山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

‘15年 佐渡一国を味わう旅 レポート <第4回>

2015-06-04 07:16:03 | くるま旅くらしの話

【今日(6/04)の予定】 

  道の駅:花夢里にいつ →()→ 新潟港佐渡汽船乗り場 →(佐渡汽船)→ 両津港 → その先未定

【昨日(6/03)のレポート】     

<行程>

 道の駅:喜多の郷 →(R121他)→ 鶴ヶ城会館(駐車場)・城郭内散策 →(市内道)→ 飯盛山参拝会 →(R121他)→ 十文字家(ソースかつ丼) →(R121・R49)→ 道の駅:あいづ →(R49)→ 道の駅:西会津 →(R49)→ 道の駅:三川 →(R49他) 道の駅:花夢里にいつ(泊)

<レポート>

喜多の郷の一夜も何事もなく明けて、昨夜は風呂に入るのも出来なかったほどの相棒の疲れも回復したらしく、ヤレヤレという安堵の朝を迎えた。天気は朝のうちは雲が多いけど、次第に晴れるというのがこのところのパターンとなっているのだけど、今日は一段と雲が暑く、予報では午後辺りから雨になるとのこと。暑さが収まるのはいいのだけど、外を歩く必要のある予定では雨はなるべく降らないで欲しいと願う。

朝食はパンなのだが、家から持ってきた野菜類が保存の限界近くになっているので、それらを適当に全部具にした味噌汁を作る。大根、ミヨウガ、舞茸,玉ねぎなど普段では一緒に入れないはずのものを入れて作ったのだが、これが結構美味くて、完食する。相棒はこのような場合、決して箸を出すことをしない。だから直ぐに疲れるのだと思うが、決してそれを改めようとはしない。自分的にはバイキンとでも共生しようという考えがあるが、彼女には絶対に受け入れられない発想のようである。賞味期限を厳守するという立場に固執しているのだ。もともと賞味期限などあるわけでもなく、食べる奴が決めればいいだけの話で、結果はそいつが責任をとればいいだけの話なのだと思うが、今の世の中は無駄が好きで、自分では責任をとらない世の中のようだ。味噌汁を4杯も飲んで、少し悪酔い(?)をしたようである。

さて、今日の予定は、先ずは会津若松の鶴ヶ城の探訪。その後は白虎隊で有名な飯盛山の弔問をすることにしている。その後は昼食に会津の名物の一つのソースかつ丼を食べて、それから新潟方面へ向かうことにしている。何処まで行くかは、この時点ではまだ未定。明日はいよいよ佐渡入りをする予定なので、無理をせずにフェリー乗り場まで行ける場所が良いなと思っている。

出発の準備が整って、9時少し前に道の駅を後にする。昨日下見をしているので、駐車場の心配はない。30分ほどで駐車場のある鶴ヶ城会館に着く。既に何台かの観光バスが先着していた。早速北出丸の入口から城の方へ。少し小雨が降り出して来た。折りたたみ傘を携帯しているので、大雨にならない限りは大丈夫だと思う。鶴ヶ城はこの近くを何度も通っており、何回かは中に入って見ようと駐車場を探したのだが、その都度跳ね返されて来訪を止めさせられていたので、今日が初めての探訪なのである。今日の探訪の目的は、城の天守閣に上がって会津の町を俯瞰すること。幕末の戊辰戦争では敗れたけど、会津は侍の社会では最も侍らしい生き方を証明した武士の集団であると確信している。すなわち、今でいうライン組織(上下の指揮系統が明確な組織))の精神を厳守し、トップに忠実に従い、組織全体の力を発揮するという封建社会の見本のような集団行動を果たした人たちなのだと思っている。それは現在の価値観では決して計れない。表面的に見れば古臭い保守精神などということになるのだろうが、それは中を見ていない見当外れのコメントである。命をかけるほどのものは、その核に何かが潜んでいるはずだ。戊辰戦争の会津藩の生きざまの始終を描いた早乙女貢氏の「会津士魂」を読んで以来、そのことが心のどこかで気になっており、今回はそれを少しでもはっきりさせるための材料のようなものを探してみたいという思いもあっての来訪なのだ。為政者の住まいがどんなものだったのか、そこから何が見えたのかなどなど、実際の現場を見てみたいと思ったのである。それには城郭内を丹念に歩き回り、足元とを見据えながら周辺をよく観察することが大切で、そして最後は城のてっぺんに登り全体を俯瞰する必要がある。そう思いながらの入城(?)だった。

   

会津若松鶴ケ城の雄姿。昭和40年に再建され、今年がそれから50年を迎えているという。凛とした佇まいは見事である。

ところが、入って歩いている内に気づいたのだが、何と財布を持参するのを忘れていたのである。城の中に入るには料金を払わなければならないのだが、それが出来なければてっぺんからの俯瞰は出来なくなる。相棒とは既に入口で別れており、何処にいるのか判らないし、電話をするのも惨めなので、止めることにした。車にとりに行こうかとも思ったが、それも止めることにして、その分しっかり周囲を歩くことでカバーすることに決めた。このようなチョンボは自分の得意とするところである。

