日記

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終戦記念日

2015-08-15 22:49:24 | 日記

 猛暑のピークが過ぎたのか、部屋の気温が30度きれている。少し過ごしやすく感じる。

 毎年今頃の時期には、戦争に関する番組が放映されるが、今年は終戦70年の節目だからか、NHKでは連日シリーズで流されている。私たちは、テレビ、映画、書物などから、戦争についてある程度の知識はある。しかし、今でも、新しい事実が発見され、報道され、驚きと興味をもって見ている。と同時に、無意味な戦争を終えることができず、死ななくてもよかったたくさんの命を奪ったあの時代の日本に憤りを感じる。

 アメリカは、日本人捕虜をオーストラリアに収容していた。当時の尋問の記録が残っている。日本人は捕虜となることを恥として、自決するように命令されていた。捕虜になったときの教育をうけていないので、アメリカの尋問に簡単に答えてしまう。アメリカ人は、自分の名前、シリアルナンバー以外言ってはいけないと、厳しく教育されている。ある日本人捕虜、この人は東大卒業後、外交官を務めたエリート将校だが、アメリカ側は当然彼を最高の情報収集元とし、戦争を早く収束させるためにアメリカに協力するように、何度も説得する。レコードのなかの、尋問の生々しい声が、彼の苦悩をあらわしている。戦争を知る貴重な資料だなあと思った。彼はアメリカに協力することを決断し、終戦間際に飛行機から撒かれたビラも作成している。戦後、日本で暮らしているが、このことは、誰にも話すことはなかった。裏切り者のレッテルを貼られるわけだから、話せるはずがない。

 日本軍が玉砕した沖縄や東南アジアでは、今でもたくさんの遺骨が残されている。アメリカ軍もたくさん戦死したけれど、彼らは仲間の遺体を回収する。日本人には遺体を運んで埋葬する余力もなく、逃げるだけが精いっぱいだった。日本とアメリカでは、戦い方も戦力も全然違った。アメリカは兵士の命を大事と考える。虫けらのように扱われた命たちが哀れである。

 戦争も終盤になると、14~17歳の少年までも兵隊にとられている。元少年兵の生き残り、前線で逃げまどった従軍看護婦の証言、思い出したくない忌まわしい記憶、話したくない過酷な体験。重い口から少しずつ、はきだされていく。戦争の歴史を後世に伝えていかなければ、という大義名分で、戦争のことは忘れようとして、静かに暮らしている老人の口を、こじ開けるような気がする。

 終戦記念日は、未だ戦争をしているアラブやアフリカから遠く離れて、平和に暮らしている日本人が、太平洋戦争の歴史を考えなおす良い機会である。

 私の父は60歳で他界した。衛生兵であったと聞いている。子供の頃、家に注射器があって、母に静脈注射を打っているのを何度か見たことがある。父は自分から戦争のことを話したことはなかった。

 毎年来てくださる歩き遍路さんで、90歳も過ぎた方がいた。2年前、喪中ハガキが届いてびっくりした。その年の春も泊まってくれていた。あまりに急なことであった。「自分は特攻隊の生き残りだ」とおっしゃっていた。最後に泊まってくださったとき、「知覧の記念館にも2度行ったが、もう行きたくない」と目を潤ませて静かに語った。あのとき、なにか言いたいことがあったのかもしれなかった。特攻のことなど、聞かせてくださいなんて言えるものでない。こうして、戦争体験をした人が、一人また一人と消えていく。

 

  

 もうとっくに終わってしまったが、我が家のキイチゴ。ブルーベリーも、もうそろそろ終わる。

キイチゴは、余程真っ黒に熟さないと酸っぱい。なので、砂糖で煮てジャムにした。ブツブツした小さな種が気にかかるので、面倒だけど裏ごしした。アクのせいかなあ、少し苦味を感じる。

 畑の野菜は日照りで全くだめになった。こまめに水を遣らないといけなかった。暑さがやわらぐまで農作業はお休みだ。