山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

冬季オリンピックと国母問題

2010-02-14 01:33:18 | 宵宵妄話

今日(2/13)は本(=「山本馬骨のくるま旅くらし読本」)の追加印刷をしようと取り組みました。おかげさまで最初の20冊は無くなりかけており、追加準備をしなければならないと考え、腰を上げることにしたわけなのです。より多くの方に読んで頂きたいと思っている割には、どうも本づくりが得手ではなく、ようやく危機感を感じて取り組んだという次第です。今回の予定は15部です。

用紙やインクを準備して印刷に取り掛かった頃から、カナダはバンクーバーでの冬季オリンピックの開会式が始まりました。印刷というのは、プリンター任せの単純作業ですから、パソコンの操作と用紙の補填などをきっちり行いさえすれば、あとはヒマなので、結局はかなりの時間オリンピックの実況放映を見ることになりました。今までこれほど多くの時間をかけてオリンピックの放送を見たことはありませんでした。

今回はドームの中での開会式だそうで、映像などを使った華やかな演出が印象的でした。カナダという国は、アメリカと同じように原住民といわれる人たちを飲み込んだ混合人種(このような言い方が適切なのか分かりませんが)の国家なのだということを、開会式を見ながら強く感じました。彼ら原住民の人たちを全面的に前に押し出しての演出は、何を意味するのか日本人の自分には解り難いなと思いました。

各国選手団の入場も様々で、選手よりも役員の方が多い国が幾つかあり、国家というのは一体どういうものなのだろうかなどと、オリンピックとは関係のなさそうなことを思いながらのTV観戦でした。冬季五輪というのは、冬という季節を持たない国には無縁の大会なので、それらの国の人たちは一体どのような関心を持ってこの開催を見ているのか、ということなども興味の湧くことであり、どうも年寄りの観戦というのは理屈の多い、素直さにかけるものであるようです。

ところで今日言いたいのは、国母という人の起こした事件のことです。国母というのはスケールの大きい懐の深そうな名前ですが、この人の行為は名前には大きく反して国辱的であり、残念などを通り越して呆れ返るばかりです。これは朝青龍よりも酷いレベルですなあ。これで大学生だというのだから唖然とするばかりです。

事件というのは、たかが身だしなみを自分流にしただけという話です。そんなことどうでも良いじゃないかといえばそれだけの話です。私もそう思います。但し、オリンピックの選手で無ければね。ということですね。へんちょこりんな頭や鼻にピアスは、もはやグローバルスタンダードの様ですからツベコベは言いませんが、これから全員一丸となって国の代表として、期待をを一身に背負って出かけようというときの身だしなみとしては、明らかに失格です。

それはまだ我慢できるとしても、その後のお詫び記者会見での発言は、これが日本を代表する人物なのかと疑いたくなるほどお粗末でした。質問に対する応答の中身がお粗末過ぎるのです。お詫びも自分の本心など欠片(かけら)も無く、オリンピックへの出場も調子が良いからだなどといっているのですから、この人に回っている税金を返して貰いたいほどです。こちとらは年金暮らしにも拘らずしっかり税金を払わされているのです。その内の1円にも満たないかも知れませんが、このようなただのスノボー遊びの好きな兄ちゃんに、税金を回す必要は日本国民として無いなと思いました。

この人からスノボーを取り去ったら、一体何が残るのかなとも思いました。スノボーというスポーツのことは私には良くわかりませんが、相当に高度な運動能力の求められるものだと思います。それを極めるレベルに到達したからこそ、国の代表に選ばれたのだと思いますが、それを極めるまでにこの人は技術・技能の他に何も学ばなかったのでしょうか?そんなことはない筈だと思うのですが、あの応答はどう考えても世の中との係わりについてしっかり学んでいるとは思えません。大学生を疑います。競技に勝ったという器用なるが故の思いあがりを、個性的などといういい加減な自分勝手の理屈で正当化し、ちやほやする取り巻き連中の尻馬に乗っかって、置かれた状況も弁(わきま)えずに取った行動の結果が今回の出来事だったような気がします。

あのファッションはスノボー選手としてはそれらしいものなのだと専門家は話しているとか言う記事もありましたが、一体専門家というのはどんな人間なんだ、と思いました。スノボーのことしか分からないような奴は、ぬけぬけと専門家など名乗るべきではなく、又そのような奴を専門家などと持ち上げてはならないと思います。人間のことがわからぬ奴は専門家などではなく、ただの専門バカに過ぎません。この頃の世の中には、この種の人間が妙にはびこっている感じがします。

この件に関して、選手団長は大岡裁きをしたと褒めている人もいるようです。「スタートラインに立たないままに終るのは、逆に無責任と判断した」ということのようですが、どこかで聴いた政治家のセリフに似ているなと感じました。問題の本質は、結果を出すなどということとは無関係であり、結果を出すに係わる資格があるかどうかということなのです。ま、国の代表選手として選んでしまった以上は、その選んだ責任もありますので、多少はこのような言い方が分からないでもないのですが、釈然としません。

オリンピック選手にとって、身勝手が許される場というのは、競技の場だけでありましょう。競技に集中する時はまさに身勝手そのもので無ければなりませんし、それはファッションなどではなく、競技そのものに己の能力のありったけを主張することなのです。それ以外は団体の一員であり、規範に従うのは当然です。

国母という人は、どうやらまだこのようなことが良くわかっていないような感じがします。人間的というのは、これらの弁え、判断がきちんとできるということだと思いますが、自分以外の人に映る自分が見えない人は、どんなに個性的であっても、人間的とは言い難いと私は思っています。尤も、厳密に言えば、人間的などという言葉はただの飾り文句に過ぎないようにも思いますが。

団長は、実際はもっとちゃんとした叱責やアドバイスをされたと思いますが、若いのを甘えさせることはそれこそ税金の無駄遣いになりますから、しっかりこの後のフォローをして欲しいと思います。又スキー連盟ほかのこれらの選手の育成に係わる人たちは、ただ強い選手だけを育てるのではなく、これからの国家をその斯界において背負い、導いてゆけるような一流の人物をしっかり育てて欲しいと思います。

念のため申し上げておきますが、国母という人には何の恨みも係わり合いもあるわけではなく、彼がオリンピックの選手であればこその憤りなのです。彼が個人的に公金も何も使わずにそれこそ自分勝手に競技に遊ぶ世界なのであれば、全く文句など言う気はありません。どうぞお好きなようにしてください、というだけです。

もう一つ最後に思うのは、オリンピックのメダル獲得などに国を挙げて騒ぐ必要があるのか、疑問が大きくなってきています。相撲に横綱が必要かどうかと同じように、スポーツバカのような人材を育てる傾向があるこの頃の取り組みに、うんざり感が増幅するのを止められません。 

コメント
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