さあ、それからあとは丹念に城の石垣の周辺や上を歩き回った。いくつかの櫓を丹念に見て回り、城の本体以外の場所は一通り確認し、そこから見渡せる地形や景観を頭に入れることにした。今日は生憎の天気で、眺望は利かない。足りない分は自分で勝手に描くことにした。1時間ほど歩き回って入口に戻る。既に1万歩を軽く超えていた。天守閣に上がれなくて却って利が大きかったような気分である。城というのは火の見櫓の見張り台のようなもので、人が住む場所ではなく、天主閣だけが価値がある場所だと思っている。それ以外の場所はいわば倉庫のような役割しか持っていないのが普通なのだ。城の中に入っての感想いといえばそのようなものである。天守閣に上れなかったのは残念だけど、この後の飯盛山からも城下町の俯瞰はできるのではないかなどと、強がりに思ったりした。

次は飯盛山。言わずと知れた白虎隊自決の場所である。ここも初めて訪れる場所である。このような悲しい場所を物見遊山気分で訪ねるのは人道に反していると思っている。勿論弔問に来たというつもりである。長い急な階段を上って小さな広場の向こうに並ぶ戦士たちの墓標やその他いくつかの戦いの犠牲者の標の前で般若心経を唱えて冥福を祈った。少し離れた場所に鶴ヶ城が見える場所があり、そこまで行って自決前に彼らが見たであろう煙の立ち昇る城の姿を思い描いた。思い詰めてこの先の行動を論じ合った少年たちの姿とその結論が自決という往時の生きざまの凄まじさを思った。今頃ふざけ半分に仲間を殺したりしている悪ガキどもにこの覚悟の様を見せてやりたいものだと思った。そのあとは、さざえ堂などを観ながらゆっくりと坂を下り車に戻る。

   

白虎隊士の墓。19名の少年隊士の墓標が並んでいる。今の世からは、愚かな戦いだったともいえるかもしれないけど、往時を偲べば、落涙の心情以外はない。

これで今回の会津若松の探訪は終わりである。重い気分の探訪だった。鶴ヶ城はかなり規模の大きな城郭だったが、結局、戦には敗れ去ったわけである。何故なのか。いろいろな見方があると思うけど、自分的にはやはり時代の流れに敗れたのではないかと思う。それは日本国の時代の流れだけではなく、世界全体の時代の流れにも通じていたのだと思う。侍、武士という一つの精神のもたらした生き方が敗れたのかもしれない。その犠牲となった人たちのご冥福を改めて祈りたい。

その後は重い気分を晴らすべく会津の名物となっているソースかつ丼というのを食べることにして河東の方にある十文字家という店に向かう。本当は会津若松市内の老舗の店に行きたいのだが、駐車場の問題があるので、郊外のここを選んだわけ。ネットには、豪快なカツ丼の絵が載っていた。12時少し前に着いたのだが、早や駐車場は満車近くなっており、危うくセーフだった。中に入り早速オーダーする。周囲を見渡すと巨大なカツが丼に反り返っているのをパクついている姿があり、いやあ、凄いなと思った。間もなく運ばれてきたのは丼に巨大なカツが3個載っている奴で、そのままでは食べられないので、1枚は取り置くお皿までちゃんと用意されていた。とても完食は無理だなと思った。結果は予想通りで、残った分はパックに入れて持ち帰りとなった。いやあ、久しぶりに腹一杯食ったという満足感に満たされた。

   

会津若松市郊外の河東町にある十文字屋のヒレカツ丼。磐梯丼というのは、これ以上のボリュームがある。

その後は新潟方面へ向かうのだが、R49を行って道の駅:三川という所に名水を汲む場所があるというので、そで水を汲み、今日の泊りは新津の道の駅:花夢里にいつという所にすることに決める。新津市は今は新潟市と合併して秋葉区に属しているのを知った。途中道の駅:あいづ、西会津などにも寄りながら運転に集中する。眠くなったので西会津の道の駅で1時間ほど仮眠をとる。眠くなったら寝るというのがくるま旅の常道である。居眠り運転などは厳禁である。阿賀野川に沿って走る道の途中から雨が本降りになり出し、16時45分に道の駅:花夢里にいつに着いた頃は風も強まっての荒天となった。

しばらく待っている内に風は収まり日が差してきたりして、やがて静かな夜を迎えることとなった。何しろ昼の満腹は半端ではなく、夕食はの頃のカツを平らげるのが精いっぱいで、あとはウドやアスパラなどの山菜を肴に一杯やってたちまち寝床の人となる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする