山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

再び相撲道の維持について

2010-02-06 04:59:27 | 宵宵妄話

横綱朝青龍が引退したというのは、良い決断でした。少なくとも降格とか出場停止期間の延長などという意気地なしの決定よりはずっとマシだったと思います。TVのワイドショーなどを見ていると、横綱が問題を起こした時には、さんざんその行動を批難していたクセに、今度はその処置が不明瞭で解せないなどとコメントをしている輩ばかりで、何とも情けない日和見主義のいい加減な連中だなと腹立たしい気分になります。もっともらしい顔をして偽善的なコメントをしている連中には呆れ返るばかりです。

私は今回の出来事で、横綱を除いて、これから長く重い責任を最も取るべき者は、①師匠である親方②協会の責任者である理事長③横綱審議委員会の責任者である委員長の3者だと思っています。今回の処置の中で、親方が2階級降格となったということですが、これは至極当たり前のことで、本当ならば親方を辞めさせるのが至当なのではないかと思います。協会や横審にはまだまだ甘さがあり、問題の本質から目を逸らしているのか、相撲道に対する本気の取り組みの欠如が見えるような気がします。単なる見世物、興行ごとならば、国技の看板を外すべきです。何故相撲が国技なのかということを理解し、それを重視するのならば、何故このような不肖の横綱が生まれたのかを鋭く分析・追及すべきであり、そうなれば親方の責任をこの程度の処置で済ますのは甘いと言わざるをえません。

尤も今回は協会も横審も処分を言い渡す立場であり、過去の横綱の不行跡に対して少なからず責任の一端を担っていることを思えば、親方を責めるには後ろめたさがあるのかも知れません。新聞によれば、親方は朝青龍が引退してくれたことを喜んでいる様子があり、ガハハと笑いながらその日には近所で焼肉パーティとか。いやはや呆れたものです。

私が親方の重要性を思うのは、人材というのは、良い師匠、先達(せんだち)がいて初めて磨かれ育ち、大成するものだと思うからです。先日あるTVで、朝青龍の不祥事が話題となった時、ある国際○○学者を名乗るコメンテーターが、親方制度などいうものがおかしいなどというようなことを言っていましたが、とんでもない話で、大相撲を監督制度のようなものにしてしまったら、もはやそれは国技でも何でもなくなってしまいます。思わずバカなことを言うな!と怒鳴ろうと思ったら、その前に一緒に見ていた家内の方が先に冗談じゃない!と声を荒げていたのには機先を制されました。国際○○などと名乗る学者連中には碌な奴はいないというのが私のいつもの感想ですが、頭に「国際」を付けて名乗る学問などというのは、そもそもあり得ない感じがするからです。世界の動きは複雑であり、その領域について何もかも解ったようなことを抜かすのは、信用まかりなりません。私は国際ということばが嫌いです。(脱線ついでに余計なことをいいました)

優れた業績を残した人材には、全て師匠や親方と呼ぶに相応しい人物が存在していると私は思っています。全て自分で泥沼から這い上がって来たと公言する成功者にも、心の中に必ず何人かの師匠がいるはずです。例えばそれがお釈迦様だったり、孔子様だったり、現存しなくても師匠や親方はいるのです。組織は人を育てないというのが私の持論です。組織の中の特定或いは限られた人の影響を受けて人材は育つのです。或いは企業のような組織の場合は、人を育てるのは人ではなく仕事なのです。

大相撲のような競技では、(殆ど全てのアスリートの育成も同じだと思いますが)しっかりした師匠、親方が不可欠です。親方制度を安易に古いなどと決め付けるのは、人間関係の本当の姿を解っていない輩の戯言(ざれごと)に過ぎません。親方も弟子も本気になってその才能を引き出す努力をし、見出した力を懸命に伸ばすことによって本物の力士が育ち、その中から横綱が生まれるのです。それは単に勝負に勝つということだけではなく、人間としての成長と、成長した人間が持つべき立ち居振る舞いをも含めたものでなければなりません。それが出来ないような親方は失格です。子供をダメにするのは親なのです。同じように弟子をダメにするのは、親方なのです。最初は力が不足していた親方であっても、弟子の成長と共に親方自身も成長することが出来るはずであり、弟子が横綱になったのなら親方は弟子以上に自分を磨いて弟子と接するのが相撲道に生きる者の基本的なあり方のはずです。不肖の弟子の行為の尻拭いと謝罪ばかりに明け暮れて、破門も言い渡せない者に親方の資格があるのか、私は疑問を感じます。

斯界をリードする立場にある人たちは、異常事態が起った場合の適切な判断を誤ってはならず、今回の一連の横綱の不行跡に対する対応は、その意味で常に適切さを欠き、結果的にこのような事態を招来するに至ったのだと思うのです。適切な判断というのは、営業上の心配や世間の甘い正義感の話などに阿(おもね)るのではなく、あくまでも「相撲道」とは何かという理念に照らして決められなければならないものなのだと思います。今回の出来事を見ていて、最大の原因は、この見極め、確認が、親方も協会も横審も出来ていなかった、或いは不足していたことに尽きるような気がします。

私は朝青龍という人物は、ごく普通の好青年だと思っています。決して嫌いではありません。彼の勝負にかける執念は見上げたものがあり、それは血の滲む厳しい鍛錬・修練に支えられた、負けてたまるかという根性の現われです。この一途な姿勢に対して批判などする余地はありません。他の力士も爪の垢を煎じて飲むくらいの価値があると思います。しかし、ことが相撲道ということになると、話は全く別です。この道の中には勝ち負けだけではない大切なものがあるのです。それは人間としての大きさ、人間社会をうっとりさせるほどの大きさで人びとの心を包み込む力です。それはもちろんずば抜けた強さが前提となるものです。横綱にはそこが最も求められるものなのではないかと私は思います。

ところが朝青龍は折角の横綱という看板を勝ち取りながら、そこに気づかず、普通のサラリーマンなどと大して変わらぬ不行跡を当たり前と思うようになってしまったのです。彼がこうなったのは、彼自身の思いあがりというよりも、そのようなことを本気になって諌め、注意できなかった周囲に、より多くの責任があると思います。その第1番目は、何度もいうように親方です。不肖の子を育てた親というものは、わが子に諌めや注意が出来ないのは普通なのかもしれませんが、それは子育てのプロセスの中で何もしてこなかったからなのであり、ましてや朝青龍の親方は、一般家庭の親ではないのですから、入門してから相撲界を引退するまでの間は、厳しく相撲道についての教導を果たすべきだったのです。

かなり厳しいことを言いましたが、朝青龍と同じように元大関朝潮の高砂親方も、ごく善良な人なのだと思います。軽くて明るくて楽しい人なのだと思います。それはとても大切なのですが、横綱の師匠という立場では、横綱以上の善悪の判断を持つ厳しい指導者の一面がなければ、どんなにいい人であっても、その甘えが許されるものではないと私は思います。

日本人が日本人でなくなってゆくのは、今日のあらゆる現象の中で幾らでも確認できることですが、古くてどうしょうもなく、人道に反するようなものは捨て去っても一向に構わないと思いますが、髷が似合う日本人の原点を多く含んだ相撲道が、時代の流れに揉まれながらその一番大切なものを失ってゆくのは、何とか抑えて欲しいものです。関係者の猛省と確実なる相撲道の維持を願っています。

 

「山本馬骨のくるま旅くらし読本」発行のご案内

この度、前著「くるま旅くらし心得帖」の続編として、自作による「山本馬骨のくるま旅くらし読本」を刊行しました。副題を「60歳からのくるま旅くらしの楽しみ方」として、くるま旅くらしの意義、考え方、楽しみ方の理屈や事例などを紹介することにしました。又付録として、くるま旅くらしに関する何でもQ&Aを付加しました。これからくるま旅くらしを始めようとされる方には、これ一冊で旅の要領の凡そがお解かり頂けると思います。手作りですので、初版は20冊です。1冊1000円(送料・振込手数料込み)でお頒けいたします。

ご希望の方は、メール(pdl-taku.9930@themis.ocn.ne.jp)にて〒、住所、氏名、冊数をご記入の上お申し込み下さい。お支払いは、同封の振込用紙にて最寄の郵便局にてお振込下さい。メールのPdllはLの小文字です。

 

※より詳しく内容をお知りになりたい方は、私のホームページ「山本馬骨のくるま旅くらし元帳」にアクセスしてご覧下さい。アクセスはこのブログの右側にあるブックマーク欄から出来ます。

 

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