観音寺の街路樹、花水木。遍路道になっている通りなので、お遍路さんの目を楽しませてくれたはずだ。
これも、街路樹のモミジバフウ。名札をぶら下げているのでたすかる。
図書館の脇に植えてあるのもこの木だと思うが、私はあの場所の、あの木の葉の色が毎日変わっていくのがとてもきれい、とおもった。しばふの緑と近代的な建築物と樹木がマッチしていると思う。なになにの木が好きだからといって、やたら屋敷に植えても、まわりとの調和を考えなければ後悔することになる。最近、ヤマボウシやらハナミズキやらアメリカハナノキやら、母の家の庭に植えまくった。10年20年後に、娘や孫から、「こんなところにこんなもの植えて!」とおこられそうだ。
このような暗赤色の美しい紅葉を、自分の家でお茶でも飲みながら眺められたら最高と思って、ホームセンターで衝動買いをして、アメリカハナノキというのを植えてしまった。インターネットで調べると、樹高24メートルだって! 大きな木を植えたいという願望はあったけど、ちょっと・・・。鍬で掘ったとき、地面がとても堅かったから、たぶんそれほど大きくならないだろうと思う。
今、木も草も一斉に冬支度している。皆、個性的に紅葉して、お蔭で私はよそ見運転ばかりしている。桜並木のやさしいオレンジ色は、最高にきれいだ。こころが落ち着く気がする。欅の大木の黄褐色もなかなかみごとだ。お掃除する人が忙しそうだけど、落ち葉のじゅうたんのままでもいいのに。本当は、私の好きな欅も庭に植えたいのだ。でも勇気がない。
季節はかけあしで・・・、母の痴呆にも拍車がかかる。この間、私もとうとうキレて、「お母さん、ボケとる!」「もう家にこないで!」と、このような言葉が口からとびだしてしまった。「はいはい」と落ち着いて帰って行った。何分か後には頭は白紙になっているから、何といっても気にしなくていいし、何を言っても無駄なのだ。
ここ10日くらい前から、夕暮れから宵にかけて、「犬が吠える、誰か入ってくる」とか、「門のところで誰か立っていて、ライトを自分の方に照らしている」といってひどく怖がる。夕方の忙しい時間帯だと迎えにもいけなくて、タクシーをまわす。この間もタクシーに迎えに行ってもらって家に泊めるつもりだった。ところが、家にきてからも落ち着かず、「家の鍵を閉め忘れたから帰る」としつこくいうので、又タクシーで帰らせた。このとき、頭にきて「もう来るな」と発したのである。
家に着いてから、「今帰りました」とケロッと電話してくる。さっきの被害妄想など何処吹く風。「あっ、そう」 ガチャッと電話を切る私。
先日日曜日、夕方5時20分ごろ、家にいるかどうか、持たせてあるキッズ携帯を検索してみた。天気のいい日曜が一番危ないのだ。「お天気がいいから、近所の人もうちの家族も(一人暮らしなんだから家族なんていやしない、ときどきボケて勘違いする)みんな遊びに行ってる。さびしいから、私も行こう。」と思うらしい。母は2キロくらい離れたところにいる。いつものように自分の実家の財田に行くらしい。私は仕事中で出られない。もうあたりは暗い。どうか交通事故に遭わないように散歩していて、といのるばかりだった。そのうち、夫がゴルフが終わって捜しにいってくれた。GPSはとても役にたっている。ただ、農道など細道を歩かれると捜しようがない。2年の契約でドコモでかったけれど、それまでに不要になるかもしれない。
こんなことがあったり、近所に住む自治会長さんにもしつこく電話して迷惑をかけたりすると、「もはやこれまで!」と思ってしまう。「入所させよう、明日はケアマネさんにおねがいして手続きをしよう」 一夜明けて冷静になると「もう少し・・・」と思い留まってしまう。一旦入ってしまうと、もう二度とここで一人暮らしはできなくなる。母がいなくなった後も、犬や猫、畑、草木の世話があるから、結局ここに通わなくてはいけない。
このような介護をするはめになるとは思いもよらなかった。ボケたら丈夫になると誰かが言ってたけど、本当だなあ。頭がまともな時は、しょっちゅう医者に行ってクスリ漬けだった。「私は体が弱い。毎日こんなにクスリをのんでいる」 自慢しているのかしらとおもうほど、会う人ごとに訴えるのだ。ボケ始めてクスリの管理がおぼつかなくなり、のまなくなると、見違えるほど元気になった。自分の体調についてあれこれかんがえる頭がなくなったのだ。一日に何度も血圧を測定しては、自分の体調を気遣っていたのがうそみたいだ。今は血圧もよし、血液検査もよし、食もよし、健康そのものだ。
若い頃から外に出たがる性格が災いして、徘徊という結果に繋がっている。徘徊するときはいつも「山に行く、山へ行きたかった」といって歩いている。私はまさに母のDNAを引き継いでいるようだ。ということは、30年後、同じ運命かな。