山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

安達巌鎮魂の旅(2)

2010-02-28 03:27:32 | くるま旅くらしの話

※途中からお読みになられた方で、安達巌のことについて知りたい方は、2月27日の記事をお読み頂ければ幸甚に思います

第1日 <9月21日()

自宅→(常磐道・首都高速・東名道)→海老名SA→厚木IC→(R246)→道の駅:ふじおやま(静岡県小山町)→(沼津からR1へ) →(静岡・藤枝・掛川・袋井・磐田・浜松・豊橋経由)→道の駅:田原めっくんはうす(愛知県田原市)(泊)348km

今回の旅は、旅くらしではない。只ひたすらに安達巌という人物の一生に思いを馳せ、彼との短いお付き合いの中に得た、重い無限の感動の深さを再確認したいと思っている。

時は恰(あたか)も彼岸である。彼岸というのは、仏教の世界で、此岸(しがん)に対することばなのだが、悟りなどとは無縁の普通の人間のイメージでは、この世(=此岸)とあの世(=彼岸)とがつながるひと時の行事をイメージするようである。この世とあの世とは、間違いなくつながっているように思うが、それを立証すべき科学的な根拠は存在しないようだ。世の中には、何でも証明しようとする人たちが多いが、自分自身は証明とは無縁の世界があっても構わないと思っている。その代表的なのが、この世とあの世のつながりである。

なるべく早く出発したいと思っているのだが、とても早朝の6時や7時出発は不可能で、相棒(=邦子どの)の血液が体中を循環して平常の行動を起こせるまでには、目覚めてから最低2時間は必要なので、最初から諦めている。世の中は、邦子どののような人ばかりなのであろうか?時々疑うことがある。自分の場合は、いきなり早朝に起きて、飯を食っても走っても、何らかの行動を起こすのに何の支障も無い生き方をず~っと続けてきた。(この方が疑問をもたれるべきなのかもしれないが)これは両親から頂戴した真にありがたい身体を自分なりに鍛えてきたおかげなのだと思っている。

今日の予定は、都心を抜けて、可能な限り大阪に近いところまで行くことだけなので、遅い出発でも構わないのだが、それでも都心通過の渋滞に巻きこまれることだけは避けたいと思っている。しかし、相棒の生態は渋滞を必然的に受け入れるものとなっている。今日も、その予想通りの出発となった。

住んでいる守谷市から大阪へ向うには大別して3つのルートがある。一つは東海道を行くコース、二つ目は中山道を行くコース、そしてもう一つは北陸道から入るコースである。いろいろ考えた結果、今回はまともに東海道を行くことにした。しかし、東海道を行くには、どうしても高速道を使わなければならない。安全面、費用面からも高速道は避けたいのだが、そういうわけにも行かず、厚木までは高速道で行くことにした。そこから先は一般道の予定である。常磐道から首都高の入口までは順調な流れだったが、首都高に入った途端、大渋滞で、30m進むのに30分もかかるような状態だった。9時に家を出て、東名の海老名SAに着いたのは丁度12時だった。渋滞が無ければ、この半分の時間で到着できるのにと、急ぐわけでもないのに愚痴が出る。厚木ICからはR246に入ったが、これまた予想外の渋滞で、今日は一体何処まで行けるのか心配になった。

それでも沼津からR1に入った後は、車の流れは順調で、浜松を通過し、だんだん暗くなってきたので、今日の宿を豊橋近くの道の駅:田原めっくんはうすにすることにした。道の駅到着19時20分。軽く夕食を済ませ、2階のベッド(=バンクベッド)に。ところが暑苦しくてなかなか寝つけない。安達さんのことにいろいろ想いを巡らす。

