山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

生命の画家・安達巌(3)

2009-10-22 05:37:57 | くるま旅くらしの話

<彷徨いからの脱却と絵との出会い>

安達巌は講演会で、学卒の新入社員を前に冗談交じりに話すことがある。「私の学歴は小学校中退です」と。小学校4年で学校への道を閉ざされてしまったのは、時代の為せる偏見が大きく影響しているように思う。私が子供の頃は、障害者に対する一般の人びとの見方は、今では想像もつかないほど残酷なものだった。バカな悪がきは、障害者を囃(はや)し立てたりして蔑視し、それを見ている親も何も注意しないような世界が普通だったのである。弱者に対する己の強さの誇示は、その人間の弱さの裏返しでもあるのだが、長い間の身分制度の弊害は、このような弱者が弱者を虐めるというような世界を作り出し、それは今の時代でもどこかで執拗に生き続けている。いじめの問題などはその典型であろう。

そのような時代の中で不具の身となってしまった巌少年には、単に身体が不自由というだけではない、差別というような面からも、登校するのは不可能だったに違いない。学校へ行くのを支えてくれる者はいなかったのである。けれども、伯母の家に身を置きながら、息を潜めるような生き方の中で、彼は彼なりに文字を覚え、読み書きの修練を積み上げて行ったのである。教科書も無い身では、学ぶといえば例えば、電柱の広告や看板から文字を覚えるといったやり方だったという。鉛筆などの筆記用具を買うのもままならず、道端で拾ったチビた鉛筆を大事に使ったという。

中学生(学校へは行っていないけど)の多感な世代となり、更に歳を数えるにつれて、彼の苦悩は、身の回りの処理が出来るようになったということとは別の意味で、一層大きくなっていったのだった。同じ世代の人たちと比べて、自分の置かれている惨めさ、閉ざされている可能性を思うと、居たたまれない気持ちとなり、やがてそれはこの世に自分が生きている意味が無いという、自己否定の世界へと考えが向かっていったのだった。

ある日、ついに彼は自らをこの世から葬り去ることを決意したのだった。この決意に至るまでの彼の青春の彷徨(さまよ)いは、私などの想像を遙かに超えた凄絶なものだった。孤独などというものではない。大阪の計り知れない闇の世界のような箇所を、閉ざされた未来への絶望感を抱きながら、その空しさ、苦しさ、やりきれなさを膨らませるだけのさ迷いだったのだと思う。知らず向かっていたのは生まれた地近くの大正区の方だったという。死のうと、線路に身を横たえていると、やがて列車の近づいてくる音が、レールを通して次第に大きくなってきたという。そのまま横たわっていれば、それで少年の命は途絶えたのだったが、ゴオーッと近づく機関車の爆音が身に届く前に、彼は線路から跳んで間一髪命をつないだのだった。ギリギリの死の瞬前に線路から飛び跳ねたのは何故だったのか、その時の自分には解からなかったという。思い返せばその瞬間の時に、母の遺言「巌ちゃん、あなたは男でしょ。男は強くなって、自分よりも弱い人たちを助けてあげなければならないのよ。あなたはそれが出来るのよ」という言葉が、無意識の中で届いて、それに身体が反応したのではないか。彼の命を救ったのは、母の愛だったのではないか。そのような話を彼から聞いたことがある。

さて、それからの彼はもう恐いものは何も無くなったという。強く生きることを決意したのである。どんなことがあっても、真っ直ぐに生きてゆこうと固く心に決めたのだった。しかし、生きるためには食べなければならない。食べるためには何か仕事をさせて貰わなければならない。とにかく働く場所を見出そうと、それからの彼はまさに飛び込みでの必死の就職活動を行なったのだった。小さな町工場を片っ端から訪ねて回り、何でもいいから働く場所は無いか、仕事はないかと頼み込んだのだった。しかし最初は話を聞いてくれても、両手がないことを知ると、そんなんじゃどうにもならんと、そっけなく断られるのが常だったという。そんな中、ある町の鉄工所の社長が、巌を使ってみるかと受け入れてくれたのである。ついに彼は職を得たのだった。そして、その社長さんの好意で、屋根裏部屋だったけど、住いも提供して貰えることになったのである。

このような厳しい青春時代を通じて、苦しいとき、悲しい時に彼を支えたのは、絵を描くことだった。それは無意識に見出した世界でもあった。チビた鉛筆を口にくわえ、新聞の折込広告の裏に字や絵を描くことがいつの間にか彼の楽しみとなっていたのだった。最初に鉛筆を口にくわえたときには、身体は鉛筆を筆記具とは認識せず、流れ出る涎(よだれ)のために、紙はグチャグチャに濡れてしまって、なかなか絵を描くことは出来なかったし、涎が止まっても真っ直ぐな線を描くのも円も、自分の思い通りのものを描くのは至難の業だったのである。そのような苦難を一つずつ乗り越えて、全くの独学ながら安達巌の絵の才能は少ずつ開花していったのである。絵の具を買うこともなかなか出来ず、その時には集めた桜の花びらを絞って花の色付けをしたという。緑は野草の葉を絞って使ったという。

仕事を得てからは、懸命に働いた。社長にも可愛がって頂き、彼の存在は資材関係の仕事の責任を任せられるほどのものとなっていった。しかし小さな会社に拾われた身では、給料は僅かだった。そのような中で、少しでも蓄えをしようと、食を最低限に削って、コッペパン一つで過した日もあったという。そのようにして貯めたお金で画材や絵の具を買い、休みの時間を使ってはスケッチなどに出かけて、絵を描き続けたのだった。

22歳になった年、住んでいた布施市(現東大阪市)の美術協会が募った絵画展に、友と一緒に和歌山の双子島にスケッチに行った時の絵を出品、応募したのだった。これが見事に入選を果たしたのである。初め市から連絡をを受けたときには、入選の意味が解からず、何のことかと戸惑ったという。自分の絵が評価されて上位に選ばれてたのだと知って、その思いは天にも昇るものだったに違いない。間もなくして、その評判を聞いた近所の理髪店主が、店に飾りたいから、その絵を売ってくれないかと申出でがあり、その作品を買って頂くことになったのだった。生まれて初めて自分の絵が売れたのである。当時の金額で6千円だったと聞く。それは巌にとっては大金だった。

何と、彼はその賞金の中から僅かに千円ほどを、自分の絵の具を買うために使わせて貰うことにして、残りのお金を恵まれない方のために使ってくださいと、名乗りもせずに市に寄付をしてしまったのだった。人はこのような行為が出来るものなのだろうか。でも巌青年はそうしたのである。それは、母の最期の囁きに応えるためだったのかもしれない。母の遺言に応える最初のチャンスが来たのだと考えたのかも知れない。

この行為は、やがてマスコミに知れることとなり、その後しばらくは取材等で困惑する事態となるほどだった。何せ汚れた作業服の両手の無い青年が描いた絵が入選したということだけでもすごいことなのに、その青年は売れたその絵をのお金の殆どを、世の中の困っている人のために寄付をしたという、しかも名乗りもせずに置いて直ぐに去ってしまったという。その美談は当時の世の中では稀なるものだったのではないか。

この出来事以来、巌青年の暮らしは大きく変わっていったのである。間もなく世界身体障害芸術協会の目に留まることとなり、そこから奨学金を貰いながら絵を学ぶというチャンスがめぐってきたのだった。安達巌23歳の頃である。世間から置き去りにされ、不遇などと呼ぶのを通り越した、もっともっと凄絶な厳しい環境の中で必死に生きようと戦いながらも、決して絵を描くことを放棄しなかった、両手を失くした一人の青年にようやく光が当たり始めたのだった。(つづく)

安達巌 遺作展 (昌子夫人の企画運営による)

「安達巌 生命(いのち)のメッセージ展」

期間:10月22日()~28日()

場所:近鉄上本町店6階 美術画廊(天王寺区上本町6--55

後援:読売新聞大阪本社/社会福祉法人読売光と愛の事業団大阪支部

     

 安達巌の絵:「雪の古民家園」(F2) 東京都小金井市にある江戸東京たてもの園の雪景色を家内がカメラに収めたものを、安達画伯が絵にされたもの。我が家の家宝の一つでもある。

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生命の画家・安達巌(2)

2009-10-21 00:15:56 | くるま旅くらしの話

<少年時代の大事件>

安達巌は、1939年10月、大阪の西区にて生を受けた。生家は祖父が鉄工所を経営していたと聞く。西区は、阪神工業地帯の中核エリアであり、明治以降の日本の経済発展に重要な役割・貢献をした地域でもある。すぐ隣の大正区には、その区名の由来となったその当時の日本最大のアーチ橋である大正橋があったが、祖父はその橋の架橋にも大きく関わったという。裕福な家庭の一人息子だった父親は、いわゆるボンボンで、家業を顧みるよりも好きなボクシングなどに熱中していたようで、その当時の伝説のボクサーであるピストン堀口との交友もあったらしい。その父が迎えた妻は、松竹歌劇団で、その後大女優と呼ばれるようになった京マチ子などと一緒に舞台に立っていたこともあったとか。その当時の流行の先端近くの暮らしぶりであったに違いない。そのような若夫婦の長男として誕生した巌は、戦雲が立ちこめ始めた時代ではあったが、何一つ不自由のない恵まれた環境の中ですくすくと育っていったのだった。

しかし、そのような幸せな環境は、あの太平洋戦争で完全に破壊し尽くされたのだった。家も土地も戦後のどさくさの中で、不明の状態となり、巌一家は、母親の親戚などを転々として居候せざるを得ない状況が続いたのだった。今の世の中からは想像も出来ないほど、戦争は人びとの暮らしを破壊し、容赦なく生きる道を混乱させたのである。

私自身も茨城県の日立市に生まれ、戦中には祖母の実家や母の実家などに兄弟が別れて疎開したりして、一家が離散した時期があったのを経験している。結局日立には戻らず、現在の常陸大宮市にあった開拓地に入植して、そこで育つこととなったのだが、あの戦後間もない時代には、一家が離散しているなどは未だ恵まれている方であって、父母の消息も不明というような子供は、都会の路傍に満ち溢れていたのだった。

そのような戦後の環境の中で小学校4年生になった時、巌の一生を大きく転換させる大事件が起こったのだった。その頃学校の子供たちの間で、小鳥を飼うという一種のブームみたいなものがあり、巌も小鳥を飼いたいと母にねだったのだが、それが可能な経済的余裕があるはずも無く、その願いは叶わなかったのである。しかし子供にとってはその夢はなかなか捨てがたく、ある日のこと、腕白同士が集まって雀の子を獲ろうという話となった。近くの近鉄八戸ノ里の変電所の建物の屋根辺りに雀が巣を作っているという情報のもとに、そこへ行くこととなったのである。

変電所の構内に入るなど、今では考えられないことだが、その当時は抜け道や近道として大人も子供も平気で出入りをしていたのだという。4~5人の腕白共が揃って変電所に来て見たのだが、誰にも鉄塔の高所に登る勇気はなかなかなく、怖気ずいて尻ごみする者ばかりだった。こんな時、人一倍運動神経の優れていた巌は、蛮勇を奮って「ほんなら、僕が行く」と、他の子供たちが見上げる中を鉄塔をよじ登って雀の巣に近づいていったのだった。そこにはたくさんの雀の巣があって、その中の一つに卵を発見し、近くで雛の鳴く声を聞いたときは、もう興奮して恐さなんぞはどこかに消え去ってしまっていたのである。

ところが、その雛を獲ろうと手を伸ばした瞬間、すっと巌のその手は3万3千ボルトの高圧線に吸い取られたのだった。その後のことはよく解からなかったが、下で見ていた仲間の子達の話では、変電所の建物の屋上にバ~ンと弾き飛ばされたという。頭を打ち血を流しながらも、気丈にも「おかあちゃん、堪忍やで~」と立ち上がって泣き叫んでいたという。本人はそのようなことは覚えておらず、気づいたときはどこか病院の玄関先に筵(むしろ)に包まれて転がされていたという。

後から聞いた話では、変電所の異常に気づいた近鉄の職員の方が、電車を止め応急処置をして病院へ運んでくれたのだという。しかし、病院ではこの子はもう助からないという判断で、そのまま放置されそうになったのを、両親の必死の懇請でとにかく処置をしてくれたのだという。流れた電流が心臓を避けてくれたことが、結果として巌の生命を救ったのだった。しかし、両腕から足の先に向かって流れた電流は、左手の二の腕の半分を残して、両腕を切断するのを余儀なくしたのだった。足の方は歩くに支障はない状態だったのは幸いだったが、指の何本かは吹き飛んでなくなってしまったのだった。

一命は取り止めたものの巌少年はもう学校へも行くことができず、家に籠もって母の傍で、何もかも母に委ね縋って暮らすという世界しか無くなってしまったのだった。放浪癖のあった父は、期待の息子が事故で不具の身となってしまったのに自棄(やけ)を起こしたのか、家に寄り付かなくなってしまったという。姉の家に身を寄せた母は時々疼く身体の痛みに「痛いよう」と小さな声を上げる我が子を抱きしめながら、何とか悲しみを遠ざけようと必死に生きようとしたのだった。

ところが、巌が命とも頼むその母が、ある時突然倒れて帰らぬ人となってしまったのである。その時母は巌に向かって次のように語りかけていたという。「巌ちゃん、世の中にはね、あなたよりももっともっと可哀想な人が幾らでもいるんだよ。あなたは強い人になって、そのような人たちを助けてやらなければならないんだよ、…」と。これはいわば巌にとって母の遺言だった。(彼はこの遺言を生涯大切に守った)話をしている間にことばが途切れ、母の体が次第に傾き、重く巌にのしかかってきた。「お母さん、重いよう、…」といって身をよじった時、崩れるように母は畳に身を折ったのだった。死因は栄養失調だった。

今の時代では栄養失調などと聞いても、何のことか判らぬ人が殆どだと思うけど、戦後間もないあの頃は、食うや食わずの暮らしの中で、栄養失調で倒れた人は数知れない。栄養失調というのは病などではない。生命を支えるに必要な食物を摂ることが出来ないための哀しい最後なのである。餓死ではないけど、その本質は同じようなものかも知れない。人間は気力だけでは生きてゆくことは出来ないのである。昨日まで、たった今まで元気そうに話をしていた人が、突然ぱったりと命の限界を割ってしまう現象が栄養失調と呼ばれるものなのだ。巌の母は、自分の食事を割いても、我が子のためにひもじい思いをさせまいと懸命に努めたのだと思う。ギリギリの生活は、ついにその限界を超えて、その命を帰らぬ世界へと運んでしまったのだった。巌が事故に遭ってからわずか1年足らずの間の出来事だった。

これから先、巌の本当の苦悩・苦闘が始まった。碌に家に寄り付かない父には殆ど何も期待できない状況だった。伯母の家の居候が小学生の手の無い甥という状況の中では、もはや甘える人などどこにもおらず、自らできることをやらなければ生きてゆくことも出来ないのである。今までは母が全てを支えてくれたけど、ご飯を食べることから着物を着ること、トイレに行くことなどなど、全て自分で何とかしなければならないのである。

ここから先の安達巌の生き様は強烈である。彼は困難の一つひとつを懸命な努力と智恵を用いて乗り越えていったのである。それらの全てを書くことは私には出来ない。両手が無いということが、普段の暮らしの中でどれほど大変な難事を抱え込むか、あなたは正しく想像出来るだろうか。誰の人手も借りず、あなたは両手を縛ったままで、食事をすることが出来るだろうか。トイレの際の下着の上げ下げが出来るだろうか。包丁を使って調理をすることが出来るだろうか。更には針に糸を通してズボンにホックをつけることが出来るだろうか。安達巌はこれらの全てを誰の手も借りず実現できるのである。二の腕の半分が残ったというのが相当の助けとなっていると聞いたけど、健常者の人たちには想像も出来ない人間の能力を彼は引き出し使っていたのだった。

彼の伝記を書こうとして、私は同じことを体験しようと手を使わずにズボンを履くことにチャレンジしてみたが、出来なかった。ズボンが足の方に近寄ってくれるわけは無いので、我が身の方をズボンに近づけて通すしかないのだが、足を通しても立ち上がれば直ぐに下に落ちてしまう。ベルトで止めるなどという作業は至難というより不可能としか思えない。しかし、安達巌はそれらのことを健常者と変わらず、何事もないように対処しているのであった。そこに至るまでの話を初めて聞いたときには、感動の戦慄が背中を走った。   (つづく)

    

安達 巌 遺作展 (昌子夫人の企画運営による)

 

「安達巌 生命(いのち)のメッセージ展」

 

期間:10月22日()~28日()

場所:近鉄上本町店6階 美術画廊(天王寺区上本町6--55

後援:読売新聞大阪本社/社会福祉法人読売光と愛の事業団大阪支

   

 

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生命の画家・安達巌(1)

2009-10-20 05:15:02 | 宵宵妄話

今週の水曜日、10月22日から28日までの1週間、大阪上本町の近鉄デパートで、安達巌の遺作展が開催される。このことに関して、今日からしばらく安達巌のことについて紹介したい。そして大阪近郊にお住いの方には、是非とも足をお運び頂き、彼の作品を見て頂きたいと願っている。

世に「友」という知り合いはたくさんいる。そして友にも様々な係わり合いがある。その中で「畏友(いゆう)」と呼ぶべき友は少ない。安達巌は、私にとっての畏友である。畏友というのは、辞書を引けば「尊敬する友」などと簡単に書かれているけど、「畏」という言葉の中には、もっと深い意味が籠められていると思う。「畏」というのは、元々は「恐れる」という意味である。観音経の教えの真髄の一つに「施無畏」というのがあるが、これは恐れおののく心をなくしてくれるという観音菩薩の布施を意味している。何ものをも恐れず自信を持ってことにあたる気持ちを施してくださるということであろうか。「畏」というのは、人の心の中にある様々な迷い、ためらい、恐怖といった弱い部分を指しているのだと思うが、畏友という場合はそれらの弱い部分を浄化して残る敬虔(けいけん)な気持ちを意味しているのではないかと、私は思っている。

安達巌は、私にとってたった一人の畏友だった。私よりも一歳年上だった彼の人生は、私なんぞが決して覗くことも触ることもできない、想像を絶するものだった。およそ人が生きるために必要な生命の力の全てを使い尽くしたといって良いほど、壮絶な生き様だった。その根源に戦争があり、終戦後の貧困があり、死と直面した凄惨な感電事故があり、最愛の母との死別があり、少年時代の絶望と彷徨(さまよ)いがあり、そして絵画との出会いがあり、……と、万難と苦悩に苛(さいな)まれた若者に至る人生の時間があった。

それらを乗り越え、たゆまぬ努力・精進によって、両手を失いながらも世界に冠たる画家となったのである。安達巌とはそういう人物である。或るきっかけから親しくお付き合いをさせて頂くことが出来た自分は幸せ者だと思う。酒を酌み交わしながらも、彼の言葉の端はしに宿っている輝きと重さは、私の心を揺り動かし、畏敬の念を深めたのだった。畏友とはそのような友をいうのだと思う。

2006年9月5日、早過ぎる他界だった。丁度私が「くるま旅くらし心得帖」を発刊した頃、その本が届く少し前に病に倒れて入院したのだった。病床の脇で、意識のはっきりしない状態の彼に向かって、私の本を奥さんが懸命に読んでくださったというのを、後になってお聞きし、奥さんに感謝しながらも、もう少し早く作りあげていたならと、残念の思いに捉われたのを思い出す。その時から1ヵ月後帰らぬ人となったのだった。

その安達巌が亡くなってはや3年余が過ぎた。この間の昌子夫人の活躍は凄まじかった。(私は未亡人ということばが嫌いなので、あくまでも夫人と呼ばせて頂きたい)生前夫が果たせなかった夢を何としても実現させようと、懸命の努力を続けて、この度念願の遺作展の開催にこぎつけられたのである。これに合わせて画集も出版されるという、この難事業を自らの手で運んで来られたのだった。勿論多くの関係者の方たちのご協力、ご尽力があってのことではあるけど、昌子夫人の思いの強さがなかったなら、とても夫の夢の実現は難しかったのではないかと思う。

安達巌は、生前個展を一度も開いていない。又画集すらも一冊も出していない。開けなかった、出せなかったのではない。自分の名前を上げる前に、世の中人のために自分の絵を役立たせようという、無欲の思いがそれらをさせなかったのである。彼が無償で学校などに贈った絵は多い。贈られた百号の絵は、それを見る子供たちにたくさんの感動を与え、勇気をもたらし続けているに違いないと思う。彼自身は障害者であることに、さほどハンディを感じていないことを、さらりと話するのだけど、彼の絵を見た人は、その作者に両手がないことを知って、感動を倍加させるのである。それは人間の可能性を実証していることに気づかされるからなのだと思う。そのような離散した絵画を一堂に集めて披瀝するというのは至難の業というものであろう。描き溜めておいた絵がたくさん残っていたわけでもなく、昌子夫人のご苦労は大変なものだったと思う。心から賞讃とお祝いを申し上げたいと思う。

さて、その安達巌の生い立ちや人となりを紹介しても良いのではないかと思っている。というよりも紹介しなければならない責任のようなものを私は感じている。実は私は彼の伝記を書かせて欲しいと願って、彼から様々な資料等をお預かりしたことがあるのだが、あまりにも長い時間温めすぎて、彼からもういいからと断りを言われた者でもあるのだ。彼の凄惨を極めた生い立ちを書く勇気と力が自分にはないことに気づいて、それをどうクリアーすれば良いかと考えている内に10年近い時間が経ってしまったのだった。だから、彼の生い立ち等を紹介する責任が自分にはあると思っている。明日からその責任を少しでも果たすために、彼のことについて述べることにしたい。(つづく)

 

安達 巌 遺作展 (昌子夫人の企画運営による)

「安達巌 生命(いのち)のメッセージ展」

期間:10月22日()~28日()

場所:近鉄上本町店6階 美術画廊(天王寺区上本町6--55

後援:読売新聞大阪本社/社会福祉法人読売光と愛の事業団大阪支

   

 

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田舎暮らしとくるま旅くらし

2009-10-19 05:17:09 | くるま旅くらしの話

先日宝島社が発行している「田舎暮らしの本」という月刊誌の取材を受けた。定年後の生き方の様々なスタイルの中で、キャンピングカーを使っての田舎旅というのもその一つという捉え方で、その例としてどのような車で、どのような旅をし、その費用は如何ほどかかるのかといったことなどを問われたのだった。

田舎暮らしは、私にとっても定年後の暮らしの選択肢の一つだった。元々田舎育ちの私にとっては、田舎暮らしというのは、その昔に似た暮らしを、自分が主役になって行なうというだけの話で、さほど興奮や感動も覚えないごく当たり前の暮らしなのだと考えていたのだが、相棒の方は都会での暮らしが主体の育ちだったので、山奥に引っ込んで狸や狐と一緒の生活には耐えられそうもないということで、断念せざるを得なかったのである。

キャンピングカーを使っての田舎旅というのは、勿論田舎暮らしなどではない。くるま旅は都会を訪ねるよりも田舎を訪ねることの方が遙かに多いと思う。しかし訪ねるのはそれなりの魅力を感ずる場所であって、何もない場合はその価値に気づかない限りは、通過してしまうことになる。だから、くるま旅を田舎暮らしと結びつけるのには無理があると思う。

田舎暮らしにもくるま旅にも共通していることといえば、定年後の人生を自分の思い通りに楽しみ、あの世に行くまでの時間を充実させて過し、納得の中に終らせたいという考えではないかと思う。そしてその大きな違いは、田舎暮らしは腰を据えて新しい環境である地元に溶け込むというスタイルであるのに対し、くるま旅の方は自在に動き回って自分の好きな場所を訪ねるというものであり、静と動、農耕民族と牧畜・狩猟民族との如き差があるということであろうか。

どちらを選ぶかは、その人の自由であり、どちらが優れているとか、劣っているとかの比較はナンセンスであろう。好きな方を選べば良いし、そのどちらをも選ばなくても一向に差し支えはないのである。大切なのは、あの世からお迎えが来るときまで、活き活きとした生き方を続けられるかということではないか。生・病・老・死はお釈迦様の教えの中にある4つの不可避的な出来事であり、我々の世代(=高齢化世代)では、最後の「死」という現実を残して、大なり小なりにもう3つの出来事を体験・実感している。残りの一つに直面するまでの間、病や老を避けながら生を持続できる術(すべ)を何に求めるかということが、田舎暮らしやくるま旅の意義ということになるのだと思っている。

私は結果的にくるま旅を選んだ。自分としては今、それは正解だったと思っている。くるま旅には人を元気づける大きな力が秘められている。そのことについては、くるま旅によらず田舎暮らしにも、或いは定年後に始めた趣味などの中に自分の才能を見出し、残りの人生を生き抜く道を見つけた人にも、皆その人を元気づける大きな力が備わっているに違いない。けれどもくるま旅には、過度な思い入れも労苦も無用の、自然体の楽しみと喜びが無限に詰まっている。人は旅に出るだけで、新しい発見、新鮮な感動に出会うことが出来るのである。

例えば、旅に出て、朝起きて窓の外を見れば、そこには見知らぬ世界が広がっている。その季節に彩られた昨日とは違った世界がそこにあるのだ。人はそれだけで旅を実感でき、大きな刺激を受けるのである。長いこと仕事に打ち込み、或いは見慣れすぎた環境の中での暮らしぶりの中では、なかなか気づかなかった新しい世界を見出して、人は知らず心を打たれて、生きていることを実感するのである。それが旅というものの本質なのではないか。

この新しい世界の気づきが、人を元気にし、生きる力を強めるのだと思う。そして、この新しい世界は単に風景だけではなく、様々なものとの出会いに満ちている。その中で最も心を揺さぶられるのは、やはりお互いに心を共鳴し合える新たな人との巡り会いであろう。旅に出なければ多くの場合、何か特別のことがない限りは、人と出会うチャンスは限られており、新たな知人を獲得することは難しく、今までの知人は次第に減ってゆくことになるのではないか。

しかし、旅に出れば、特に求めなくても新たな知人は増えてゆく。その出会いは利害得失とは無関係のものであり、新たに得た知己は人生の宝物となるのである。人は人と知り合うことによって、自分の存在を確認できるのだと思う。定年後は、今までの仕事がらみの知己は減る一方であろう。勿論新たな友も少しは増えるかも知れないが、その分野も関係も限定されるに違いない。旅での新たな知己との巡り会いは無限であり、それは残された時間の中で宝物を拾い歩くようなものである。

さて、取材の方では、より現実的にくるま旅の田舎とのかかわりの現実や車や暮らしの経費のことなどを訊かれた。先ず費用からゆけば、旅車はかなり高価な投資であり、決断の必要な事項だと思う。どのような旅をするかにより選ぶべき車は異なってくるのだと思うが、それは自分で好きなように決めれば良い。大切なのは、車を買う前に、何でもいいから車を使って数日間の旅を経験してみることだと思う。そうすればどのような車が必要かが見えてくるはずだ。

私の場合は、バンコンからキャブコンに乗り換えて7年が経っている。後付の装備を入れると700万円くらいかかっているけど、完全に元は取っていると思っている。年に4ヶ月ほどの旅をしているけど、同じ行程の旅を他の交通手段と宿泊施設を使うと仮定すれば、どう計算しても3年ほどで700万は回収できるコストだと思う。勿論旅をしない場合と比べれば相当な費用には違いない。しかし、旅で得られる人生の喜びはその投資額を遙かに超えていると私は思っている。それは家内も同感だと思う。

次に暮らしの費用だが、これは食費などは在宅時と基本的には同じである。旅に出たからといってご馳走ばかり食べているようなことはない。そのようなことをしたら、健康を損ねることは明白だ。地元の新鮮な食材を安く手に入れて食べれば、コストは在宅より少ないかも知れない。最大の費用は移動に要する交通費である。ガソリン、フェリーなどの通行費は不可欠であり、これは移動量を増やせば増やすほど膨らむコストである。従って気に入った場所に留まってそこで暮らすというスタイルを選べば、旅のコストはかなり減らすことが出来るのである。夏の北海道の車旅では、そのようなスタイルがだんだん増えているように思う。今年の夏は家内と二人の北海道50日の旅だったが、約6,500kmを走って、1日の平均費用が約6千円だった。因みに食費は2千2百円、交通費は2千4百円だった。動き回り過ぎた嫌いがある。

最後に田舎というか、地元の人たちとどのような係わり合いを持った旅のスタイルがあるかということだが、これは人様々だ。私の場合は未だ手探り中といったところで、事例として話できるようなものはない。仲間の人たちの中では、一番多いのが農家の方と知り合ってのボランティア活動としての農作業支援ではないかと思う。りんごやサクランボなど、人手が欲しい時期に手助けをするというものである。何しろ家を持参しているので、庭先に車を停め、電源を借り水とトイレを用意して頂ければ、余計な手間や心配は無用なのである。報酬など期待しなくても働くだけで嬉しいのである。この他パークゴルフを通して地元との交流などの事例もある。

私がくるま旅に関して今一番いいたいことは、その環境の整備に国や公共団体がもっと力を入れて欲しいということである。無料などではなく、有料で良いから安心してくるま旅が出来る施設を用意して欲しい。道の駅の一角で良いから、電源と水を安心して使える施設を設けて欲しい。それは定年後の人のためだけではなく、現役の車を使って仕事をしている人にも共通のことではないか。トラックだけが車を使った仕事ではない。車での宿泊のニーズはかなり高いように思う。

田舎暮らしとはあまり関係の無い、くるま旅の主張となってしまいそうである。定年後の生き方の選択肢の一つとして、田舎暮らしの他にも、くるま旅くらしがあるのを取り上げて頂けて嬉しい。「田舎暮らしの本」には、12月号に掲載されるとのこと。ちょっぴり紹介させて頂いた。

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浅草へ行く

2009-10-17 08:04:44 | くるま旅くらしの話

昨日(16日)、久しぶりに浅草へ行った。Tさんご夫妻と一緒に束の間の東京見物を楽しむことにした。東京には様々な顔があるけど、昔に繋がる表情を一番の売りにしている場所といえば、やっぱり浅草ではないかと思う。金龍山浅草寺を核とする浅草は、江戸時代のその昔から庶民の町、下町として発展してきた所である。日本のお寺の中で、最も集客力のあるお寺がどこなのか判らないけど、浅草寺が3本の指に入るのは間違いないのではないか。

つくばエクスプレス(TX)が開通して、守谷から浅草はグッと近くなった。快速電車なら20分そこそこで行くことができるのである。TXは新しく敷設された鉄道であり、営業を開始してから未だ5年も経っていない。電車の車両や性能が新しいだけでなく、レールの敷設技術等も最新のものが使われているようで、安全面も乗り心地も優れているのを実感できる。我が国の鉄道技術の最先端といえば、何と言っても新幹線だと思うが、TXもそれらの恩恵をかなり受けているのではないかと思う。それは電車に乗ってみれば分かることで、JRの常磐線の電車などに比べると、圧倒的に乗り心地が違うのである。振動も揺れも少なく、緩急のギャップも少ない。守谷市にはTXの車両基地があり、その所為なのか守谷駅までは運行本数が多く、終点のつくばへ行く倍くらいの数になっている。今のところこれが市の発展に大きく寄与しているようで、人口が増え続け今年の5月には6万人を突破している。

浅草は終点の秋葉原の二つ手前の停車駅であり、TXの改札口を出てしばらく地下道を辿って地上に出ると、そこは浅草の大衆娯楽街の中心エリアである六区である。浅草寺に向かって伝法院(でんぼういん)通りを歩き出すと、直ぐ右手に浅草演芸ホールがあり、芸人さんの幟旗などが風にひらめいている。伝法院とは、浅草寺の本坊のことであり、雷門から仲見世を通っての参詣コースとは違うことになるけど、混雑が少ない分だけ参詣は楽だということになる。尤も、その混雑を楽しむために来る人も多いわけだから、こちらからの参詣者は、先ずはお寺さんで手を合わせ終えてから混雑に参加すれば良い。

30分前の守谷の田舎風景とは大分に趣きの違う世界への突入の感があるが、今の時代はそのようなことに驚いていては、取り残されて行ってしまう。猛烈なスピードで経過する時間を、一々確認しながら味わおうなんて到底不可能であり、自分が気に入った所だけを適当に楽しめば、それを足して行って自分の人生が出来上がると考えるべきなのだろう。ふと、そのようなことを考えたりする。たまゆらの快楽の積み上げが人生の航跡であり、その中には残骸化し、風化した快楽が、まるで毒のように働いて、その終わりに近づく時間を刻んでいる。似非詩人は、現実とバーチャル(=仮想)の時間差を、そのように詠うのかも知れない。我が家から浅草の賑わいまでの時間の経過は、人工衛星を運ぶロケットよりも遙かに早いスピードのような気がする。

久しぶりの浅草訪問に、田舎者は少し戸惑い、たじろぐ感を否めない。Tさんご夫妻と家内をいれての4人、伝法院通りから一本奥に入った、その昔の奥山辺りへの道を、右手に五重塔を見ながら歩いてゆくと、前方に見えるはずの浅草寺の大屋根が、あらっ、無い。巨大なシートに包まれた状態になっているではないか。近づいてみると、2年をかけての大修理が始まったばかりだという。参拝の賽銭箱は今まで通りだったけど、大屋根の景色が失われて、何だかガッカリした。鳩たちの悪さの所為なのだろうか。それにしてもあんなにたくさんいた鳩たちは、今はどこへ行ってしまったのだろうか。

Tさんのメインの目的は、合羽橋の道具街を覗くこととお聞きしているので、参詣の後はその方への道を歩く。その前に、近くにある江戸下町伝統工芸館を見学する。ここには江戸の匠の工芸技術を受け継ぐ現代の匠の皆さんの作品が展示されていた、下町の工芸品ということから、その昔でいえば、飾り職人や建具師などの技術を活かした作品の数々があった。Tさんの木工クラフトとは少し趣が違っているけど、共通性は多いので、Tさんにとってはかなり興味関心を覚えるものが多かったようだった。

その後は合羽橋道具街へ。ここは日本有数の生活用具の専門販売店街とでも呼ぶのだろうか、それぞれの専門領域を担当するたくさんの店が、暮らしに必要なあらゆる領域の道具・小道具を揃えて、軒を並べている。製造と販売を一緒に行なっている店も多い。日本の暮らしの実際を知ろうと思ったら、ここを覗けばかなりの情報を得ることが出来るのではないか。初めて日本を訪れた外国人でも、1ヶ月も籠もって大小様々な生活用具の使途を徹底的に尋ね、調べてみれば、日本人の暮らしぶりが見えてくるはずである。無い物はないと言って良いほど、様々な生活用品が揃って売られている。

中老(中老というのは、辞書によれば50代を言うらしいけど、現代では一世代はランクアップして良いと思う)の4人は、時の経つのも忘れて、それから後しばらく様々な店の一つひとつを覗き回ったのだった。中には見たこともないアイデアグッズもあり、飽きることは無い。本当は少し飽きるくらいが身体には良いのだと思うけど、それを感じさせないほど各店はそれぞれの魅力を備えているのである。Tさんご夫妻も熱心に各店をチエックされていたようである。

私としては、実はマイ包丁が欲しいのだ。これはもうかなり前からの願望なのである。魚を捌くための出刃と刺身包丁が欲しい。普通の調理用のものは、何年か前に燕三条を旅で訪れた際にゲットしているのだが、魚用のものは、中途半端なものしか持っていない。包丁というのは、買えそうで買えないレベルの値段である。買えばいっぺんに小遣いが消えてしまうし、買わなければ魚捌きの腕を挙げることが出来ない。真に困った価格帯である。今回も店の人からいろいろ説明を聞き、何としても小遣いを溜めて買いに来るからなどと言って、店を後にしたのだった。小遣いが包丁に振り向けられる日がいつ来るのか、今のところその見通しは全く立ちそうもない。

4人それぞれが多少の買い物を楽しみながら、合羽橋の道具街を後にして、空いてきたお腹を満たすべく、食の浅草名物の一つである天ぷらの店に入る。駒形のどぜうも良いかなと思ったけど、どぜう(=泥鰌)の料理には癖があるので、今回は避けることとなった。どぜう屋にはちょっぴり残っている江戸の趣が、天ぷら屋には無いのが残念だったけど致し方なし。4人とも少し疲れて眠気を覚え出したようだった。(もしかしたら自分だけだったのかも)

Tさんは今日出発される予定なので、あまり遅く戻って支障が出てはいけないと考え、わずかな東京見物で申しわけないと思いつつも、その後はTX乗り場に向かい、帰途に就いたのだった。リタイア後は、都心に出向くことはめっきり少なくなって、年に数回くらいしかない。交通の利便性は益々良くなったのだが、それを使うチャンスは益々少なくなってゆく。くるま旅をするようになってからは、大都会を訪ねるチャンスは少なくなるというよりも避けるという気持ちが拡大しているようになってきているようだ。しかし、時にはこうして親しい友と一緒に大都会の喧騒を訪ねるのも良いなと思ったのだった。

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木のぬくもり

2009-10-16 06:42:15 | くるま旅くらしの話

待望のTさんご夫妻が来訪された。昨日は霞ヶ浦湖畔にある玉造の道の駅に泊まられたとのこと。昨夜はこのエリアでは雷鳴が轟き、かなり激しい雨が降って、又ダウンバーストなどが発生したりはしないかと心配したが、玉造町(現在は行方市)辺りは雨なども大したことは無かったらしく安心した。今朝は秋晴れの好い天気になって、涼しさにも寒さがかなり交ざるようになった。

カーナビというのは、想像外のコースをガイドするらしく、Tさんの辿った我が家に至るまでの説明を伺うと、私なんぞが知らない珍しい(?)場所を通って来られたらしい。ナビなし主義の私にとっては、ちょっぴり面白さを感じることだった。結果的に目的地に到着できれば、ナビの役割を果たすことになるのだから、いちゃもんをつけるような話ではないと思う。むしろ未知の道をガイドされる楽しみの様なものがあって、それも好いなと思ったのだった。

Tさんは私どもが北海道でお会いした後、約1ヶ月半を主に木工製作三昧の暮らしで過され、後から来られた奥さんも1ヶ月ほどをご主人と一緒に手芸などをしながら過されて、先週に北海道を離れてからは、東北をゆっくり南下しながら我が家にお越しになったという次第。遙か前に先着している我々からは、真に羨ましい旅の行程である。お二人ともお疲れの様子も無く、お元気で何よりのことである。

さあ、それから後は推して知るべし。歓談、歓談、大歓談!が続いたのだった。勿論ちょっとした息継ぎ休憩はあったけど、それらのことを書いたりするのは止めて、ご主人が約2ヶ月を掛けて作られた木工クラフトの作品の中から3点を紹介したい。これらについては、本当は実物を見て頂けば何も言う必要が何のだけど、写真と下手な感想だけで我慢して頂くしかない。

<ジムニー> 

  

スズキジムニーといえば、軽自動車のオフロードカーの草分け的存在であり、まだ懐の寒かった若者時代(今では枯れて尚一層寒くなっているけど)の憧れの一つだったように思う。車のことは良く解からないけど、その程度のことは知ってはいるつもり。

さて、この作品はまだ未完成とのことだが、見た目よりも工夫は細やかで、全ての部品が現物と同じように動くように作られている。ドアもボンネットも、室内の運転席や助手席のシートさえもリクライニング式になって動かせるのである。動かない部品を取り付けるのは簡単だけど、可動部分の機能をそのまま取り入れるのは、かなりの技術と技能が求められると思う。見れば見るほど、触れば触るほど感嘆せずにはいられない。そして温かい。

<ショベルカー>

  

大型の土木作業用車両である。これも本物の核となる機能を大事に再現できるように作られている。ショベルや車輪が動くのは勿論だけど、サイドミラーも動くし、本体の車軸だって左右に動くように作られているのである。

<薪ストーブ>

  

この作品は小型である。しかし、良く見ると細密な加工がされているのがわかる。ストーブの蓋は勿論実物と同じように取り外しが出来るし、薪の投入口の取っ手さえも実物と同じようにちゃんと動くのである。一般に作品が小さくなればなるほど、加工の技術は難しさを加えるといわれており、この作品は見事にその技術を証明していると思う。そして、しゃれではないけど、文字通り温かい。

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友あり遠方より来る

2009-10-15 05:47:51 | くるま旅くらしの話

今日(10/15)は嬉しい日である。「友あり、遠方より来る、亦(また)楽しからずや」の日なのだ。これ、何の文句だったか出典を忘れてしまった。意味は、親しき友人がいるのだが、遠く離れて住むその友人がやってくるのだ! こんな楽しいことがあるのだろうか!もう、浮き浮きしてたまらない!というような意味だと思う。私は今、その古事の箴言(しんげん)と全く同じ心境である。

大阪美原区在住のTさんご夫妻が、北海道のくるま旅くらしを終えて、帰途の途中に拙宅に寄って下さるという。いつもだと首都圏の交通事情等を勘案して、フェリーや日本海側を通るコースを選択されるので、寄って頂けなかったのだが、今年は川越の祭りの見物を予定されており、ようやく念願が叶うこととなった。嬉しい。

関西方面へ出向いたときには、いつもといって良いほどTさん宅をお邪魔しており、その都度大変お世話になっている。この頃は、関西への旅の楽しみの一つが、Tさん宅に立ち寄らせて頂くことになってしまったようだ。というのも、ご主人の木工クラフトの作品と奥さんの手芸工作の作品を見せて頂きながら、お互いの旅の思い出などのあれこれを語り合うことが無上に楽しく、嬉しいのである。

Tさんご夫妻と知り合ったのも、数年前の北海道の旅先である。旅先での人との出会いはたくさんあるけど、それが更に発展してお互いの住いを訪ね合うところまで行くというのは少ない。知り合いのどなたとでもそのようなお付き合いが出来れば、これはありがたいというべきだと思うが、現実にはなかなかそうはならないものである。無理にそうなろうとしても、何かが足りない場合は、実現が難しいのである。それが何なのかは良く判らないけど、お互いの心の琴線に触れるものがないと、このようなお付き合いは出来るものではない。

Tさんは私とは全く違う世界で人生を過してきた人である。鉄工所経営という物づくりの世界で苦労されて来ておられ、私のような口先だけ(?)の世界でサラリーマンをやって来た者とは、その暮らしの中身が異質だった。同じなのは、くるま旅の中に人生の本当の楽しみを見出そうと、還暦を過ぎた頃から旅くらしを本格化させたということだろうか。

普通は似たような経歴、経験を持つ者同士の方がお互いを理解しやすく、仲良くなり易いのかも知れない。しかし全く違うが故にお互いを尊敬できるということも、世の中にはあるようで、人間関係というのは不思議である。私は勿論、Tさんのものづくりに対する魔法の頭脳と手(技術・技能)に心底敬服している。Tさんは今、木工クラフトの世界でその魔法の実現に取り組んでおられるのである。

木工クラフトや手芸といえば、家の工房や部屋に籠もって一心不乱に創造の世界に時を忘れるというイメージがあり、旅とは無関係のように思われるかも知れない。でもTさんご夫妻の場合は、違うのである。旅が重要なのだ。木工や手芸の世界を、くるま旅をすることによって育てておられるのである。旅の中でその創作のネタや材料を集める楽しみ、それを旅の中でつくる楽しみ、更には家に持ち帰ってじっくりと創造する楽しみ、そして作ったものを通して近隣や子どもたちなどとの交流を楽しむという、楽しみの拡大循環を図っておられるのである。旅を通して、ここまで人生を楽しんでいるご夫妻を、私は他には知らない。

Tさんは昨年北海道の旅先の体験工房に1ヶ月以上籠もって、SL模型の大作に取り組まれた。その作品は、実に精緻を極めた見事な出来栄えだった。木工クラフトを始めてからまだ経験の浅い人の作品とはとても思えない。長い間金属加工に取り組まれていたという物づくりの精神が活かされているのは間違いないと思うけど、金属とは異質の温かさのようなものが木材にはあり、Tさんはそれを引き出そうとされているのが良く解る。SL模型の部品を作るにあたっても、どの木材で何を作るかに工夫が籠められており、材質や木目などに相当に気を使っておられるのが判るのである。いわば木と対話しながら、材料と対話しながら製作に取り組まれているのだ。

   

Tさん製作のSL模型。時には、実物を見学に行ったりされて、図面も実測に基づいいるほどの熱意をこめて作られている。(10.16.2008 Tさん宅にて)

   

奥さんの手芸作品の数々。この他にも古布のリメイク作品や布地草履の製作など、広範囲の手芸工作に励んでおられる。(10.16.2008 Tさん宅にて)

今年は旅の途中で、その時は単身だったご主人に会うことができ、持参された幾つかの作品を見せて頂いたのだが、益々腕を上げられ、作品に温かさが加わっただけではなく、作品そのものが静から動へと変化していることに驚かされた。ただの置物ではなく、人が力を加えれば、それに反応して動くという作品に変化していたのだった。お会いしたのは8月半ば頃だったから、あれから1ヶ月以上かけて幾つかの新しい作品が生まれているに違いない。

今日はとにかく楽しみである。友あり遠方より来る。亦楽しからずや。である。

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茨城空港の愚

2009-10-14 05:17:56 | 宵宵妄話

政治のことに口出しするのはあまり好きではないのだが、民主党が政権を担うようになって、補正予算の見直し等に絡めて様々な議論というか騒ぎが取り沙汰されている。その中で一番話題が多いのが国交省関係であろう。八ッ場ダムに始まって、只今はハブ空港の問題で物議をかもしている。これらの物議に関して、その正否、是非、要不要等をどう判断するかは、おかれた立場によって大いに異論のあるところであろう。

私の立場は、第三者である。これらの事業に関しては何の利得関係も無く、強いて言えばわずか(?)だけど、未だに納め続けている税金の使い道に関して、物申すという程度のことであろう。その立場から言えば、対象となっている事業計画の本質が何なのか、それを見極めることから物議の中身の是々非々を判断することが肝要と思っている。その判断基準から言えば、担当大臣の判断は概ね正しい。

大義名分と事業計画の実態とが最終的に一致していたといえるのは、過去の話であって、大型予算を要する事業に関しては、ダムも道路もその殆どが惰性の部分、すなわち事業費を消化するために事業の展開を計ってきたのが多いのではないか。莫大な予算の費消は、それに絡む利権の世界を温存増殖させ、抜きさしならぬ悪循環を繰り返しているのは明らかである。国のため、国民のためなどといいながら、己の利権の追及に走ってきた政治屋(政治家などと呼べる代物ではない)の何と多いことか。道路やダムは確かに国の発展に貢献しているには違いないが、それは当たり前のことであって、使った金にも使おうとしている金にも、想像を超えるようなムダが、必要悪という名のインチキ正当性を主張しながら浸み込んでいたことは明らかではないか。自ら立証した訳では無いけど、本気になって調べれば、週刊誌ならずとも話題に不足することは無い様に思う。

政治家というのは、一国の(今では全世界に繋がるという視点も不可欠)将来を、現時点でどうするかという慎重な判断を基にその案件を決断しなければならない。その中には私利私欲の部分など入る余地が無い筈だし、入れてはならないものだと思う。利権のことはどうしてくれるだ、などというような話が持ち込まれても、決してブレてはならないのだと思う。その意味において前原さんという方は信念を貫いて居られると思うし、これから先も貫いて欲しい。利権の臭いのする意見に妥協した瞬間に、政治家は政治屋に転落するのである。

八ッ場ダムもハブ空港も、その見直しや中止の話に、歯をむき出して騒ぎ立てる人が、過去から現在まで全く利権に関係なく惨めな扱いばかりを受けていたというなら、中止反対を叫ぶ資格を有していると思う。しかし今まで促進のために先頭に立ち、或いはその近くで旗を振ってきた人には、今までの利得を精算してから反対論を組み立てるべきではないか。ハブ空港に関しては、ダムとは違う意味があるように思うが、限られた金を使うには優先順位が不可欠であり、国際間の競争という前提では、日本国に二つのハブ空港を一度に設けるのは、やはり慎重を期す必要があるのではないか。いきなりハブ空港の話を持ち出すというやり方には問題があるとしても、その内容に関しての前原大臣の見解は正鵠を射ていると思う。

ところで、茨城県に生まれ、茨城県を終の棲家として選んだ者として、これらの話題に関して実に情けないというか、見識の無い行政の取り組みとして、茨城空港のことを取り上げなければならないと思っている。空港整備の問題に関して、造ったのは良いけど、経営が成り立たないという問題が頻発しているようである。それらの中で現在最後の98番目の空港として開港間近な空港が茨城県にあり、しばらくの間マスコミなどのまな板に載せられるのは必定であろう。

来年3月茨城空港なるものが開港する。場所は小美玉市の航空自衛隊百里基地である。つまり軍用と兼務の民間空港ということだ。小美玉市というのは、平成の大合併で小川町、美野里町、玉里村が一緒になって出来た市で、その新名称は各町村の頭文字を単純に寄せ集めて作ったという、何の感興も覚えない無味乾燥の名称である。しかし関係者はそれなりに苦心されたのではあろう。平成の合併では、このように足して母数で割るというような名称も結構多い。旅をしていると、そこが昔は何という所だったかを思い出すのに苦労する市町村が幾つも現出している。小美玉市もその一つである。

私はまだ小美玉市に行ったことが無い。旧美野里町は国道6号線が通っているので何度も走ったことがあるけど、その他の町や村には行ったことが無い。自衛隊の百里基地にも行ったことが無く、茨城県に生まれて22年を過し、戻ってきて6年、都合28年を過しているのに、一度もその辺りを通ったことも無い場所である。イメージとしては関東平野の真っ只中にある田園地帯であり、旅の対象にはならないエリアである。何か特別の用件でもない限り、或いは親戚や知人でもない限り訪れるチャンスは無いような場所なのである。

言い換えると、300万人近い茨城県在住者にとって小美玉市は、その90%くらいが普段は意識などしていない平和な田舎なのである。そこに空港が開設されることなど、県民の大半は最近になって気づいたというのが実情ではないか。6年前に戻ってきた私にとっても、空港が出来るという話を聞いて驚きを禁じ得なかったのだった。

空港開設に関して、そのホームページを見てみた。もっともらしい解説があれこれ書かれていたが、どうも信じがたい。はじめに国の金あり、県の出費はわずかで済むなら、おいらの県にも一つ空港というのを造ろうじゃないか、という発想がありありの感じがする。初めに空港が必要という前提で全てのコンセプトや能書きが示されている。どのような調査を行なったのか判らないけど、県民の意識や近隣県の状況調査などはされて無いのではないか。そのようなデータは何も無い。そうであって欲しいと描いた空港のニーズに、ちょっぴり数字などを添えて作文した感じがする。少なくとも真面目さ、真剣さが伝わっては来ない。

来年3月開港というのに、現在乗り入れを予定している航空会社は韓国の1社だけだという。昨日のニュースでは、地元で空港の支援サポーターを募って活動を開始したということだ。地元の方には気の毒だけど、ヨン様を呼んできても、その時だけで終わりであろう。空港の経営は、そのようなチョンのお祭り何んぞだけで、安定的に成り立つものではない。茨城県民の大半が、今頃になって空港の開港に気づき、それがどこにあるのかな、などと場所も碌に判らないような状況では、幾ら県の財政に負担をかけないなどと言っていても、そのようないい加減な話で済むようなことではないと思う。

それにしてもこの責任は誰が取るのか。不可解である。空港が閉鎖されても軍用基地としての機能は変わらないのだから、その点では他の民間専用空港よりはまだマシという考えもあるかも知れない。しかしこのままの状態で開港したとしても、営業が成り立たないのは明白である。全ての事業は顧客があって成り立つのである。空港のニーズは顧客のニーズに一致しなければならないのだ。しかし茨城空港はそれを度外視して造られているようである。その責任は誰が取るのか。不可解のままで良いのだろうか。 

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ソヨゴの秋

2009-10-13 07:20:49 | 宵宵妄話

ソヨゴという木をご存知でしょうか?「風にそよぐ葉」というような表現がありますが、その表現の源となっているのが、この木のようです。風が吹くと小さな音を立てて葉が揺れるさまを表わしていますが、この木はまさにそのような風情にぴったりのところから、ソヨゴと呼ばれるようになったようです。

我が家では、玄関先に実の生る木を1本、そして前庭の隅に実の生らないのが1本植えてあります。マンションのような棲家から出たときには、必ずソヨゴを植えようと思っていました。ソヨゴは我が家のシンボルツリーです。この木は雌雄異株ですので、実が生る方を玄関先に植えました。これは勿論植木屋に頼んで持って来て貰ったものです。地下の土に問題があるのか、葉に汚れが入ってしまって、若葉の時期を過ぎるとだんだんソヨゴのイメージを崩す感じがして困っているのですが、植木屋の人は大丈夫というので、そのままにしています。でも実の方はしっかりついていて、今頃の時期になると次第に色づき始め、秋の深まる頃は赤く染まって、やがてやってくる小鳥たちにタネを運ばせています。

   

玄関先のソヨゴの実が色づきました。まるで葉の色が褪せ出した分を実の方に置き換えている感じがします。あと半月くらいかけて実がもっと赤くなった頃から小鳥たちの来訪が頻繁になり出します。

もう一本のソヨゴは、数年前に富士山麓のキャンプ場へ仲間の人たちと一緒に行った時、近隣を散歩していて、そこいら中にソヨゴが自生しているのに気づき、下を見たら30cmほどの小さな実生の株があるのを見つけ、思わず家に連れて行こうと持ち帰ったのでした。その後なかなか大きくならず、全くソヨゴという感じがしなかったのですが、3年ほど経ってから急に伸び始め、今では3mを超える高さとなりました。スリムですが、葉もたくさんつけて風にそよいでいる姿を見ると嬉しくなってしまいます。こちらは実が生るのかどうか今のところ不明ですが、どちらでも構わないと思っています。

   

こちらの方は同じソヨゴとは思えないほどすっくと伸びて、益々空に近づこうとする勢いです。たった30cmしかなかったなんて、今では想像できません。高すぎて写真は天辺の方しか写せませでした。

柿の実の色づきも秋の到来を教えてくれますが、私はソヨゴの小さな実が教えてくれる秋が一層好きです。同じような赤い実に、北国ではナナカマドがありますが、あの冬を迎えた凛々しい赤も好きです。でもソヨゴの方がナナカマドよりもより優しく空間を温めている雰囲気があるように思います。それは実のつき方の違いによるのかも知れません。何となく頼りなさそうな実のつき方ですが、良く見るとその赤がバランスよく配置されていて、ナナカマドとは違った穏やかな雰囲気を作り出しているように思います。

あと何回この秋の色を楽しめるか判りませんが、やがて故郷の富士山のような大木となるかもしれないもう一本の成長と合わせて、ソヨゴたちのこれからを見守ってゆきたいと思っています。

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九戸の想い出

2009-10-12 02:34:34 | くるま旅くらしの話

考えてみれば、もう大分前から栗の季節である。栗が好物で、楽しみにしているのだが、何しろ高価なので、思いっきり食べた!という実感を味わうのはなかなか難しい。茨城県は全国一の栗の生産高を誇っているけど、地元にいてもその恵みに出会えるのはそう簡単ではない。ピカピカ光っている高品質の栗は値が張るので、いつも買うのは実の小さなものばかりである。しかし、栗の味というのは、実のところは小粒の方がウマイような気がする。負け惜しみではなく、本当にそう思っている。

住んでいる近くのつくば市は栗の名産地の一つでもある。幸いなことに守谷に越して来てからは、毎年栗を納得の行くまで味わっている。このシーズンになると、つくば市の地元のJAの売り場には栗がふんだんに並べられている。その中で一番小粒のものを選んで買い(何しろ値段は1ネットで50粒以上は入っているのが120円とか150円で手に入るのだから、嬉しい)、家に持ち帰って茹でて食べている。

子どもの頃は、郷里の我が家の周辺には、どこの家でも敷地や畑などに何本かの栗の木を植えていたし、近くの山に行けば、柴栗と呼ばれる実の小さな栗の木が幾らでもあり、食べるのが面倒なので殆ど誰も採らないような状態だった。私はその小さいのが好きで、マメに拾って、茹でたものに糸を通して干してカチ栗というのを作ったりしたのを思い出す。当時から栗というのは小さい実の方が美味いのだという刷り込みがなされており、それは今でも変わっていない。

もう今年食べる分は既に腹の中に入ってしまっている感じがするが、昨日TVで栗作りのことが放映されているのを見て、再びつくば市内のJAに買いに行こうかなと思ったのだった。それであれこれ栗のことに思いをめぐらしているうちに、ふと九戸村のことを思い出したのである。

何年か前に岩手県から青森県にかけて点在する「戸()」のつく市町村を巡る、「へのへのの旅」というのを思い立ち、その練習をしたことがある。練習というのは、まだ本番の旅をしていないという気持ちがあるからである。へのへのの旅というのは、一戸町・二戸市・三戸町・五戸町・六戸町・七戸町・八戸市・九戸村・遠野市の九つの市町村を指している。四戸という行政単位は無い。これらの市町村は南部藩が治世に当たる頃なのか、それ以前からなのか、行政の区分単位としてそのように呼ばれたらしい。その地にそれぞれの戸数の家しかなかったということではない。詳しいことはもっとよく調べないと何ともいえないが、あまり資料が無いのが残念である。

九戸村には、へのへのの旅の練習以外でも何度か訪れている。九戸村には不思議な植物が存在している。東北の歴史といえば、太平洋側ではやっぱり南部氏が中心だったと思う。その中で昔の中心地は三戸だったようだが、南部の殿様が盛岡に移転してからは、地元の人以外では三戸の誇りに気づく人は少ないのではないか。また、南部藩の内情にからむ政争として九戸の乱と呼ばれる九戸政實(まさざね)の反乱(という呼び方が正しいかどうかは判らない)が有名だが、6万の豊臣秀次の大軍を向こうに回して5千の軍勢で戦ったその意気というのは、賞讃に値するのではないかと思っている。その九戸政實が戦った城というのは現在の二戸市にあったのであり、九戸村には政實を祀る神社や墓地などがあるばかりである。その昔と現在とではその境界線の引き方が少し違っているのかもしれない。旅をして見ると、歴史のややこしさに戸惑う。

又また脱線してしまった。話を栗に戻そう。九戸村には、枝垂れ栗という変てこりんな栗の木がある。枝垂れという特性を持つ樹木は結構あるけど、栗の木の枝垂れというのは、それまで見たことも聞いたこともなかった。それが九戸村をうろついていた時に、ふとその案内板が目に付いたのである。というのも何だか鳥の巣のように枝を広げた変な木があったので、何だろうと野次馬精神を発揮して、車を停め近づいて見たら、それが栗の木と知って驚いたのだった。そのときはまだ春も浅い時期だったので、葉も若葉を出すにいたっておらず、実に変な感じがしたのである。栗というので、木の下を見たら少しばかり毬(いが)が落ちていたので、やっぱりこれは栗の木なのだと、改めて確認し不思議を実感したのだった。

   

九戸村にあるしだれ栗の木。3年前の春先の写真で、ちょっと見には、とても栗の木だとは思えない。1個だけで良いから、その実を味わってみたいものだ。

枝垂れ栗については、その後調べてみると九戸村だけではなく全国に結構たくさんあるらしく、長野県の辰野町にはしだれ栗森林公園というのがあると聞き、是非一度行ってみたいと思っている。しかし最初に見たときは、世の中には不思議なものがあるものだと、本当に驚いたのだった。あの栗の木には、今年はどのような実がどれくらい生ったのだろうか。栗のことを思いながらその興味は膨らむばかりである。今は、直ぐに飛んでゆけるほどの自由も無く、ただ想像するばかりであり、残念である。

もう一つついでだけど、九戸村には見たこともない松の大木があったのを思い出す。千本松と呼ばれるその松の木は、枝が真っ直ぐに上に伸びているのである。普通松の木といえば、椴(トド)松やエゾ松のような種類はイメージの中には入らず、赤松や黒松のくねり曲がった枝振りをイメージするのではないかと思う。ところがこの松は幹を見ると赤松のようなのだが、枝の方はまさに千本と呼ばれるに相応しいほどビッシリとあるのが全部上に向かって伸びているのである。その姿から別名を箒(ほうき)松とも呼ぶとか。不思議な木である。

   

千本松の勇姿。少しずんぐりむっくりの写真となってしまっているが、実物はもう少しスマートな感じがする。

短い滞在だったので、この2本の木しか印象に残っていないが、九戸村にはその他にも変わった何かが存在しているような気がしてならない。樹木のみならず折爪岳の山麓から中腹あたりには小型の蛍の姫ホタルというのが棲息しているとも聞く。岩手県にはまだまだ神秘的なものが隠れ潜んでいるような気がする。今年の栗の食べ納めのことを考えているうちに、いつの間にか想いは九戸村の不思議へと飛んでしまったのだった。

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