日記

お遍路情報と、日記を綴っております。

観音寺でトライアスロン

2007-08-30 18:11:45 | インポート

 ゆうべは、やっと、エアコンなしで眠れた。満月のような、一日足りないのか十六夜なのかわからないお月さんが、煌煌とかがやいていた。薄い雲がたなびいていて、秋には間違いない。

 8月26日、残暑はものすごく厳しかったけれど、大学生達のトライアスロン大会がうちの近くで行われた。トライアスロンの会場として可能な場所を探すのもたいへんだっただろう。観音寺の住民も、トライアスロンはテレビでしか見たことのない人が殆どだろうから、物珍しく楽しく見学できたのではないだろうか。これから3年くらいはこの地で開催されることになっている。

 うちには、審判、選手半々くらい、合計19人泊まられた。真夏、満室状態で、エアコン、テレビ、パソコン等等一斉に使われると、ブレーカーが落ちるだろうと、はらはらしていた。学生さんたちが入られた時に、「ブレーカーが落ちたら、ローカに取り付けてある盤のレバーを自分で上げてね。そして要らない電気消してね」とお願いしておいた。夕食時のてんてこ舞いの時間には、私は客室の方まで出向けないからだ。 

 神奈川大学、国士舘大学、和光大学、選手と応援含めて9人泊まった。うち2人が女性選手。選手は大会前々日から泊まった。中には、その前から観音寺に入って、琴弾公園のあずまやでテントしていたという子がいた。東京から自転車で10何泊かしてここまでやってきたのだそうだ。真っ黒に日焼けした、人なつっこい感じの学生だった。さすが男の子、やることが・・・。しかし、帰り際、「来年はもう自転車では来ません」と言った。トレーニングというより疲れのほうが大きかったのかな。「もっと強くなって、来年また来ます」といって帰って行った。それも、夜行バスに乗るため、高松まで自転車で行った。大会のあともう1泊しているとはいえ、この暑いのにほんとに元気だ。神奈川大学の学生さんが11位という好成績だった。「すごいですねえ」というと、「来年、優勝します!」と言って帰って行った。満足できなかったのかな。くやしかったのかもしれない。失格になった学生さんも何人かいるけれど、ひとまわり強くなって、又きてほしいものだ。同じお顔が見られたらうれしいなあ。

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6台のバイクが互い違いに、狭いスペースにきれいに収まっている

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100_0285 前日、トレーニングに行くところ

 大会当日

100_0287 本部がある、有明グラウンド100_0290

女子は7時45分スタート、有明海水浴場で

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100_0299 女子が終わってから、男子は10時15分スタート

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ランは琴弾公園を4周

  当日、審判は5時半に集合がかかっているので、朝ごはんは4じ半、選手は女子のスタートに合わせて5時の食事、したがって、私の起床は2時半である。寝る時間がない、でも、頑張らなくっちゃ。しんどいのは今日だけなんだから。

 朝食の片付けが終わって、女子のスタートを見に行く。このときは雲が多くて日差しがなかった。ずっとこんなだと選手も応援も楽なんだけど。雲は次第にどっかへ飛んでいってしまい、いつものようにガンガン照り出した。救急車、パトカー、なぜか消防車まで出てきた。新聞によると、40人を越える人が熱中症で手当てをうけ、5人が救急車で運ばれたそうだ。

 あのサイレンの音が聞こえると、倒れたかな、怪我したかな、とか、野次馬根性で覗きたくなるが、12年前、私は救急車にのせてもらったその本人だった。その頃、丸亀沖の広島という小さな島でトライアスロン大会が行われていた。友人がやっていたので私も挑戦、ショートの半分のビギナーの部に出た。バイクで下りカーブで転倒、左手首骨折、左頭部打撲、救急車のお世話になったわけだ。1週間検査で入院した。さあもう退院、というところで、左顔面神経麻痺になった。驚きと不安と悲しみに打ちひしがれたが、2ヶ月の治療で、多少後遺症はあるものの、なんとかみられるようになった。あの時は、鏡に笑いかけると、ビートたけしの顔が思い出されて、絶望的になった。彼は事故による損傷だが、私のは事故の1週間あとだから、たぶんウィルスが原因だろうと麻酔医は言ってた。懲りずに、その後2回、広島で完走できたので、満足している。

 選手達の姿を見ていると、又出てみたいなあとチラッと思ったりするが、つらくて、苦しーいトレーニングに、今の私は耐えられそうにない。安易な生活にどっぷりひたっている。大会を目の当たりにして、自分もやってみたいなあと感じた観音寺の若い子が、挑戦してくれたらいいなあと思う。 


オーストラリアでの生活

2007-08-16 17:45:06 | インポート

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 娘が住んでいるところは、サウス・ヤラという地域で、フリンダース・ストリート駅から3つめ、ホークス・バーンという駅で降りる。閑静な住宅街で、暗くなると人通りのない道を100メートルぐらいあるかなくてはいけない。彼女に言わせると、別に怖くないそうである。日本でも、東京辺りでは、女性が夜道をひとりで歩くのは危険だと思うが。

 娘は、1件家に、オージーの男の子2人と韓国人の女の子の4人で住んでいる。上左の写真は通りからみたところ。右はリビング。

Cimg4622 左の写真はキッチン。

 2階建てで、階下に2人、2階に娘と、隣の部屋にオージーの男の子が住んでいる。クローゼット付きの4畳半くらいの広さだ。2階にバスルームとトイレがあり、隣の男の子と共同で使うそうだ。ドアは鍵がないので、閉まっているときは使用中だから気をつけるよう言われた。なんと娘の部屋にも鍵がない!この家に鍵があるのは玄関だけである。日本ではこんなことありえない。そんなに信頼していいの?彼らは部屋にいるのかいないのかわからないくらい静かにくらしている。そしてマナーを守ってきちんとしている。最初の日、韓国人のジェインさんと1階のオージーの人には挨拶したが、2階のお隣さんとは機会がなくてとうとう会わずじまいだ。彼は日本に興味があるらしくて、私が帰った後、日本語で話したかったといってたらしいが、私も会えなくて残念に思った。彼らは互いに干渉しないけれども、ときに一緒に食事会をするそうだ。ジェインさんは娘に、お料理を作ってご馳走してくれたり、羽根布団を貸してくれたそうだ。隣の部屋のオージー、ギャレスさんはパソコンの操作を教えてくれるという。みんないい人、と娘は言う。確かに真面目に暮らしている様子が見て取れる。皆に助けられて幸せ者だ。

  彼女の部屋には小さなヒーターがひとつある。部屋が狭いからこれでいいといえばいいが・・・。バスルームは寒々としていて、水不足だからバスタブに湯は張れないし、トイレは冷たいし、ツアーだったら暖かい部屋で快適だったかなとチラッと思ったが、彼女の生活ぶりを知る上では、この方がよかった。

 ある日、すき焼きを作って、といわれた。せっかくこんな遠いところに、しかも旅行シーズンオフの冬にはるばるきたのだから、望みを叶えてやらなければ意味がない。材料は、白菜、蒟蒻の代わりに春雨、ネギは高くて品がよくなかったので代わりに玉葱、干ししいたけ、である。焼き豆腐はスーパーにみあたらない。肝心の肉は本場のオージービーフだが、スーパーには薄切り肉は売ってない。ステーキ用のぶあついやつしかない。かろうじて拍子木切りの肉があったので、それで間に合わせる。牛肉は脂身のない赤身ばかりだ。調味料は酒、砂糖、私が日本から持ってきたダシ醤油。なんとか似つかわしい料理ができあがった。娘は「すき焼きの味がする」と言って、よろこんで食べてくれた。よかった。ここまで来た甲斐があった。リビングで寛いでいた男の子にも、おすそ分けと言って、味見してもらった。彼がこの味をどう思っかはわからないが、お返しのつもりだろう、キャンディーの入ったビンを持ってきた。彼は真面目でおとなしくて几帳面な性格と聞いている。なんだかあたたかい気がした。

 肉がメインの国だ。ステーキも専門店に食べに行った。赤身の肉だけれど、柔らかくて美味しかった。ソースが何種類かあって選べる。値段は安くない。何につけても、物価は日本と同じか、むしろ高いくらいだ。

 スーパーで食材をたくさん買って、冷蔵庫と食料棚を満たしてやった。といっても、冷蔵庫なども共同だから狭いんだけど。キッチンの道具も食器も、すべて共同だから楽と言っていた。自分で作った方が経済的だから、ここの女の子2人はキッチンをよく使う。男の子は全然やらないようだ。それに2人は働いているからお金もあるのだろう。娘は、よその国の友達からもお料理を習って、まめにやってるようだ。 


う~、暑い!

2007-08-13 08:09:56 | インポート

 一年中で一番暑いときだろうか。毎日、水の事故や熱中症で何人なくなったとテレビでいっている。先日の、2歳の男の子が車に放置されたまま熱中症で亡くなった事故は、本当に気の毒だった。ちょうど孫と同じくらいだ。泣いて助けを求めただろうけれど、誰も気がつかなかったのか。大人の庇護なくては生きてゆけない幼い子が大人の不注意で死んでしまったり、虐待されて殺されてしまったり・・・。どうか大事に育ててあげて、と願う。

 昨日もジョギング中亡くなった人がいるという。この猛暑が峠をこすまでは、仕事も遊びも控えめにしてほしいものだ。

 8月8日出発、八十八ヶ所サイクル駅伝が催されているそうな。善通寺発着、自転車で遍路道を駅伝する。お遍路さんではない。八十八ヶ所の名を借りて、遍路道を走らせてもらう自転車乗りのレクレーションだろう。たくさんの仲間と四国一周というのがまた違った達成感が味わえるのかも。

 この暑いときに歩き遍路さんも毎日数人は見かける。山なら登れるが、焼けたアスファルトを歩くのはごめん蒙りたい。ついこの間、5人連れのオランダ人の歩き遍路さんが泊まられた。リーダーの年配の男性は、奥様が日本人で、ご自分も山口と名乗られた。だから予約の電話を受けたときは日本人と思った。遍路は13回目だそうだ。大正大学で仏教を教えていたらしい。どうりで日本語がうまい。先達として学生さんを連れてきている。学生さんは夏休みに、仕事を持っている人は今しか休みが取れない、だから真夏でも歩く人はいる。真夏しかできない人もけっこういるのだ。昨日も仕事を持っている男性が、区切り打ちで歩いておいでた。猛暑の中歩くのも自分の意思、人がとやかく言うことでもない。かく言う私も、暑い日にわざわざジョギングしたり、自転車でトレーニングしたことがある。強い意志に支えられていれば過酷な条件でも歩ける。どうか無理せず、無事に結願されるよう祈りたい。

 


オーストラリアへ行く

2007-08-10 09:52:09 | インポート

 7月初め、妹が1週間まとめて休みをとって母の面倒をみてくれるというので、この際、娘が住むオーストラリアに、思い切って、遊びに行くことにした。

 目的地メルボルンまでは、飛行機内で正味12、3時間過ごさなくてはいけない。長時間のフライトと言葉の問題、この二つが心配の種だった。夜行バスや電車なら、降りて体を動かせることができるが、飛行機は乗ったが最後、あの狭い空間の中で運命に身を任せるしかない。

 でも案ずるほどのことはなかった。悪い気象条件でたたき起こされない限り、眠っていれば目的地につく。運動の為、1回トイレに立った以外は、殆どねていた。このぶんだと、遠くておっくうだと思っていたヨーロッパへもいけそうだ。遥か遠い地域や、現地の条件の厳しいところ(中国の内地の方へも行ってみたいと思っている)への旅行は、体が元気でないと行けない。

 二つ目の問題、英語のできない私は、直通で娘の住むメルボルンへ行きたかったが、成田からは何便もあるのに、関空からは乗り継ぎ便しかない。料金が安い、乗り継ぎはその日のうちに、ベトナムや香港乗り継ぎでなく、という条件でパソコンでさがしたが、なかなかみつからない。結局、以前チケットを手配してもらった旅行会社に電話して予約してもらった。航空券65000円、燃料費40000円、その他諸経費入れて合計108000円で手を打った。カンタス航空、往きはブリスベン乗り継ぎ、帰りはシドニー乗り継ぎだ。格安ツアーを見てみると、これ以下でもいくつかあった。しかし一人参加の場合ホテル代追加されるし、現地での自由時間のこともあるので、パック旅行は都合が悪い。

 関空からの出発は21時50分予定だったが、到着便の遅れから1時間ずれこんで、ブリスベンでの乗り継ぎ時間が1時間余りになってしまい、心配していた通り、失敗してしまった。

 ブリスベンで飛行機を降りて、入国審査を受けた。飛行機の中で、隣の席の日本人の女の子に尋ねながら既に記入済みだったのに、審査官は日本語のカードを取り出して、再度書けという。なぜだ?しゃべれないんだから、おっしゃるとおりもう一度書くしかない。次に、スーツケースをひき取って、荷物検査を受けた。女性の係員が開けて、中身を丹念に調べた。中は、娘から頼まれた食料がほとんどだ。なんだか女性の表情が険しくなってきた。観音寺饅頭や味噌汁などいくつか抜き取って、別の人に聞きに行った。すぐに戻ってきて、日本語で書いた書類を私に見せた。オーストラリアにはすべての食料品を持ち込めない、22万円だったか、罰金が科せられると書いてあった。今回は初めてなので許してやる、みたいなことを言われて、胸を撫で下ろした。娘を喜ばせようと、重たい荷物をせっかくここまで運んだあげく、没収されたのではあんまりだ。

 荷物検査が終わって到着ロビーに出る。さて国内線乗り場は・・・?。聞いてみると、外に出ろ見たいに言われる。これはヤバイ。時間がない。お客を出迎えに来ている日本人のガイドを見つけて国内線の場所を聞く。電車で行けば2,3分だけど、20分前には締めるからタクシーで行った方がいいと教えてくれた。関空のように、国際線と国内線が同じ建物であると思い込んでいた。成田と羽田とまではいかなくても、離れた場所にあったのだ。外国人が先ず日本に着いて、国内線に乗り換えて目的地に行こうとするとき、スムーズに行けるだろうか。日本ゴチャゴチャしていて狭くて、人がいっぱいいる。私でもきっと迷うにちがいない。

 タクシーをとばしてドメスティック・ポートに行くと、又、どのカウンターで手続きするのかわからない。ええい、どこでもいいや。飛び込んでいきなりチケットを見せる。職員は首を振って「ネクスト」、間に合わなかったか・・・。すぐ、次のチケットを発行してくれた。お金は要らなかった。どうしてかな?到着が1時間遅れたからかな?私がモタモタしていたから乗り遅れたのであって、もし他にメルボルン行きの人がいたとしたら、その人はうまく乗れたに違いない。

 搭乗手続きを終えて荷物チェックのとき、ウェストバッグにくっつけていたデジカメがないことに気づいた。この旅行の為に買ったばかりだった。心を鎮めて、何処でなくしたのか、一生懸命思い出す。インターナショナル・ポートでバッグを外してエックス線の中を通したとき、あの時バッグとカメラが離れ離れになったのだ。諦めるには惜しい。飛行機がでるまで、まだたっぷり時間はある。よし、捜しに行こう。