彼の怪我までの少年時代を想った。昭和14年というのは、どういう時代だったのだろう。日中戦争が始まって2年を過ぎ、第2次世界大戦が始まる2年前である。世の中は軍国主義が拡大の一途を辿っていた時代であろう。彼の実家は大阪大正区で鉄工所を経営していたというから、それなりに裕福で恵まれた環境の中に誕生したに違いない。人間の幸せというのは、基本的にその存在を祝福してくれる者が多いほど満たされる様に思うが、彼の場合も若夫婦に長男が誕生したということで、家族初め従業員一同が祝福の声を上げたことであろう。大阪大正区は、運河に沿って小さな造船所や鉄工所が多く数えられる場所だが、往時は今以上にものづくりの基地の一つとして活気があったに違いない。鉄工所では橋に係わる仕事が多かったとか。橋梁の製作に係わっていたのであろうか。詳しいことはよく分らないが、祖父の力は相当なもので、そのボンボンとして少し我がままに育った父親と松竹歌劇団に入っていたという母との新婚生活は、産声を上げた長男を真ん中に順調な滑り出しであったに違いない。

しかし、往時の世の中は戦争の暗雲が立ち込め、日中戦争は次第に泥沼化し、やがては国際社会の中で日本の立場は、抜き差しならぬものとなり、世界大戦へと向っていった。そして遂に2年後の昭和16年12月8日、日本はアメリカに宣戦布告し第2次世界大戦へと突き進んでいったのである。2歳の彼には、それがその後どのような意味を持つことになるのかなど、判るはずもなかった。そして4年半を超える長い戦いの後、日本は降伏し戦争は終わったのだが、この間安達家は跡形も無く破壊し尽くされてしまった。軍需に無縁の工場であっても、敵国から見れば、そのような識別など無用なのだ。戦争というのは元々殺傷と破壊の怨念が籠められた人間の醜悪を極めた行為であり、異常者の行為である。その直接の被害を被った人は、この戦争では無数といっていいほど多かった。広島や長崎の原爆被災地、そして東京大空襲でも一瞬にして家も屋敷もそして全ての家族の生命までも失った人は多い。せめて生き残られたということだけでも、声の無い慰めとして受け止めざるを得なかった人が大勢居たのである。

巌の家族は家や財産の全てを失ったが、両親は無事だった。命からがらという日が何日も続いたに違いない。幼い子を抱えてねぐらも定かでない日々が続く中で、巌の後に誕生した妹はジフテリアという伝染病に罹り幼い命を失ったという。医者も医薬品も不足の貧しく厳しい医療環境の中では、今では耳にすることも無い病気も、抜き差しならぬ大病であって、いのちを保持することが難しかったのである。戦争は、直接の被害の他にも、国と人々の生活の全てに悲惨な爪痕を残し続けたのであった。ジフテリアで亡くなった彼の妹も明らかに戦争の犠牲者である。

昭和21年、巌は国民学校の1年生となる。現在の小学校は、翌昭和22年からの新しい学制であるから、巌たちが最後の国民学校生だったということになる。そのような制度の如何に関わらず、子供にとって初めての学校入学は興奮のできごとであったろう。どんなに貧しくとも、多くの新しい友達とのふれあいの場は、世の中を渡ってゆく第一歩として、全ての子供たちにとって期待と不安の綯()い交ざった大きな大きなできごとに違いない。そして巌にとってもまたそれは嬉しくも楽しい時間であったに違いない。

しかし、戦後の混乱は安達一家にとっては、親戚や知り合いを転々と移り住まざるを得ないような厳しい生活環境だった。学校への通学もままならず、子供にとっては、辛い時期であったに違いない。そんな中でも運動神経抜群の巌は、決してめげることなく幼少年時代の日々を送ったのだと思う。父親のやんちゃはその時でも幾つかのエピソードの記憶となって後の巌の頭の中に残っていると聞いたが、彼の生き様に最大の影響を与えたのは、父ではなく、この時期の母であったに違いない。ともすれば破滅的な行動をとりがちな父に対して、子供の目からは母親の言動はまさに慈母としての影響力を持ったに違いない。この影響は生涯を貫く巌の信念につながっているに違いない。

そして運命の日(昭和23年5月4日)が来るまでは、厳しい環境ではあっても(当時はそのような厳しい生活を強いられた人たちの方がむしろ普通だったといえるほど、貧貪の世の中だったのである)両親の庇護の下に、巌少年はそれなりに充実した毎日を送っていたに違いない。……………

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする