蝉の声も何時しか、ツクツクボウシが優勢になってきた。暑中見舞いを出したい方がいて、その用意をしなきゃと思いつつ、立秋が過ぎて残暑見舞いの時期になった。それも、あれよあれよと言ううちに機会を逃して、年賀状になるのだろうか。毎年お遍路に来ていた、それもご高齢の方がパタッと見えなくなったり、体調が悪くて予約キャンセルという方がいたりして、心配である。
娘の家が来月出来上がる。1年かかって漸く。同居中の彼らが引っ越したら、少しは旅館内も片付くだろうか。まてよ、孫たちは学校から帰ったらこっちに来て、ご飯食べて家に帰るのかな。どこまで別居になるのか、生活が始まらなければわからないところだ。
娘の家は、外も内も白で統一している。車で走っていると、黒い家もよく見かける。それぞれの好みで建築屋を選び、デザインを決め、自分にとっての快適さを追及している。娘は湿気、カビを特に嫌い、四六時中エアコンで換気する家を建てた。人から見られないように、路地に面した壁には明り取り程度の窓しかない。反対の南側には大きなサッシがある。私のような年代は、エアコンより窓からの自然の風を好む。暑い夏も我慢できる限りは、外の人の視線を気にせず、網戸で風を入れている。午前中は結構涼しいのだ。
実家の近くに建設中の家は昔の日本家屋である。泥壁を塗っては暫く置き、今、飾り風の軒と、壁に板を打ち付けて、また止まっている。基礎を始めて2,3年にはなるような気がする。最初は小さな総二階の家という感じだったが、瓦が乗り、外回りがだんだん出来上がるにつれて、立派などっしりとした、小さなお城のような雰囲気になった。今時このような家を建てる人は少ない。建てられる職人さんもいなくなるのではないかと思う。
川之江の泉製紙の傍の道路際に、総二階の小さな直方体といった格好の家がある。建ち始めたころ、「こんな狭い場所に家が建つんだ」と驚いたが、あれから4,5年経ったろうか、今では建物の周りの狭い空間に植えられた草木がしっくり馴染んで、外観が可愛らしい。若い夫婦と子供が住む家だろう、ほのぼのとした温かさを感じる。ここの奥さんは庭仕事が大好きで、家の中もいつもきちんと片付いているだろうなあ。とまあ、人は外見で色々なことを想像してしまうので、できれば外回りを綺麗にしておいた方がいいかな。
旅館の増築、娘の新築を通して、家について考えさせられた。家にお金をかける人、一代限りの家を建てる人、賃貸を好む人、考え方は様々である。立派な大きな家には後を継いで住んでくれる子孫がいるんだろうなあ。昔はちゃんと跡継ぎが決められていた。今は何処に行こうが何をしようが自由である。少子化でもある。果たして頑丈で100年以上も持ちこたえる家は要るだろうか。どこで暮らすかわからない時代、建てては壊すやり方でいいのかもしれない。ゴミの山ができそうだが。
私たちにもしお金があって家を建てたとしても、すぐに物置と化すだろう。情けないことに、綺麗な家は必要ない。むしろ、古い建物を壊す費用を貯めなくてはいけない。