山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

勉強のこと

2010-02-18 00:08:08 | 宵宵妄話

変なタイトルですが、この年になって自分でも意外なほど勉強している感じがします。自分の人生で一番勉強をした時期は何時なの?と訊かれたら、それは会社を辞めて自立をしようと考えた時だよ、というのが私の答えなのですが、年齢的には57歳から63歳くらいのときだと思います。恥ずかしながら小学校から大学を卒業するまでの間、勉強をしたなあという実感を自ら覚えたことは、一度もありませんでした。特に高校などは受験校だったにも拘らず本気になって勉強をしたことは一度も無く、大学も中途半端なままに卒業してしまったという感じでした。

会社に入ってからは、仕事に必要な最低限のことは学ぶ努力をしたとは思いますが、それ以上のことは大して必要も無く、仕事の上では学ぶことよりも学んだことをどう活かすかが本命ですから、そちらにばかり力を注いでいたという感じです。ところが、会社を辞してからは何もかも一人でやらねばならず、自ら学ばない限りは、仕事が成り立たなくなったのです。これはもう何とか学ばなければなりません。コンサルティングに必要な知識や情報の習得は勿論のこと、コピー機の使い方からパソコンの操作まで、独習的な学びを余儀なくされました。この時の学びは、今の自分の一番の力となっていると思っています。

その仕事をリタイアして、今は毎日が日曜日のくらしなのですが、意外と勉強しているのです。そのきっかけを作ってくれたのがくるま旅であり、ブログの開設だったのです。くるま旅をしていますと、初めての出会いをたくさん経験します。凡そ見当をつけていたことは調べる必要も少ないのですが、見たことも聞いたこともない無いようなものに出会ったときには、びっくりし、感動すると同時に、もっとよく知りたいという思いがこみ上げてきます。となれば調べる必要が生じてきます。ですから、旅に出かける時には辞書や地図や旅に係わる参考資料の持参が不可欠になってきます。その場で分からない時には、旅から戻ってから調べるということになります。そして、その多くをブログの記事として発表するためには、その内容をより確実なものとする必要があり、曖昧な部分を更に調べるということになります。これが私の現在の勉強の内容なのです。

くるま旅とブログの原稿作成が連動しているところに、学ぶニーズの拡大があり、楽しみの増幅があります。いろいろな調べごとには、「ねばならない」という強制要素を含んだものと「知りたい、そうしたい」という自動的・自主的なものとの2種があると思いますが、後者の自ら調べたいという取り組みには、ある種の楽しみがたっぷり含まれています。未知のことを知るという楽しみは、人間の持つ高度な欲求の一つのような気がします。

私の現在の勉強は、今までの勉強などとは全く違って、実に楽しいのです。旅の思い出を反芻しながら、もっと知りたいことは無限に広がってゆきます。ブログの原稿を書きながら、調べなければならないことが幾つも湧いて出てくるのです。今の世は、ネットという重宝な調査手段があり、大抵のことを調べることが出来ます。実にありがたい世の中になっています。この年になって、このような世の中が出現したことに感謝しなければならないなあと思っています。(弊害も多いので、時々批判や愚痴を吐くことになるのですが)

ブログを書くためには2冊のノートを用意しています。1冊は思いついたテーマを書きます。何でもいい、その時に心を動かしたことがらをメモするだけです。そのテーマで書けるのかどうかは分からないのですが、テーマを見つけたことが実に嬉しいのです。自分の生きている証の一つを拾ったという感じです。心を動かすものに出会ったということは、生きているからこそ出来ることなのです。

もう1冊は、拾ったテーマを書くための材料を集めてメモするためのノートです。この材料集めは、自分の頭の中にあるものは高が知れており、足りないものは探して集めなければなりません。本を開いたり、資料を引っ張り出したり、地図を眺めたり、写真を再チェックしたりと、なかなか面倒なのですが、これが実に楽しいのです。もしそのテーマが旅に関するものであれば、旅の前楽・後楽を味わうことになりますし、社会問題であれば、その問題の周辺事項まで知るチャンスに恵まれます。これらの多くはネットの情報が大きな力になります。引き出した関係情報をコピーすると、ノートはたちまち層倍の厚さになってしまいます。ちょっと扱いにくくはなりますが、これが今の自分の学びの証明の一つだと考えると、それだけで満足できるのです。

くるま旅をし、ブログを書くようになってから、私はかなりの物知りになったような気がします。それはもしかしたら錯覚なのかもしれませんが、今の私にとっては、60の手習いなどとは比較にならない、真に充実した学びの成果なのだと思っています。この新しい習慣は恐らく死ぬときが来るまで続くのではないかと思っています。そうありたいと願っています。

幕末の大儒、佐藤一斎の言葉に、「小にして学べば、則ち壮にして為すこと有り。壮にして学べば、則ち老いて衰えず。老いて学べば、則ち死して朽ちず。」(言志晩録60 学は一生の大事)がありますが、まさに至言だと思います。そして私はもはや最後の学びに入ったのだと思いを新たにしています。朽ちなくても、朽ちてもいいのです。ようやく巡り会えた学ぶ楽しみをこれからもずっと続けてゆきたいと思っています。

 

拙著の発行のご案内

この度、前著の続編として、「山本馬骨のくるま旅くらし読本」(副題~60歳からのくるま旅くらしの楽しみ方という、くるま旅くらしのガイド書を刊行しました。くるま旅くらしの意義、考え方、楽しみ方の理屈や事例などを紹介することにし、又付録にくるま旅くらしに関する何でもQ&Aを付加しました。これから新しく、くるま旅くらしを始めようとされる方には、これ一冊で旅の要領の凡そがお解かり頂けると思います。

初版20冊はすでに無くなり、第2版が出来上がり、15冊を追加しました。手づくりです。少し高額で心苦しいのですが、1冊1000円(送料・振込手数料込み)でお頒けいたします。(送料と振込手数料だけで400円超となるため原価の回収が出来なくなってしまうものですから)

ご希望の方は、メール(pdl-taku.9930@themis.ocn.ne.jp)にて〒、住所、氏名、冊数をご記入の上お申し込み下さい。お支払いは、同封の振込用紙にて最寄りの郵便局にてお振込下さい。メールのPdllはLの小文字です。

※より詳しく内容をお知りになりたい方は、私のホームページ山本馬骨のくるま旅くらし元帳にアクセスしてご覧下さい。のブログの右側にあるブックマーク欄からもアクセス出来ます。

 

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本物の智恵

2010-02-17 04:27:57 | 宵宵妄話

16日の早朝2時頃、ネットのニュースを見ていたら、ショッキングな情報がありました。でも暗く悲しいという話ではなく、嬉しく素晴らしい称賛の世界の話でした。そのニュースの内容は、次のようなものでした。

「2月15日21時15分頃、中央線高円寺駅上り線ホームから女性が線路に転落。これを都内に住む男性会社員が助けようと線路に飛び降りた。そこに快速電車が迫り、女性が気を失っていたため、男性は2本のレールの間に女性を寝かせ、自分はホーム下の避難濠に駆け込んだ。電車は女性の頭上を通過したが、接触せず、転落で負った頭へのケガだけで済み軽症。男性は無事だった」というものでした。

いやあ、驚き、感動しました。心底良かったなあと思いました。転落した女性のことはさっぱり分かりませんが、この青年の行動は人間がとっさの状態で行う行為の最高レベルに値すると思います。どんなに賞讃しても賞讃しきれないほどです。

私は人間の真価というのは、いざというときに発揮されるものだと思っています。普段何事もなく、いつものことがいつものように動いている状況では、人間は当たり前のことを当たり前と思いながら、当たり前のように判断し、行動しています。危険なことは避け、嫌なものも避けて、自分の良かれと思うことを中心に、あまり心を乱されることも無く過しています。

しかし、突然に問題が発生し、状況が一変すると、今までの平常心は乱され、どうしたら良いのか、考えることも判断することも停止してしまうことが多いように思います。ましてや、我が身を捨てて他人(ひと)のために身を投げ出すなどという行為は滅多に出来るものではありません。

この青年はそれを見事に行なったのでした。真(まこと)に素晴らしいと思います。僅か1分間という、もし失敗すれば助けようとした人を助けるどころか、自分自身も死ぬかも知れないという極限の状況の中で、線路に落ちた女性を動かすことが出来ないと判断した時、線路の窪みに両手を揃えて置いて(その時の状況としては手が線路の上に出ていたということでした)、自分も間一髪で避難濠に飛び込んだという、その一瞬の判断と行動は、人間としての並々ならぬ智恵の持ち主だと思います。

普段大言壮語していても、ゴキブリ一匹に出くわして悲鳴を上げて逃げ去るような人や、或いは隣で何が起きても知らん振りを決め込む輩の多い今の世の中で、突然の予想もしなかった事態に遭遇して、これだけ冷静な判断と行動のできる人物がいるとは、真に嬉しい限りです。

電車のホームでの転落事故は結構多く起っており、私の現役時代でも同じ事故で知人が亡くなった事件を覚えています。何の防御柵も無い所に、かなりのスピードで絶え間なく電車が滑り込んでくるのですから、電車のホームというのは、改めて考えてみれば大変危険な場所ということができます。特に今回の中央線高円寺駅のように、通過する電車が多い駅のホームは、要注意です。転落した女性は、後のニュースの中では酒に酔っていたということですが、本人にも或いは飲ませた方にも安易感があったのかもしれません。折角の一杯やった楽しみが、このような事態を惹き起こす恐さを、厳しく反省する必要があると思います。同時に、JRサイドでは何らかの事故防止のための対策を検討すべきです。

これは素晴らしい美談ですが、同時にいろいろな思いを巡らせずにはいられませんでした。私の尊敬する中国の明の時代の哲学者・思想家に王陽明という人がいます。儒教の中で、いわゆる陽明学といわれる学問の祖ですが、この人の教えの言葉の中に「事上磨」というのがあります。事上の「事」というのは「事が起きた」という場合の「事」を指しています。つまり「事とは、問題や困難状況である」ということです。「磨」とうのは文字通り磨くということであり、磨くのは自分自身です。つまり事上磨というのは、問題状況、すなわち難事の状態においてこそ自分を磨けということです。別の言い方をすると人は逆境においてこそ本物の自分を磨くことが出来るという考え方です。何ごともほどほどに上手くいっている、順風満帆の順境の中では、人は自分を磨くことは出来ないのだという解釈も出来ます

いざという時に本物の知恵を発揮できる人こそが事上磨を実践してきた人なのだと思います。この青年は無意識にこの行為をとられたということですが、どこかでしっかりと人間としての大切なものを学んでいるに違いないと思ったのでした。

古希を迎えてもさっぱり事上磨の出来ていない私なのですが、今日は妙に嬉しくなって、自分ことは棚に上げて偉そうなことを言ってしまいました。

 

「山本馬骨のくるま旅くらし読本」発行のご案内

この度、前著「くるま旅くらし心得帖」の続編として、自作による「山本馬骨のくるま旅くらし読本」を刊行しました。副題を「60歳からのくるま旅くらしの楽しみ方」として、くるま旅くらしの意義、考え方、楽しみ方の理屈や事例などを紹介することにしました。又付録として、くるま旅くらしに関する何でもQ&Aを付加しました。これからくるま旅くらしを始めようとされる方には、これ一冊で旅の要領の凡そがお解かり頂けると思います。

第2版の作成を終了し、新たに15冊を用意しました。1冊1000円(送料・振込手数料込み)でお頒けいたします。

ご希望の方は、メールpdl-taku9930@themis.ocn.ne.jp)にて〒、住所、氏名、冊数をご記入の上お申し込み下さい。お支払いは、同封の振込用紙にて最寄の郵便局にてお振込下さい。pdlのlはLの小文字です。ご注意下さい。

より詳しく内容をお知りになりたい方は、私のホームページ「山本馬骨のくるま旅くらし元帳」にアクセスしてご覧下さい。このブログの右側にあるブックマーク欄からもアクセス出来ます。

 

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キャンピング&RVショー2010を見に行く(2)

2010-02-16 01:01:58 | くるま旅くらしの話

昨日の続きです。実はこの初日を選んだのは、心が逸(はや)ったからではなく、この日に開催を記念してのフォーラムがあるからなのです。予めのプログラムを拝見して、私の提唱しているくるま旅くらしというものが、これらの関係者の方々のおかれた立場ではどのように位置づけられ、認知されているのかを知りたかったのです。そして可能ならば、役所の方には直接問いかけて見たいという思いもあったからなのでした。

15時から17時までの2時間という予定で、先ず基調講演として、「RV&キャンピングカーと観光の可能性」というテーマで松本大学教授佐藤博康氏のお話があり、続いて省庁からの報告として観光庁国際交流推進課課長補佐の河田敦哉氏による「観光立国の実現に向けたインバウンドの振興について」というテーマでの資料に基づく話がありました。その後1時間ほど「これからの観光とキャンピングカーレジャーの可能性」というテーマでパネルディスカッションが行なわれました。メンバーは日刊自動車新聞社専務・主筆佃義夫、松本大学教授佐藤博康、日本ボーイスカウト連盟教育部門長小林孝之助、バックパッカーシェルパ斉藤、日本RV協会会長福島雅邦の各氏、そしてコーディネーターはアウトドアジャーナリスト・プロディューサー中村達氏でした。各氏とも斯界の中でトップ或いは中核的な存在としてご活躍の方々ばかりです。

先ず佐藤先生の話ですが、これは実に面白かった。松本大学における先生の専門は観光ホスピタリティ学科というものだそうですが、初めて聞く科目でした。ホスピタリティというのは、日本語で言えば「おもてなし」ということでしょうから、面白い学問だなと思いました。同時にこれからの時代ではとても大切なテーマだなとも思いました。面白かったのですが、お話の内容はキャンピングカーやRVというよりももっと大きなコンセプトの「観光」という面にメインスポットを当てたものなので、くるま旅はその枝葉の一部という位置づけですから、ちょっと期待していたものとは違う感じがしました。でも参考になることがたくさん秘められていたように思います。先生の話はしっかりした調査に裏付けられているようで、これは観光業界に係わる人たちにとっては、たくさんの宝物が披露されている感じがしました。

例えば、「世界的に進化する観光のかたち」という話では、①ライフスタイルを活かすための観光のかたち②観光資源だけでは満足しない旅行者③地域に受け入れられているかを気にする旅行者等々の内容は、これからの観光業をどのような視点で創ってゆくべきかのヒントがたくさんちりばめられており、新たな観光メニューを創造するのに大いに役立つはずだと思いました。また、「旅の効能と車社会」という話では、車の持つ旅の特徴が正確に捉えられており、更には「車旅行に可能性はあるか」という話では、様々な可能性の中から有力なものを的確に捉えられており、その中に私の提唱するくるま旅くらしも間違いなく含まれているなと合点しました。追って、これらのお話の講演録等がJRVAのホームページ等で発表されるのではないかと思いますが、関係者の方は一見・傾聴に値するのではないかと思います。本質を突いた話というのは、ビジネスの中でも幾らでも活用が可能だと思います。興味をお持ちの方は是非なるアクセスをお勧めします。(掲載までには、少し時間がかかると思いますが)

次の国交省観光庁の方の報告の話は、国としての観光立国を目指して、現在年間700万人前後の外国からの観光客を、2019年までに3000万人に増やすという計画だとか。その考え方についてのアウトラインの説明でしたが、これについては、正直のところコメントする能力は自分にはなく、へえ~、なるほどと思うだけでした。キャンピングカーやRVとのつながりがどうなるのかについては、触れられてはおらず、又触れるのが難しいレベルの大きな話なので、具体性に乏しく質問の余地もなさそうでした。今の5倍もの外国人が日本にやって来た時、日本の受け入れ態勢は本当に出来上がっているのか、オリンピックの施設造りよりも遙かに難しいのではないか、などと思いました。

パネルディスカッションは面白かったのですが、時間不足でパネリストとコーディネーターだけの対話を聞くだけのかたちで終わり、一般の人が参加できず、折角のチャンスがつぶれてしまった感じがして、勿体ないなと思いました。あと1時間くらいあっても良いのにと思いました。そのようなことで、あまり核心に触れた論議が少ないという心残りを感じたのですが、話を伺っていていろいろ感ずるものは多く、大変勉強になりました。

パネリストの方々のお話を伺っていると、実際にキャンピングカーやRV車を使って、長期の旅をしたという経験を持たれているのは、シェルパ斉藤氏お一人だけのようで、どうも他の方のお話は私が経験しているくるま旅を通しての問題意識とは少し温度差があるなと思いました。

例えば、くるま旅のためには幼児からの教育や体験が必要ではないかという話が出ていましたが、それはRVサイドのキャンプのノウハウの話であって、定年後のくるま旅をする上では、子供の頃から教育や経験などを意図することは無用ではないかと私は思います。大人がくるま旅をするために必要なのは、その気と好奇心とそれにほんの少し基本的な知識(旅のソフト面についての)を持っておれば十分だと思います。むしろ必要なのは、くるま旅のための環境の整備です。

今の日本には、くるま旅の者にとっての宿泊場所といえば、道の駅と高速道のSA・PA(といっても仮眠対応ですが)くらいしかありません。一般のキャンプ場はといえば、くるま旅の者を受け入れるコンセプトが無く、高額で且つ過剰設備の多い施設が殆どです。最近は料金を値下げして3000円ほどにしたなどという話を聞きますが、自分の車に寝るだけ、電気も水道もそれほど使うわけでもないのに、どうして3000円も払わなければならないのか、この金額が安くてリーズナブルなどとは到底思えません。

くるま旅の施設が無料であるべきという主張には加担できませんが、有料であってもせいぜい1泊1500円くらいが上限であって、それ以上は施設の使用内容から言ってもリーズナブルとはいえないと思います。USAのRVパークのようなものが何故日本には生まれないのか不思議です。キャンプ場の経営者の方たちが、週末の利用者や夏休みの利用者にこだわった経営を、いつまで続けているのかも不思議です。今までの利用のあり方に加えて新たにキャンピングカーを受け入れたりすると、キャンプ場の管理運営体制が崩れてしまうなどと考え、受け入れを拒否している経営者もおられるようですが、そのような方たちは、車社会の現実と未来をどのように見ておられるのか、これ又不思議に思います。

道の駅でマナーを知らない一部の者のために、真面目に旅をしている人たちが大迷惑を被っている問題の本質を、関係者の方たちは一体どのように考えておられるのか、その対策は「マナーを守ろう」などという注意喚起運動のレベルでだけで良いのか、この辺をもっと議論する必要があるのではないかと思っています。私は道の駅のマナー対策の問題は、くるま旅の環境が整備されていないが故の現象だと思っています。守らなければ使えないような環境をつくらない限り、この問題の解決は出来ないと思っています。具体的にどのような環境が必要なのかについては、様々なアイデアがあるでしょうし、そこには大きなビジネスチャンスも含まれているように思っています。

シェルパ斉藤氏の話は実に具体的で、皆首肯できるものばかりでした。「日本縦断オフィシャルガイド」という本があり、彼はこの本の責任編集者として係わっておられますが、恐らくこの方ほど日本の中を歩き回り、訪ね回った人はいないのではないかと思います。それだけに話の内容は実に明快で、実態に即しているなと思いました。例えば、彼はキャンピングカーを用いた旅もしておられるわけですが、「車をムダに乗らないことが大切」という話は、くるま旅の重要なポイントを突いているなと思いました。当たり前のように軽く聞き流してしまう恐れがありますが、私自身も含めて殆どの人が、かなり多くの、車のムダ乗りをしているという現実があります。実際は歩いて見た方が遙かに得るものが多いのに、停まらないで先へ先へと行こうとすることが多いのです。キャンピングカーを「基地」のようなかたちで使うことが大切という話もされていましたが、大変深い内容のある提案だと思いました。

バックパッカーというのは背中にリュックを背負って歩いて旅をする人という意味だと思いますが、その良さというか旅というものの真髄を、くるま旅に取り入れる発想はさすがだなと思いました。と同時に、彼の発言の本当の価値を理解している人が、この会場の中に何人いるのかなとも思いました。

この他にも得るものはたくさんあり、それらをここで一々披瀝できないのは残念です。パネルディスカッションの最後に、コーディネーターから一言ずつ最後にいいたいことを、との投げかけに対して、JRVAの福島会長は、「道の駅にくるま旅の人が泊れる、いわば公認の駐車場を設けて欲しい」という主旨の提案をされましたが、全く同感です。USAのRVパークに一番近いのは道の駅だと思いますし、国交省が視点を少し変えて予算をつければ、大して苦労などしなくても実現可能な話だと思います。無駄な予算を削ることは大いに結構ですが、本当に必要なものを充実させるための費用の投下は、人間が生きてゆく上では必要不可欠です。

私が今回のフォーラムの中で最も強く感じ、自信を深めたのは、くるま旅が、現役の者にとっても、リタイア間もない人たちにも、或いは高齢者と呼ばれる私のような人たちにとっても、心身の「健康」に大きく係わり、寄与するという認識が世の中で大きく取り上げられて来ているということです。特に高齢者層の健康保持に、くるま旅は大きく貢献できる可能性を秘めていると考えています。そのための環境整備に投下する費用は、高齢者の医療費の大きさから考えれば微々たるものでしょうし、老人が健康になることによって社会にもたらす貢献は、決してバカにはならないと思っています。

改めて、関係業界を挙げてくるま旅の環境づくりへの働きかけを強めて頂きたいと思ったのでした。

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キャンピング&RVショー2010を見に行く(1)

2010-02-15 01:38:39 | くるま旅くらしの話

2月12日から14日まで、幕張メッセにて開催されていた、キャンピング&RVショー2010に行って来ました。今乗っている旅車を買ったのも、このショーを見に行っての衝動買いでした。もう8年も前の話ですが。当時の開催場所はお台場の屋外でしたが、最近はメッセの屋内の大展示場に定着したようです。雨天時のことを考えると、安心できることは重要だと思います。今年は3日間とも雨模様の寒い日が続いたようですが、来客の方はどうだったのでしょうか。

私が出向いたのは、開催日の12日でしたが、平日とあってか、来客は思ったよりも少なくて、じっくり見るのには好都合でした。とにかくピカピカの眩しいような車が溢れるように並んでおり、この中から1台を選ぶというのは大へん難しいだろうなと思いながらの見物でした。ビルダー各社とも様々な工夫を施されており、同じベース車でも出来上がりはそれぞれの特徴を活かした見事なものとなっていました。

   

 幕張メッセの中で開催された、「キャンピング&RVっショー2010」の会場風景。

 東京から離れたところに住んでおられる方は大変だと思いますが、もし旅車を買い求めたいと思われる方は、このショーは必見ではないかと思います。高額の買い物となるわけですから、カタログだけではなく、実際に本物がたくさん並んでいるのを見比べて、自分に合うものを選ぶのが大切だと思います。各地でいろいろな形でこのようなショーが開催されていると思いますが、毎年2月のこの時期に行なわれる、この地でのこの催しが、恐らく日本では最大の規模ではないかと思います。何だか宣伝っぽい話ですが、一度は見ておかれることをお勧めしたいと思います。

ところで、現在の私は正直のところ、新しい旅車にさほど関心がありません。現在使っている車(グローバル社製キング5.3)は8年目になりますが、所々部品などに寿命が来て不具合な箇所が発生することもありますが、概ね至って健康で、旅を支えてくれています。この車をとても気に入っています。オッドメーターは13万キロを越えましたが、旅車としてはまだ青年期を迎えたばかりだと思っています。車の寿命というものが、一体どれくらいのものなのか良くわかりませんが、きちんと健康管理を行い、不具合箇所の手当てを早めに行なってやれば、予定している88歳まで付き合ってくれるのではないかと期待しています。その前に私の寿命の方が尽きてしまうのかも知れず、これは面白い競争だな、などと思ったりしています。

一般的には乗用車などは5年程度で買い替えというケースが多いようですが、旅車でも同じサイクルで買い替えをしてゆくというのには疑問を感じます。ビルダーや販売サイドの方から見れば、早めの回転を期待されるのは当然ですが、くるま旅のユーザーという立場からは、気に入った車を早い回転で買い替えるというのは、本当の旅をしていない感じがします。気に入らないのであれば話は別ですが、そうでないのなら馴れた車で旅をするのが安心・安全のように思うからです。尤も目的が旅ではなく、新しい車に乗りたいだけ、持ちたいだけというのなら、経済的に余裕がおありの方は、お好きなようにされればいいことで、ケチをつけるようなことではありません。

今年のショーを一回りして感じたのは、トータルとして大型化しているかな、ということと軽自動車等の小型の旅車の内容が一層充実してきている、ということなどです。これらの傾向については専門家の方が、様々な形で紹介されていると思いますので、私からは何も申すことは無く、ただそう言う感じがしたということだけです。景気の沈滞と自動車業界の低迷の中で、旅車の販売は右上がりだと聞いていますが、その傾向は二つに分かれている感じがします。それを表わしているのが、大型化と軽自動車キャンカーの仕様の充実ということなのかもしれません。大型化は設備の充実化の現われであり、軽自動車は低価格で旅車を持ちたいというニーズの強さを表わしているのだと思います。

ところで、今もし仮に私が、1千万円の宝くじが当たって、旅車を1台選ぶとしたらどのような選び方をするでしょうか?どうせありもしない現実ですが、試みに私見を述べてみたいと思います。先ず軽かどうかということですが、後々の維持費のことを考え、一人旅のことだけを考えれば、ちょいと手を出したいところですが、家内と一緒の旅の方が優先ですから、やはりキャブコンかバスコンを選ぶと思います。

それではどのようなキャブコンやバスコンを選ぶかといえば、これには幾つかの条件があります。先ず①は安眠が確保できること。②は国内の旅をするに当たって車の取り回しに苦労しない大きさ。勿論我が家の駐車場(7mが限界)に入らなければなりません。③雨天時も車内での調理が可能なこと。④発電機を回さなくても電源や熱源が常時確保されていること⑤夜間のトイレを車の中で済ませることができること⑥着衣等の荷物の収納にさほど苦労しなくて済むこと⑦家内の就寝時でも支障なくパソコンを使える空間があること⑧外部から使える収納スペースが大きいこと、等々です。

これらの条件を完璧に満たすということになれば、恐らく予算不足になるに違いありません。ある程度どれかを犠牲にして、選ぶとすれば、6m以内の大きさのキャブコンかバスコンになると思います。そしてソーラーと燃料電池を取り付けて貰えることを条件にしたいと思います。発電機は不要です。勿論電力を確保するに必要なバッテリーは付けて貰わなければなりません。この条件が基本で、その他に特に留意するのは、内装等に新建材などを使っていないものを選びます。あとはレイアウトやデザインということになりますが、これらは個別に相談ということになるでしょう。ざっと、このような条件で該当する車を探し出し、その後ビルダーさんと相談しながら決めてゆくということになると思います。

これから夫婦二人でのくるま旅などを計画されている方も多いと思いますが、私どものような衝動買いは、当たり外れが多いと思いますので、要注意でしょう。私どもは幸いにして良縁に恵まれ、気に入った車と出会うことが出来ましたが、後になってビルダーさんが倒産してしまいました。これは衝動買いの所為ではないと思いますが、真に残念なことでありました。車を選ぶ基本は、どのような旅をしたいのかということで決まるものだと思いますが、それらを漠然と考えるのではなく、できれば事前にレンタルなどでくるま旅を経験するなどして、実際の旅の中でどのような車の機能や装備が有効なのかを確認されるのが、一番確実だと思います。そしてもう一つ付け加えるとすれば、購入後のメンテナンスやサービス体制がしっかりしていることを確認されることも大切かと思います。

新車のまばゆい輝きを見ながら、この中から1台を選ぶ人の幸せを思いつつ、購入された後の、充実したくるま旅の実現を願ったのでした。

 

「山本馬骨のくるま旅くらし読本」発行のご案内

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冬季オリンピックと国母問題

2010-02-14 01:33:18 | 宵宵妄話

今日(2/13)は本(=「山本馬骨のくるま旅くらし読本」)の追加印刷をしようと取り組みました。おかげさまで最初の20冊は無くなりかけており、追加準備をしなければならないと考え、腰を上げることにしたわけなのです。より多くの方に読んで頂きたいと思っている割には、どうも本づくりが得手ではなく、ようやく危機感を感じて取り組んだという次第です。今回の予定は15部です。

用紙やインクを準備して印刷に取り掛かった頃から、カナダはバンクーバーでの冬季オリンピックの開会式が始まりました。印刷というのは、プリンター任せの単純作業ですから、パソコンの操作と用紙の補填などをきっちり行いさえすれば、あとはヒマなので、結局はかなりの時間オリンピックの実況放映を見ることになりました。今までこれほど多くの時間をかけてオリンピックの放送を見たことはありませんでした。

今回はドームの中での開会式だそうで、映像などを使った華やかな演出が印象的でした。カナダという国は、アメリカと同じように原住民といわれる人たちを飲み込んだ混合人種(このような言い方が適切なのか分かりませんが)の国家なのだということを、開会式を見ながら強く感じました。彼ら原住民の人たちを全面的に前に押し出しての演出は、何を意味するのか日本人の自分には解り難いなと思いました。

各国選手団の入場も様々で、選手よりも役員の方が多い国が幾つかあり、国家というのは一体どういうものなのだろうかなどと、オリンピックとは関係のなさそうなことを思いながらのTV観戦でした。冬季五輪というのは、冬という季節を持たない国には無縁の大会なので、それらの国の人たちは一体どのような関心を持ってこの開催を見ているのか、ということなども興味の湧くことであり、どうも年寄りの観戦というのは理屈の多い、素直さにかけるものであるようです。

ところで今日言いたいのは、国母という人の起こした事件のことです。国母というのはスケールの大きい懐の深そうな名前ですが、この人の行為は名前には大きく反して国辱的であり、残念などを通り越して呆れ返るばかりです。これは朝青龍よりも酷いレベルですなあ。これで大学生だというのだから唖然とするばかりです。

事件というのは、たかが身だしなみを自分流にしただけという話です。そんなことどうでも良いじゃないかといえばそれだけの話です。私もそう思います。但し、オリンピックの選手で無ければね。ということですね。へんちょこりんな頭や鼻にピアスは、もはやグローバルスタンダードの様ですからツベコベは言いませんが、これから全員一丸となって国の代表として、期待をを一身に背負って出かけようというときの身だしなみとしては、明らかに失格です。

それはまだ我慢できるとしても、その後のお詫び記者会見での発言は、これが日本を代表する人物なのかと疑いたくなるほどお粗末でした。質問に対する応答の中身がお粗末過ぎるのです。お詫びも自分の本心など欠片(かけら)も無く、オリンピックへの出場も調子が良いからだなどといっているのですから、この人に回っている税金を返して貰いたいほどです。こちとらは年金暮らしにも拘らずしっかり税金を払わされているのです。その内の1円にも満たないかも知れませんが、このようなただのスノボー遊びの好きな兄ちゃんに、税金を回す必要は日本国民として無いなと思いました。

この人からスノボーを取り去ったら、一体何が残るのかなとも思いました。スノボーというスポーツのことは私には良くわかりませんが、相当に高度な運動能力の求められるものだと思います。それを極めるレベルに到達したからこそ、国の代表に選ばれたのだと思いますが、それを極めるまでにこの人は技術・技能の他に何も学ばなかったのでしょうか?そんなことはない筈だと思うのですが、あの応答はどう考えても世の中との係わりについてしっかり学んでいるとは思えません。大学生を疑います。競技に勝ったという器用なるが故の思いあがりを、個性的などといういい加減な自分勝手の理屈で正当化し、ちやほやする取り巻き連中の尻馬に乗っかって、置かれた状況も弁(わきま)えずに取った行動の結果が今回の出来事だったような気がします。

あのファッションはスノボー選手としてはそれらしいものなのだと専門家は話しているとか言う記事もありましたが、一体専門家というのはどんな人間なんだ、と思いました。スノボーのことしか分からないような奴は、ぬけぬけと専門家など名乗るべきではなく、又そのような奴を専門家などと持ち上げてはならないと思います。人間のことがわからぬ奴は専門家などではなく、ただの専門バカに過ぎません。この頃の世の中には、この種の人間が妙にはびこっている感じがします。

この件に関して、選手団長は大岡裁きをしたと褒めている人もいるようです。「スタートラインに立たないままに終るのは、逆に無責任と判断した」ということのようですが、どこかで聴いた政治家のセリフに似ているなと感じました。問題の本質は、結果を出すなどということとは無関係であり、結果を出すに係わる資格があるかどうかということなのです。ま、国の代表選手として選んでしまった以上は、その選んだ責任もありますので、多少はこのような言い方が分からないでもないのですが、釈然としません。

オリンピック選手にとって、身勝手が許される場というのは、競技の場だけでありましょう。競技に集中する時はまさに身勝手そのもので無ければなりませんし、それはファッションなどではなく、競技そのものに己の能力のありったけを主張することなのです。それ以外は団体の一員であり、規範に従うのは当然です。

国母という人は、どうやらまだこのようなことが良くわかっていないような感じがします。人間的というのは、これらの弁え、判断がきちんとできるということだと思いますが、自分以外の人に映る自分が見えない人は、どんなに個性的であっても、人間的とは言い難いと私は思っています。尤も、厳密に言えば、人間的などという言葉はただの飾り文句に過ぎないようにも思いますが。

団長は、実際はもっとちゃんとした叱責やアドバイスをされたと思いますが、若いのを甘えさせることはそれこそ税金の無駄遣いになりますから、しっかりこの後のフォローをして欲しいと思います。又スキー連盟ほかのこれらの選手の育成に係わる人たちは、ただ強い選手だけを育てるのではなく、これからの国家をその斯界において背負い、導いてゆけるような一流の人物をしっかり育てて欲しいと思います。

念のため申し上げておきますが、国母という人には何の恨みも係わり合いもあるわけではなく、彼がオリンピックの選手であればこその憤りなのです。彼が個人的に公金も何も使わずにそれこそ自分勝手に競技に遊ぶ世界なのであれば、全く文句など言う気はありません。どうぞお好きなようにしてください、というだけです。

もう一つ最後に思うのは、オリンピックのメダル獲得などに国を挙げて騒ぐ必要があるのか、疑問が大きくなってきています。相撲に横綱が必要かどうかと同じように、スポーツバカのような人材を育てる傾向があるこの頃の取り組みに、うんざり感が増幅するのを止められません。 

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消えた木立

2010-02-13 04:14:02 | 宵宵妄話

このところ寒かったので、川沿いの歩きのコースは避けてなるべく林の中などを選んで歩いていたのですが、今日(2/11)は雨模様だけど風はなさそうなので、久しぶりに小貝川のコースを歩いたのでした。小貝川のコースの方は、守谷市内というよりも、その殆どが隣のつくばみらい市のエリアといった方がよく、川の堤防の下には旧谷和原村の田んぼが広がっており、その田んぼから5~600mほど離れた所が段丘になっており、そこには雑木林と民家の屋敷林が点在しています。春の終わり頃に田植えが終ると、水の満たされた田んぼは小緑の色に染まり、やがてその緑が濃さを増し、夏が過ぎて秋になると、黄金の美田が朝日に輝く景観となります。これらの中には幾筋もの農道が造られており、そのどの道を通っても散歩者には満たされる風景となるのです。

冬の今頃の田んぼは、ただもの哀しいだけの殺風景な景色が広がるだけであり、田んぼの縁に見える僅かな緑の中にタンポポの花が見つかり、オオイヌノフグリの楚々たる青紫の花が、寒さにもめげずに小さな春を告げているのが見出されるくらいなのですが、それでも季節の変化を楽しむには不足はありません。

その田んぼをしばらく歩いて小さな段丘の細道を登ってゆくと、関東鉄道の小絹という駅に近付くのですが、そこはもう住宅が立ち並び、明らかに都市化の波が押し寄せてきているのを実感できるエリアとなります。今日もその丘の道をその方向へ歩いていったのですが、何だかいつもと景色が違うのです。最初は気付かぬままに坂を登っていったのですが、ふと頭を上げると、瞬間的にいつもとは何かが違う景色がそこにあったのでした。えっ、何だこれはと思いました。木立がないのです。木立の向うにあった駅前の家々がやけにはっきり見えるのです。

直ぐに気づきました。犯人というのか共犯者というべきか、ショベルカーが置いてあり、その近くに伐り取られた杉の木の残骸が積まれていたからです。50本近くあった杉の木立はもう無くなっており、スッポンポンの空間が現出していたのでした。

  

ここにあった杉の木立は消滅していた。左は伐採の共犯者(?)右は伐り取られた杉の木の切り株と残骸。向うに見えるほどの規模の木立だったのに。残念。

それまでは、駅から100mも離れていないのに、良くもまあこの場所に杉の木立が残っているものだと、不思議に思うくらいでした。でも、とうとう都市化の波は本格化し出したようで、一瞬にして100年近く育った杉の木たちを処分してしまったようです。駅の向こう側のすぐ近くを通る国道294号線沿いに、最近大型の家電販売店が出現し、それだけで一挙に付近の景色が変わってしまったのですが、どうやらその余勢を駆って開発のエンジンがこの木立やその向うに広がっていた耕作放棄地らしき原野風の空き地の加工を始めたようです。

やむを得ないこととはいえ、私は都市化のための開発行為をあまり嬉しくなく思っています。自分が住んでいる場所も同じ開発行為によって出来上がっており、そのおかげで守谷に住めるようになったのですから、随分と又ご都合主義の勝手を言っているというのは、承知しています。しかし、出来る限り樹木たちの生命は数を減らすことなく残しながら開発をして欲しいと願わずにはいられません。無造作に樹木が伐採され、今まで見たこともないような景色が出現するのを楽しいとはどうしても思えないのです。

私は植物というのはすべて生き物だと思っており、それは動物と同じようにある種の意思を持って生命を養っているのだと考えています。その中でも特に樹木については、草などとは違った存在感を感じています。どのような人でも、例えば屋久島に行って、縄文杉や大王杉などの前に行けば、大樹の意思を感ずるはずです。守谷にも何本かの巨木がありますが、どの樹にも共通した生命の存在を感じさせられます。生命というのは、動物だけのものではないのだということを考えるならば、開発行為の中では、できる限り樹木を残すことを願わずにはいられません。

  

守谷市内にある市指定天然記念物の榎。二十三夜尊堂の境内に植えられている樹齢300年ほどの大木。左は全景、右は根元の逞しさ。しっかりと大地を掴む力は、相撲取りの力の比ではない。

過去、例えば庄川桜のように、御母衣ダム(岐阜県高山市・旧庄川村)の水没から救われて、数百年の生命を今尚そのダム湖の縁に花咲かせているのがあるように、全ての開発行為の中にそのような植物の命の延長を織り込む条件を付加してもいいのではないかと思うのです。それは開発の効率を邪魔するには違いないのですが、少しでも昔と現在、未来をつなぐために、人間の自然破壊の代償行為として義務付けられてもいいように思うのです。今日の木立の伐採だって、全部を伐り払ってしまうのではなく、可能な限り残しておけば、後何年か経ったときにこの地がその昔どのような所だったかを偲ぶ大きな証となるに違いないからです。

しかし現実はそのようなことはお構い無しに、事業計画が決まり、予算が確保できれば、あっという間に一木一草も残さず剝き出しの土地となり、そこに砂利が敷かれ、コンクリートが流し込まれて、人間のエゴだけが固まった平面や空間が出現してしまっています。小絹の駅付近がこのあとどのように開発されてゆくのかは見当もつきませんが、コンクリートの建造物が増えないことを願わずにはいられません。

小絹駅前付近の開発は、隣町の話ですが、我が守谷市の守谷駅前のその後の開発状況を見ていると、夢が削られてゆく町という感じがしています。当局の方は住み易さを強調して、何やらの調査では住み易い町として全国ナンバーワンだったとか、今でもベストテンに入っているとか強調していますが、私の見るかぎりでは、守谷駅前のまちづくりは、駅の東西の広場にだけは頭を使ったようですが、それ以外の場所は住む人のというよりも土地所有者の勝手な思惑だけが剝き出しになっているだけで、住み易さも町としての景観も味わいも何も無い、夢を削り続けている無策の為れの果てのような感じがしています。今のところは駐車場ばかりが乱立している感じで、いずれはそれぞれの土地に何かの目的があるのでしょうが、このような状態では、都市化された田舎町のどこにでもある風景が現出するだけではないかと思っています。ま、これは自分が何もしているわけではなく、ただ勝手にコメントしているだけですから、無力・無責任な話なのだと思いますが、夢を抱きながら移り住んできた者にとっては、淋しい限りです。

それでも守谷には緑がまだたくさん残っているのが救いです。何しろヤマトタケルがこの地を通った時に、あまりにも見事な森の景観に、森哉!と思わず称賛の声を発したというのが地名の始まりだというような説もあるそうですから、この緑は大事に保存できるように、しっかりと行政が力を発揮して欲しいものだと思います。

ちょっとオーバーな話となりましたが、旅の中でもこのような感慨に打たれる町や村がたくさんあるのです。まちづくりだとか村おこしだとかいう場合には、その軸というか芯となるものがしっかりしていないと、あっという間に一時の夢の残骸が残るだけになってしまいますので、為政を担当する人たちには特に心して欲しいなと思っています。

 

「山本馬骨のくるま旅くらし読本」発行のご案内

この度、前著「くるま旅くらし心得帖」の続編として、自作による「山本馬骨のくるま旅くらし読本」を刊行しました。副題を「60歳からのくるま旅くらしの楽しみ方」として、くるま旅くらしの意義、考え方、楽しみ方の理屈や事例などを紹介することにしました。又付録として、くるま旅くらしに関する何でもQ&Aを付加しました。これからくるま旅くらしを始めようとされる方には、これ一冊で旅の要領の凡そがお解かり頂けると思います。手作りですので、初版は20冊です。1冊1000円(送料・振込手数料込み)でお頒けいたします。

ご希望の方は、メール(pdl-taku.9930@themis.ocn.ne.jp)にて〒、住所、氏名、冊数をご記入の上お申し込み下さい。お支払いは、同封の振込用紙にて最寄の郵便局にてお振込下さい。メールのPdllはLの小文字です。

※より詳しく内容をお知りになりたい方は、私のホームページ「山本馬骨のくるま旅くらし元帳」にアクセスしてご覧下さい。アクセスはこのブログの右側にあるブックマーク欄から出来ます。

 

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建国記念の日に思う

2010-02-11 23:02:23 | 宵宵妄話

今日(2/11)は建国記念の日でした。倅が会社に行かないので何故かなと思ったら、そういう日だったというわけです。毎日が日曜日の身には、一週間という日の巡りを、休日とそうでない日に区分して判別するのが、次第にいい加減になってきているのを実感します。サラリーマン時代にこびり付いていた時間慣習から抜け出せないでいたものが、この頃はうっかりするとボケに直結するほどルーズになり出したようです。

今日は建国記念の日です。私がもの心つき始めたころは紀元節と呼ばれていたようですが、幼過ぎたし、戦争と戦後の混乱の中で、その実感は全くありませんでした。小学校に入学した翌年(1948年)には紀元節は廃止となり、以来しばらくの間、建国を祝うというような日はありませんでした。それが復活したのは、1967年の2月11日からで、この間いろいろと建国に関する論議が繰り返されていたようです。

建国記念の日は、月日としては紀元節と同じですが、その主旨は違うようです。現在の主旨は、「建国を偲び、国を愛する心を養う」ということにあるということです。紀元節の方は、記紀の記載に立脚して初代の神武天皇の即位日を祝う祭りだったということです。神武天皇の即位されたその日というのは、旧暦の1月1日なのだそうですが、明治政府はこれを新暦に置き換えて2月11日としたということです。この裏には当時の明治政府の様々な国家運営に関する思惑があったようです。詳しいことは分かりませんが、忠君愛国をスローガンに国の発展を期した当時の為政者たちにとっては、紀元節はかなり重要な意味を持っていたのではないかと思います。

それに比べると、現在の建国記念の日というのは、軽い感じがします。今の日本には、明確な国家意識などというものはないようです。日本語を話している限りは、日本人という意識は勿論あると思いますが、日本国というものに対する愛情とか愛着心ということになると、極めて薄弱なのではないでしょうか。オリンピックで日の丸が揚がっても大して感動もしない選手もいるようですし、国歌も碌に歌えないという人も国内にはゴマンといるようです。

要するに愛国心などというのは古いのだと思い込んでいるのかもしれません。ま、忠君愛国などというものを、今の時代にまとも受け止めているのはよほどに特別な人だけでありましょう。今は「君」に該当する者は存在せず、漠然とした「国」というコンセプトが個々人の頭の中に存在しているだけのような気がします。それは世界全体の傾向なのかも知れませんが、日本国においては際立って国というものに対する求心力が落ち込んでいるように思います。

国が国としての求心力を高めるのは、危機状態に陥った時だけのようです。国の危機状態というのは、国民の一人ひとりのレベルにまで本当に国が亡くなってしまうかもしれない、自分の安全や暮らしが脅かされるという危機感が迫って感ぜられる状況をいうのだと思います。最近ではニューヨークの世界貿易センタービルのメルトダウンに象徴されるテロ事件などが、アメリカの求心力を一気に高めましたが、今のところそれに類した現象は、国家の体をなしている国では深刻な状態では起ってはいないようです。ただ一つの例外は北朝鮮だけでしょう。

国家の体をなしていないと思われる国は多く、その大半は中東やアフリカ大陸等に存在しているようで、これらの国では宗教戦争と混ざり合っての内乱が、経済要素も絡んで複雑な状況を呈しており、恐らくその終止符が打たれることは永遠に無いような感じがします。これらの国では、愛国心などを論ずる余地のないほどの乱れようで、人間の業の深さを思い知らされる感じがします。

ま、世界的な問題を俯瞰するほどの力は私にはありませんし、又この年になってまともに世界を見て見ようなどとも考えておりません。建国記念の日を迎えて思うのは、もうちょっとこの日本という国の住人は、国家というもののありがたさに感謝してもいいのではないかということだけです。私たちは自分の不満に対しては極めて寛大ですが、他から頂いている満足に対してはあまりにも横柄で傲慢不遜(ごうまんふそん)な態度が多い感じがします。普段当たり前と思っていることの大半は、実は感謝すべきことがらなのではないかと思うのです。その意味において、建国記念の日は、国に対して感謝をする日であっていいような気がします。何だかんだいいながらも、日本という国は、トータル的に見れば、世界に類なき平和と経済的な豊かさを実現しているのですから。

こんなことを思っていますのは、実はようやく「坂の上の雲」を読み終えたところだからです。この本を読むのは3度目ですが、改めて明治という日本国家の置かれた状況とそれに対峙したご先祖様たちのあり方を思い、感動をし続けているところです。旅順も奉天もそして対馬海峡での連合艦隊とバルチック艦隊の戦いも、国の命運をかけた乾坤一擲(けんこんいってき)のものでした。それは政治家や軍部だけの危機意識ではなく、一般民衆の殆どを含めた国民の一致した危機意識だったのです。鎖国の江戸時代の安楽とは全く違った世界の脅威を、黒船の到来を期に日本人の多くがものすごいスピードで感じ取ったのでした。幕末から維新を経て、僅かな期間の間に日清・日露戦争を体験していますが、この二つの戦は、意気揚々とした侵略戦争などではなく、国を守るための戦いだった部分が大きいように思います。負ければ次に待っているのは、日本国の領土の割譲や従属化だったわけで、往時の列強と呼ばれる国々にとって侵略・植民地化は当たり前の行為だったのです。猿と呼ばれながらも敢然とロシヤに宣戦布告したのも、国を守るための不可欠の決断だったのです。そして国民の殆どがその勝利の実現のために命を投げ出して戦に加わったのでした。

私は、断固たる戦争反対者ですが、この明治の志士たちの国を思う気持ちは一つの出来事として高く評価していいと思っています。日本が問題なのは、その後の為政者や軍部たちの歴史に学ばない思い上がりの姿勢だと思います。日露戦争は勝ったのではなく勝たせて貰ったということを謙虚に受け止めなかったということです。

太平洋戦争は孫子の兵法から見ても戦わずして負ける状況だったのに、現実とは違った超オーバーな神がかり的な煽動行為などによって国民を騙し、しなくてもいい大戦に巻き込み、何百万人もの犠牲者を出した挙句に惨めな敗北で終らせ、国をどん底にまで貶めたのですから、これ以上の愚かな犯罪はありません。いま、国民の大半が国家というものに関心を払わないのは、平和過ぎるからではなく、この苦い体験がトラウマとなって、その子孫に伝っているからなのかもしれません。

せめて建国記念の日には国に感謝を、などといいながら、実のところ内心は複雑な思いでおります。そして、今私が思っているのは、くるま旅を通してこの国の様々な現実を、いろいろな角度から訪ね、昔と今がどう繋がっているのか、繋がっていないのかなどを知りたいということです。

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トヨタバッシングの意味するもの

2010-02-11 03:11:30 | 宵宵妄話

今の世の中で、最大級の問題・関心事といえば、やっぱりトヨタバッシングだと思います。トヨタは、アメリカにおいてのバッシングが一番厳しいようですが、日本の国内においてもかなりのバッシングを受けていると感じます。その意味するものが何なのか、私なりに思いを巡らせて見ました。

トヨタといえば、現役時代にバブルの恩恵と破綻のしっぺ返しの両方をたっぶり味わされた私の世代に於いては、何といっても「カンバン方式」といわれた生産・品質管理の取り組み姿勢でした。あらゆるムダ・ムラを無くし、最小のコストで最高の品質の製品を生み出すというその手法には、製造に係わる大企業の殆どが注目したのでした。このカンバン方式の成果は、やがてトヨタを世界一の自動車メーカーに引き上げる原動力の一つとなったに違いありません。

私がその当時のトヨタのこのやり方に疑問を感じたのは、一般的に3ムダラリなどと呼ばれている業務遂行におけるコスト低減の視点としてムダ・ムラ・ムリの排除というのがありますが、カンバン方式はムリというものをクリアーできないのではないかということでした。例えば、ムダの排除の中で最も重要なターゲットとして「時間の管理」がありますが、必要時間を最小限にするという取り組みは、現実の世界では様々なムリを強要することになり、それがストレスとなってのしかかってきた場合、反逆要素として作用する場合があると思うのです。人間には心の安定を保つために、ムダな時間がどうしても必要のような気がするのです。日本国内の場合は、日本人労働者は、TQC活動などの合理的チャレンジに対しては、それを究極まで追求しようとする根性のようなものがありますが、外国の場合は、なかなかそうは行かないのだと思います。

そして日本においても継続性という点では、やはりマイナスのストレスを溜め込む要因となるような気がします。ま、これらは程度の問題ですから、具体的にどこまでのレベルをムダの対象とするかは、私には分かりませんし、問題が起っているのかどうかもわかりません。ただ当時、鋼材を運び入れるためのトラックが、指定された入門の時刻に間に合うようにするために、工場の外の一般道に列を作って並んでいたなどという話を聞くと、ムダを無くすということが、社会との係わり合いにおいて、バランスを失したものであった感じはぬぐい切れません。

ま、何はともあれ社員一丸となって改善にこれ努め、日本のナンバーワンを確実なものとし、やがてその努力の積み上げが世界ナンバーワンを実現したのですから、これは批難やケチばかりつけていては不公平ということになりましょう。私のキャンカーのベースもトヨタ車なのです。

ところで、本題のバッシングですが、技術的なことに関しては私は良くわかりませんが、ハイブリッド車についての制動の問題については、当初のトヨタの説明は拙かったですね。お客さんの感覚の所為などにしては、世間は納得しないのは当然です。仮にそれが99%の真実であっても、残りの1%の非を責めるような言い方は、顧客第一には違反することになります。その説明を聞いたときは、トヨタの幹部らしくもない言い方だなと驚くと共に、この一言はバッシングの響きを大きくするだろうなと思いました。1%にも満たないお客様であっても、そのお客にとっては不安を覚え、被害を被ったのは現実であり、否定は出来ないのです。統計的な見地からの説明などは、お客にとっては無用なのです。いわゆる技術屋さんといわれる人の特徴が如実に出た記者会見でした。

その後ニュースのトーンはトヨタには益々厳しい響きを持って世の中に伝わっています。海の向こうでは、国を挙げてのトヨタバッシングが開始されたようです。アメリカの議会は、問題が国外のターゲットなるがゆえに、待ってましたとばかりに、国内の人気というか評判を高める材料としてトヨタに目を向けたようです。アメリカの自動車業界を乗っ取った感のある憎っくき外国企業に対して、今までは文句をつける隙が見出せなかったものが、ここに来て絶好のチャンス到来となったのだと思います。

トヨタの失敗は、リコール問題などではなく、世界ナンバーワンになってしまったことのように思います。ま、それを目指してなったのか、そのようなことは考えずに一所懸命やっていたら、いつの間にかナンバーワンになってしまっていたのか、良くは分かりませんが、結果的にナンバーワンになったこととバッシングとには深い関係があるように思います。「出る杭は打たれる」との例えもありますが、ナンバーワンというのは、その杭に該当するに間違いありません。今回のリコール問題は、しばらくの間バッシングの響きを世界中にバラ撒くような気がします。今のトヨタにとってこれは宿命的な洗礼なのかもしれません。

問題はトヨタがこのバッシングの洗礼をどう乗り越えるかということです。GMの倒産事件についても様々な出来事が付帯していましたが、私はトヨタの企業体質はGMほど酷いものではないと思っています。社長が記者会見でおっしゃっていた、「顧客第一」という経営の原点は、本物だと思っています。アメリカの経営者には顧客第一という視点よりも株主第一というような発想が強く内在しており、経営の危機に遭遇した時の対応の仕方が、違和感を覚えるようなところがあるのですが、トヨタは本気で顧客第一を貫くと思いますから、信頼を取り戻すまでには少し時間がかかるとは思いますが、必ずやこの難事態を乗り越えてくれると思います。

 これからどのようなバッシングがアメリカ国内で展開されるのか、大変気になるところですが、この暴風雨を凌いで、トヨタがこの体験を生かして、二度とバッシングなど受けないような、毅然とした経営を展開することを願っています。そして、バッシングなどを行なったのは却ってトヨタを強くしてしまった、これは取り返しのつかない失敗だったと、アメリカ議会に思わせるような、そのような企業に脱皮して欲しいと願っています。

 

 

「山本馬骨のくるま旅くらし読本」発行のご案内

この度、前著「くるま旅くらし心得帖」の続編として、自作による「山本馬骨のくるま旅くらし読本」を刊行しました。副題を「60歳からのくるま旅くらしの楽しみ方」として、くるま旅くらしの意義、考え方、楽しみ方の理屈や事例などを紹介することにしました。又付録として、くるま旅くらしに関する何でもQ&Aを付加しました。これからくるま旅くらしを始めようとされる方には、これ一冊で旅の要領の凡そがお解かり頂けると思います。手作りですので、初版は20冊です。1冊1000円(送料・振込手数料込み)でお頒けいたします。

ご希望の方は、メール(pdl-taku.9930@themis.ocn.ne.jp)にて〒、住所、氏名、冊数をご記入の上お申し込み下さい。お支払いは、同封の振込用紙にて最寄の郵便局にてお振込下さい。メールのPdllはLの小文字です。

※より詳しく内容をお知りになりたい方は、私のホームページ「山本馬骨のくるま旅くらし元帳」にアクセスしてご覧下さい。アクセスはこのブログの右側にあるブックマーク欄から出来ます。

 

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社会実験、何だ、これは!?

2010-02-10 00:00:48 | 宵宵妄話

旅の話のネタが尽きましたので、今日から少し気になる世の中のことをちょっぴりコメントすることにします。先ず初めは高速道路無料化の社会実験計画という奴です。何ですか、これは!?

今の政府は鳴り物入りで高速道路の無料化をマニフェストに掲げて政権獲得に成功したわけですが、この実現を含めてその他の政策についても、いろいろの面で期待を裏切り続けています。ことあるごとに、「国民の皆様」などと口当たりのいいセリフが飛び出していますが、少なくとも私自身はその国民の皆様の一人には該当させて貰ってはいないと感じています。

くるま旅にとって、実のところ高速道路の無料化はあまり関心を示すようなテーマではありませんでした。というのも、何もそれほど急いで旅をする必要はなく、むしろ一般道をゆっくり走りながら人生の楽しみを拾ってゆくのが主流ですから、欲しいのは高速道路などではなく、安全・安心に泊ることができる簡易の宿泊駐車施設なのです。現在の道の駅のような仮眠用の施設ではなく、短期滞在も可能な有料の簡易宿泊駐車施設なのです。それを造るのは、それほど難しいことではなく、現在の道の駅のレベルに加えて、水と電気を使うことが出来て、更にはゴミ処理が出来ればそれで十分なのです。高速道を無料化するために多くの税金を使うのなら、その僅かの分をリタイア後の老人の活性化のための施設に投資してくれてもいいのではないかと思っています。

ま、それでも無料ということになれば、例えば私の場合でしたら九州エリアの旅に出かけようと思ったときに、燃料費だけのコストで一挙に目的の宮崎なり鹿児島まで行くことができるわけですから、これはまあありがたいことだとは思っていました。実際無料化が実施されたら、是非鹿児島まで行って、そこからフェリーに乗って屋久島まで行き、1ヶ月ほど暮らしてみたいなどと考えていたのでした。

