学講座を利用しての独学だったので、初めは何が何だかさっぱりわからなかった。今は中国人の先生に教えてもらっている。先生は日本にきて20年にもなる方で、香川大学の講師もしておられる。こちらのわからないことをすぐ理解してくださって、時にご自身も辞書を引きながら一生懸命答えてくださる。素晴らしい先生に巡り会えたと思っている。それぞれの言葉に独特の表現方法があって、少しずつわかるようになって、勉強がより楽しくなってきた。日本語を中国語に訳す作文は、難しくて脳みそが七転八倒するが、先生に教わりながら少しずつ勉強していくと、面白く感じる。

 20年も勉強していながら、進歩が遅いのはなさけない。仕事その他が忙しいときは、何日も勉強はお休み、何度も中断、何のために勉強するのかわからない時もあった。それでも細々と続けてきて、今やっとその甲斐があったと実感している。まさか、中国語を話すお客様が次々と現れるとは思わなかった。ここにきてようやく、こつこつやってくたことが報われた。まだまだ日常会話程度なので、難しい話はできない。お愛嬌というところだ。継続は力なり。途中でいやになることは必ずあるけれど、投げ出してはいけない。やり続けてよかったと、いつか思う日が必ずやってくる。

 部屋に残されていたメッセージと高知の羊羹。ありがとう、朱さん。とてもまじめで素直な、好感のもてる女性でした。


夏休みもあと一週間

2015-08-20 20:32:05 | 日記

 一日があっという間におわり、一週間が慌ただしく過ぎていき、気が付けば夏休みが残り一週間になった。当初、長い夏休み、どうやって乗り切ろうと憂鬱になったが、確実に地球は廻っているんだ。一日一日と終わりに近づいていく。

 下の孫は児童保育に通っているので、朝、弁当を作って持たせれば夕方まで声を聞くこともない。問題は上の孫だった。この子は誰のいうことも聞かない。素知らぬ顔でやりたいことをやっている。宿題を終わらせないと気が気でないこちら側は、いつもイライラガミガミ言ってしまう。うるさくいうほど逆効果と分かっているのに。勉強しないにしても、せめて午前中の自宅待機くらいは守らせなくてはと、見張っているのに、目を離したスキに、いつのまにか近所の友達の家でゲームをしている。二回連れ戻して、三回目にはこちらが根負けした。こんな調子だから、彼の宿題はまだたっぷり残っているようだ。親のいうことを聞かない子だけど、外では、もう少しちゃんとできているらしい。反抗もなかなか堂に入っている。

 

 8月初めに行われた孫の水泳大会。30年近く前にもこんな光景があったっけ。真夏のプールサイドで子供たちの応援をした。

 習字の宿題のついでに、ギャラリーも参加。毛筆を持つの、もしかして50年ぶり? 書道の基本、筆さばきも忘れてしまった。私たちが子供の頃、練習は新聞紙、清書でやっと半紙に書いていた。墨を磨るのも時間がかかった。孫は墨汁を硯に垂らし、半紙5枚ほど書いて宿題終了。

 この書道遊びに、アメリカ人のジェシーも面白がって参加したけれど、彼は「書道は必要ない」といった。ウーン、やはり外国人だなあ、と思った。私達が小学生の頃、今の子供たちよりもっとたくさん書道の時間があったように思う。お蔭で、50年経たのちも筆を持てるし、年賀状を筆ペンで書くことができる。将来、ほとんどの子は筆を持つことがないだろうが、少し齧っておくことは大事と思う。学力のみならず、芸術や文化など広い知識を得るために、学校に行くことは重要なことである。

 


終戦記念日

2015-08-15 22:49:24 | 日記

 猛暑のピークが過ぎたのか、部屋の気温が30度きれている。少し過ごしやすく感じる。

 毎年今頃の時期には、戦争に関する番組が放映されるが、今年は終戦70年の節目だからか、NHKでは連日シリーズで流されている。私たちは、テレビ、映画、書物などから、戦争についてある程度の知識はある。しかし、今でも、新しい事実が発見され、報道され、驚きと興味をもって見ている。と同時に、無意味な戦争を終えることができず、死ななくてもよかったたくさんの命を奪ったあの時代の日本に憤りを感じる。

 アメリカは、日本人捕虜をオーストラリアに収容していた。当時の尋問の記録が残っている。日本人は捕虜となることを恥として、自決するように命令されていた。捕虜になったときの教育をうけていないので、アメリカの尋問に簡単に答えてしまう。アメリカ人は、自分の名前、シリアルナンバー以外言ってはいけないと、厳しく教育されている。ある日本人捕虜、この人は東大卒業後、外交官を務めたエリート将校だが、アメリカ側は当然彼を最高の情報収集元とし、戦争を早く収束させるためにアメリカに協力するように、何度も説得する。レコードのなかの、尋問の生々しい声が、彼の苦悩をあらわしている。戦争を知る貴重な資料だなあと思った。彼はアメリカに協力することを決断し、終戦間際に飛行機から撒かれたビラも作成している。戦後、日本で暮らしているが、このことは、誰にも話すことはなかった。裏切り者のレッテルを貼られるわけだから、話せるはずがない。

 日本軍が玉砕した沖縄や東南アジアでは、今でもたくさんの遺骨が残されている。アメリカ軍もたくさん戦死したけれど、彼らは仲間の遺体を回収する。日本人には遺体を運んで埋葬する余力もなく、逃げるだけが精いっぱいだった。日本とアメリカでは、戦い方も戦力も全然違った。アメリカは兵士の命を大事と考える。虫けらのように扱われた命たちが哀れである。

 戦争も終盤になると、14~17歳の少年までも兵隊にとられている。元少年兵の生き残り、前線で逃げまどった従軍看護婦の証言、思い出したくない忌まわしい記憶、話したくない過酷な体験。重い口から少しずつ、はきだされていく。戦争の歴史を後世に伝えていかなければ、という大義名分で、戦争のことは忘れようとして、静かに暮らしている老人の口を、こじ開けるような気がする。

 終戦記念日は、未だ戦争をしているアラブやアフリカから遠く離れて、平和に暮らしている日本人が、太平洋戦争の歴史を考えなおす良い機会である。

 私の父は60歳で他界した。衛生兵であったと聞いている。子供の頃、家に注射器があって、母に静脈注射を打っているのを何度か見たことがある。父は自分から戦争のことを話したことはなかった。

 毎年来てくださる歩き遍路さんで、90歳も過ぎた方がいた。2年前、喪中ハガキが届いてびっくりした。その年の春も泊まってくれていた。あまりに急なことであった。「自分は特攻隊の生き残りだ」とおっしゃっていた。最後に泊まってくださったとき、「知覧の記念館にも2度行ったが、もう行きたくない」と目を潤ませて静かに語った。あのとき、なにか言いたいことがあったのかもしれなかった。特攻のことなど、聞かせてくださいなんて言えるものでない。こうして、戦争体験をした人が、一人また一人と消えていく。

 

  

 もうとっくに終わってしまったが、我が家のキイチゴ。ブルーベリーも、もうそろそろ終わる。

キイチゴは、余程真っ黒に熟さないと酸っぱい。なので、砂糖で煮てジャムにした。ブツブツした小さな種が気にかかるので、面倒だけど裏ごしした。アクのせいかなあ、少し苦味を感じる。

 畑の野菜は日照りで全くだめになった。こまめに水を遣らないといけなかった。暑さがやわらぐまで農作業はお休みだ。