 タクシーでインターナショナル・ポートへ向かった。さて、何処に行って、どう言おうかな。インフォメーションカウンターで、デジカメをなくした旨つたえた。やがて、むこうから男性がやってきて、質問する。何処の製品か、ケースの色は、材質は、というようなこと。そして後ろに隠し持っていた品物を目の前に出してみせた。私のカメラだった。そのときのうれしかったこと。こんなに早くみつかるとは思わなかった。もしかすると、飛行機の中とか外の場所で落としたかもしれなかったし。半分は諦めていた。

 気分も爽やかに、初めてこの大陸の空気を胸いっぱい吸い込んで、遥かなる異国の地を実感した。冬だけど、ブリスベンは空が青く太陽もサンサンと明るくふりそそいで冬らしくない。調べてみると、緯度は沖縄くらい、なるほど防寒着は必要なかった。サーファーの町ゴールドコーストに近いだけあって、その雰囲気ムンムンだ。

 のんびりもしていられない、メルボルン行きにちゃんとのれるまでは。再びタクシーでドメスティック・ポートへ向かう。搭乗口の近くの椅子に座って、掲示板の表示を絶えず見て、フライトナンバーと時刻を確かめる。時間が近づくのに人はまばら、心配でカウンターの女性に再度チケットをみせながら聞く。そのうち人が増えてロビーいっぱいになった。飛行機がゲートに着いて乗客がたくさん降りてきた。ああ、やっと乗れるんだ。1時間くらい遅れている。飛行機が遅れるのは当たり前なんだろうか。

 さあ、あとは出迎えの娘に会うのみ。メルボルンまでは2時間、眼下に大陸的景色が広がっている。いいお天気だ。隣の席の女性が数独をしている。世界的に人気のパズルなんだなあ。ここまで来ると、さすが日本人らしき人はいない。メルボルンに近づくにつれ、天気はどんよりと曇ってきた。寒いし、毎日雨が降る、天気がしょっちゅう変わる、と娘が言っていた。緯度は関東の北部くらいだ。時差は1時間時計を戻すだけでいい。

 やっとのことで目的地に着いたが、お迎えの姿が見えない。予定の時間じゃないけど、来てくれてるよなあ。

 娘は遅れた時点で電話はしていたが、見てくれてなかったので2時間空港で待ったそうだ。デックランというタイ人の男の子と来てくれていた。彼が車を持っているからだ。陽気で仕種が女の子っぽい。話によるとゲイらしい。

 ゲイと聞くと、先入観があって受け入れできない気持ちがあったが、後日、彼の主催するディナーによばれてゲイの人たちに会う機会があり、頑固な偏見で凝り固まってはいけないと感じた。ただ好みが一般的でないだけで、人としてはなんら特別なことはない。彼らは陽気でやさしく、まわりへの気遣いもすばらしい。彼らのパーティで、私は全く気が張ることなく、楽しいひとときを過ごさせていただいた。娘はデックランをとても信頼している。たぶん困ったときたくさん助けてくれたのだろう。だから私は彼にとても感謝している。メルボルンを発った後も「ママは無事帰れたか」と皆が心配してくれたらしい。

 デックランは夕方から仕事があるので、最寄の駅まで送ってもらい、私達は電車で先ず荷物を置きに。娘がシェアする家は閑静な住宅街だ。もう夕食の時間になっていた。町に出て食事と夜景の見学をした。娘がときどき行くという餃子の店は、みるからに安くて美味しそうで、はやっている。アジア人、白人、比較的若いお客でごったがえしている。水餃子と野菜の炒め物、など注文して、次から次へとやってくる客のためにさっさと済ませて出た。水餃子のことをダンプリングといっていた。なるほど、小麦粉をねった皮で野菜などの具をつつみ茹でる、ダンプリングなんだ。

 ヤラ川沿いの夜景をたのしみながら1日目は終わった。

100_0012  フリンダース・ストリート駅

100_0017_1 ヤラ川沿いの夜景

カジノなど夜遊びのスポット

遠くに見える大きなふたつの明かりは花火、なんだか大砲みたいな。