ところが、今度発表された高速道路無料化社会実験計画というのを見て、これは何だ!?と呆れ返るやら、疑問を通り越して政治家や役人どもの考えることに、うんざりの心境を味わっています。「巧言令色鮮矣仁(こうげんれいしょく、すくなし、じん)」は論語の言葉ですが、現在の政治の世界を見ていると、2千年以上も前に人間の本性を鋭く見抜いた、孔子様の言葉がそのままそっくり当て嵌まることに驚くと共に、人間というのは科学だけは異常なスピードで進歩しているけど、社会運営の能力は殆ど進歩していないのだということがよく解ります。

この計画を読んでみて、何のための実験なのかが良く解りません。普段あまり交通量の多くないエリアばかりを分断的に選んで無料化して、何の実験なのでしょうか?もともと高速道などなくても良かったような場所や区間を実験に使って、何が解るというのでしょうか?実験というなら、当然渋滞のあり様をも調べるべきであり、メインの路線が幾つか加えられてしかるべきだと思いますが、それは皆無なのですから、まことに国民をバカにした実験だと思います。

もともと高速道路の建設自体にも疑問が多いところがあります。北海道を旅していて、何故このようなところに高速道が必要なのか、首を傾げたくなることが何度かありました。高速道と併走している一般道を走っても目的地への必要時間は殆ど変わらないのです。多額の費用を高速道路にかけるのだったら、一般道の整備にお金を掛け、セミ高速道路的に運用した方が、遙かに有効だと思われる箇所が、北海道ならず全国にも多数あるように思います。旅の現実から見ると、高速道路というのは、一部を除いて政策的なニーズで作られたものが圧倒的に多いように感じます。一時的には、投下された資本(=税金)がその地方を潤すかも知れませんが、長期的に見れば殆ど車の通らない道路は、無用の長物化し、補修や維持のコストが増大するばかりだと思います。無料化などという無責任なことを言わず、又無意味な社会実験などといってごまかすのではなく、政治がやるべきメインの仕事は、長期的展望にたって道路行政の根本をしっかり見直し、然る後に具体的な施策を立案・展開すべきではないかと思うのです。

今回の政府の取り組みは、マニフェストへのテーマの掲げ方に様々な課題を残したと思います。あまりにも安易に耳をくすぐるようなことを、声高に言い触らし過ぎたのではないでしょうか。高速道路通行料の無料化も、石油への課税の取り扱いも、子供手当ても皆世間に阿(おも)ねて調子のいいことを言い過ぎた嫌いがあります。その結果帳尻合わせのために膨大な借金予算を組み、わけのわからない説明をする状況に追い込まれている感じがします。

国民は醒めていますよ。少なくとも私と、私のそばにおられる知り合いの方たちは、現政府の弁明をクールに見ています。今の政府を選んだのは、巧言令色の傾向大のマニフェストに耳や目が眩んだのではなく、それまでの自民党のあまりのお粗末な政治のありさまに呆れ返っていたからなのですから。

しかし、自民党というのは、それにしても一体何をしているのでしょうかね。非を責めるなどと小さなことにとらわれ過ぎずに、もっと大きな建設的な意見を、国民に問いかけて欲しいのですがねえ。今のところ政治に期待できるものは殆どないようです。放っておいてもなるようになるのでしょうが、さあて、対外的には今まで以上に厳しくなるんじゃあないでしょうか。高速道路の無料化の話などしている場合じゃないでしょうな。お先真っ暗の心境です。

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千倉の春は花

2010-02-09 00:46:48 | くるま旅くらしの話

書くのが少し遅くなってしまいましたが、南房総の花の名所千倉(ちくら)を訪ねたのは先月の27・28日でした。旅の最後の日に少しばかり花を買って帰ろうと考えていましたので、千倉を訪ねるのも最後となってしまいました。27日は本当は花畑のライトアップされている姿を見ようと思い、少し遅めに花畑に着くようにと夕方近くに現地に到着したのですが、その日は強風が吹き荒れ、とても花を観るどころの状況ではありませんでした。

千倉には潮風王国という名の道の駅がありますが、ここの駐車場は大きく二つに分かれて造られており、道の駅の建物の本体のある方は海側に、そしてもう一つは2kmほど離れた白間津というところにあります。どちらも近くには花畑が広がっており、潮風の中に色とりどりの花とその香りを味わうことが出来ます。

27日には白間津の方の花畑を訪ねて、ほんの少しばかり花の写真を撮らせていただきました。とにかくものすごい強風で、まともに立っていられないほどでしたので、折角の花たちの歓迎も息が途絶えそうになるほどで、長居は出来なかったのです。

   

千倉の白間津の花畑。色とりどりのストックの花が咲き乱れている。ストックはスプレー状(たくさん枝分かれして花を咲かせる品種)のものが多く栽培されているようである。

その夜は千倉温泉の夢みさきというホテルの温泉に立ち寄り湯をしました。このホテルには1Fには古代檜の湯船のお湯が溢れ、7Fには房総の海を見下ろしたままお湯を楽しめる露天風呂が設えられています。私たちは1Fの方へ入らせて頂きましたが、十分に満足できるいい温泉でした。その夜は昨日泊った最寄の道の駅:ローズマリー公園にもう一度お世話になりました。

千倉の道の駅は海の直ぐ傍にあって、もろに潮風を受けるので、泊りには向いていないと判断しました。その点、旧円山町にあるローズマリー公園は、松の防風林に覆われた砂浜からは少し離れた場所にありますので、波音も聞こえず静かで安心できます。無造作にどこでも平気で泊れる人は豪傑だと思いますが、私たちは豪傑にはなれませんし、豪傑を尊敬する気もありません。くるま旅に大切なのは、安全と安心であり、それは常にいざという時のことを考えて対処できるものでなければならないと思っています。

翌日は旅の最後の日です。もう一度千倉の花畑を訪ねて、花を買った後は一路千葉市経由で我が家を目指す考えです。この日は朝から天気が悪く、どうやら雨が降るらしいとの予報でした。折角の花見を期待していたのですが、これではただ花を買うだけのこととなってしまいそうです。しかし、天気のことはどうしようもありません。

私たちが花を買い求めるのは、いつも決まっています。海側の道の駅の近くにある、落合さんご夫妻が作っておられる花畑です。落合さんご夫妻は、私たちよりは年齢的には少し先輩ですが、花作りのベテランで、現在では花を作って稼ごうという気持ちよりも、楽しみながら花を作りそれを訪れる人たちに楽しんで貰いたいという考えの方が強いようです。このご夫妻の花畑を訪れると花よりもお二人の花作りの姿勢に癒される分の方が多いような気がします。

今回は奥さんの方がお孫さんの受験に係わられて、今日は花畑の仕事は休みだそうで、お父さんが一人で頑張っておられました。今日は天気が悪いので来訪者も少ないのだと思いますが、お父さんの話では、このところずっと雨が降らないため、花畑の管理が難しくなっているとのこと。今日は是非とも雨が降って欲しいということでした。

   

ストックの花の世界。低いビニール掛けの畝の中にカメラを突っ込んで撮影してみた。咽(むせ)かえる芳香が溢れている。

一面の花畑です。今はストックが最盛期間近かとなっているようで、色とりどりの花が何ともいえぬ香りを思いっきり放っていました。ビニールハウスの中には、ストックに似た花の金魚草がより透明感のある花を咲き並べていました。キンセンカはまだ少し早いようでしたが、それでも咲いている花も多く、ポピーも似たような状態でした。私の好きな矢車草も咲いていました。花の中にいると、幸せを感じます。花には幸せを感じさせる力があるようです。

   

私の好きな矢車の花。「函館の青柳町こそ哀しけれ友の恋歌矢車の花  啄木」の歌を思い出させる花である。矢車の花は青が一番いい。

私がビニールハウスの中でボケーとしている間、家内は花の観賞などよりも、どれを選ぶかの方に関心が集中しているようで、お父さんと一緒にあれこれ大忙しで花の選定をしていました。ま、いつもの風景です。今日は奥さんがいないので、話し相手に不足しているのかも知れません。切った花を胸いっぱい抱えて、満足そうな顔で戻ってきました。ヤレヤレ。

これで今回の房総の旅は終わりとなりました。帰る途中に千葉の母の所に寄り、母がお世話になっているデイケアの事務所にも少し花をお裾分けして、我が家に戻ったのはその日の午後半ばでした。その時に買い求めた花は、今でも活き活きとして我が家の玄関で出入りする人を迎え、春の芳香を目一杯漂わせています。

 

「山本馬骨のくるま旅くらし読本」発行のご案内

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