山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

‘15年 佐渡一国を味わう旅 レポート <第19回>

2015-06-19 04:54:46 | くるま旅くらしの話

【今日(6/19)の予定】 

  道の駅:芸能とトキの里 → 羽吉の大桑(両津エリア)→ 七浦海岸方面 → 道の駅:芸能とトキの里

 

【昨日(6/18)のレポート】     

<行程>

 道の駅:芸能とトキの里 →  相川技能伝承展示館 → 佐渡金山跡 → 道の駅:芸能とトキの里(泊)

<レポート>

いい天気が続いている。朝起きて外に出ると、一晩冷やされた空気が胸に気持いい。6時半過ぎ、既に太陽は、道路の対面にある本間家能舞台の向こうの山の上に顔を出していた。今頃の日の出は4時台に入っているようだ。今日もまた暑くなるのであろう。昨夜は道の駅に泊った車は数台で、北海道などからの車が複数あったようだ。くるま旅のシーズンが本格化し出したのだなと思った。

今日の予定は今のところ決まっているのは、相棒が昨日の相川技能伝承展示館に出向いて9時から裂き織りの実習体験に取り組むということだけである。裂き織りは相棒自身も小さな簡易織り機を持っており、病を患って手術を受ける前まではそれなりに作品作りをしていたのだが、病が癒えた後も身体が思うように利かないらしく、ずっと止めていたのである。今回の織り機はより大型のもので、予てからこのような織り機で一度織ってみたいと考えていたようなので、いいチャンスなのだろうと思った。又術後の身体のハンディを乗り越えるためにも、このようなチャレンジは大切なのではないかとも思っているので、是非モノにして欲しいものだと思う。

朝食後まだ時間があるので、しばらくいつもの朝ドラを見たりして過ごす。8時少し前に出発する。泊っていた車はすべて出発済みで、今日も自分たちが最後の出発となった。今日は寄り道などをせずにひたすら相川を目指す。8時頃の時間帯は通勤などの車が多いようで、途中の道はかなり混んでいた。佐渡の道路事情はそれほど悪くはないのだが、路上駐車がかなり目立つのが気になっている。商店街でも田んぼの中を通る公道でも至る所に車が止めてあり、どういうわけなのかと疑問を抱かずにはいられない。商店街などは駐車場が殆どないため、路上駐車があるのは予想できるのだが、その他の道でも多いのは、車の危険性に関する感性が運転者として欠けているからなのであろう。交通行政上も怠慢ではないかと、関東の混雑圏に住む者としてはどうしても批判的にならざるを得ない。路上駐車が交通事故発生の要因の一つとして重い位置を占めていることを、取り締まり当局はより厳しく知らしめるべきではないかと思った。

8時半少し前に相川技能伝承展示館前の駐車場に到着する。既に観光バスが一台先着していた。裂き織りの体験実習は、相棒の話によると、中学生や小学生の団体での申し込みが多く、いつも数日先まで予約が埋まっており、相棒の場合は偶々運よく今日のこの時間帯に、一人分が空いていたということらしい。間もなく予約時間が近づいて、相棒はいそいそと館の中に入って行った。およそ2時間ぐらいかかるということらしいので、この間に近くの佐渡金山跡に行ってもいいかなと思っていたのだが、その前に未整理の記録などをチエックしておこうと取り組む。あれこれやっていたら、あっという間に1時間半が過ぎて、金山を訪ねる時刻は過ぎてしまった。相棒が戻ってからにしようと決める。

  

技能伝承展示館。展示館とあるけど、展示品類は少なく、裂き織りと無名異焼の体験実習場となっているようだ。新潟県内の子供たちの来訪が多いようだ。今日も子供たちが無名異焼きに取り組んでいた。

11時を過ぎても相棒が戻って来そうにないので、近くにある鉱山に係る工場群の跡地らしいコンクリートの廃墟の方に行ってみた。案内板によると、この地は北沢地区工作工場群と呼ばれる所だったらしい。金鉱から掘り出された鉱石の洗鉱・製錬施設の他にも器械製作や鍛造・木工工場など幾つかの工場があった所らしく、明治に入ってから昭和27年まで稼働していたとの説明があった。真ん中に細い谷川が流れていて、この川も往時は重要な役割を果たしていたのであろう。鉱山事業では重量のある鉱石を扱うので、採鉱から製品の出荷までのプロセスは山の上から海に向かって各種の施設が構築されており、①大立・高任地区は採鉱場所 → ②高任・間ノ山地区は鉱石の選別 → ③間ノ山・北沢地区は選鉱と製錬 → ④大間港は製品の積み出し という風にレイアウトが為されていたとのこと。北沢地区は一大工場群だったということである。しかし廃虚と化した今では、風化し始めたコンクリートにツタの葉などが絡みついて、何だか一時代の夢の後のような虚しく寂しい景色だった。佐渡の金山といえば、採鉱場所しか人々の目に入らないようだけど、このような施設もしっかり目にしておかないと、本当の金山の歴史は理解できないのだろうなと思った。

  

技能伝承展示館脇に広がる、北沢地区工作工場群の跡地の景観。小さな谷間を削って造られた各種工場の中で、コンクリート製のこの洗鉱施設は廃墟と化して、不気味な感じがする。

11時半頃に相棒が戻ってきたのだが、直ぐにカメラを持って戻って行った。何やら機織りなどの現場を写真に収めておきたかったらしい。12時近くに戻って来て、昼食とする。暑いのでそうめんにした。奈良の桜井市の三輪そうめんである。ここの山本というそうめんが日本一だと思っている。相棒はにゅう麺、自分は正統派の食べ方。夫婦別々は我が家の常識だが、他所では異常に違いない。そんなことを思いながらの昼食だった。相棒は久しぶりの裂き織りでやや興奮しているようだったが、裂き織りに対する製作情熱のボルテージが少し上がったようで、なによりのことだなと思った。人間、身体を動かしての創造力発揮が重要なのだ。それを失うと認知消滅の世界に誘われてしまう。これを機に意欲を燃やして欲しいなと思った。

昼食の後しばらく休憩して、ちょっと金山跡の方を覗いてから佐和田海岸にでも行って昼寝でもしようかと出発する。急な坂道を上って少し行くと道遊の割戸が見えて来た。初期の露天掘りの跡で、山に斧を打ち込んで叩き割った感じの景観は、人間の金というものに対する執念の凄まじさのようなものを感ぜずにはいられない。金などに無縁の自分には理解できない景色である。しばらく先に行って、一番上の駐車場に車を停め、割戸の方へ歩いて行ってみた。遠くからの景色とは違って、かなりの荒れ模様の岩石荒廃の場所だった。往時の人たちの激労の跡地は、その疲れが崩れ果てて何とも虚しく凄惨な感じがした。

  

佐渡の金山跡を代表する道遊の割戸の景観。この裏側の方は岩石の崩壊がかなり進んでいるようだった。

その後、下の方の駐車場に車を移動し、歩いて幾つかの間歩(まぶ)の入口を覗いた。ここでは坑道のことを間歩とはあまり呼んでいないようである。石見銀山を訪ねた時は坑道などという呼び名は一つもなく、初めは間歩の意味が解らなかったのだが、解って見ると間歩の方が何だか時代の繁栄した実感ある呼び名の様に思える。この金山も昔は間歩が当たり前の呼び名だったに違いない。遠足らしき子どもたちの一団が、坑道の中に入って行ったが、坑道ではなく間歩なのだと覚えて欲しいものだと思った。自分は坑道の中に入る勇気はなく、間歩の前に立つだけである。そこに立つと外の暑さとは無関係の冷えた空気が噴き出ていた。冷気というよりも霊気のようなものを感じた。数百年の人間の執念が怨念化して間歩の奥に籠りこびりついて、背筋を冷すほどの冷気となって噴き出て来ているのかとも思った。もうこれで金鉱跡の探訪は十分だと思った。

  

無名異の間歩。名前から察するにこの坑の辺りから酸化鉄を多く含んだ岩石が産出されたのであろうか。不気味な感じのする間歩である。

鉱山跡の散策に結構時間がかかって、その後は佐和田海岸に行くのは止め、少々の買い物などを済ませた後、道の駅に戻って休むことにした。何となく旅疲れが出て来ているように感じている。こんな時は無理をせず、寝るのが一番。早めの夕食を済ませて、19時前には寝床の人となる。

コメント
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