山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

百姓が好き

2009-10-02 03:05:48 | 宵宵妄話

このところ連日といって良いほど畑に行っている。現在市の菜園を2箇所借りており、一つは自転車で家から10分ほどで50㎡の広さ、もう一つはその倍の20分ほどかかる場所でこちらは30㎡である。本当は1箇所で50㎡もあれば充分なのだが、現在借りている50㎡の方が来年の3月末で5年間の借用期間が終ってしまい、その後の借用は抽選となり、再度借りられるかどうか分からないため、少し遠いけど抽選なしで借りられる方を前倒しに借りたのである。

毎年野菜作りの一番大事な時に旅に出かけてしまうため、夏から秋にかけて収穫できる野菜のトマト、キュウリ、スイカ、枝豆、トウモロコシなどを作ったことが無い。春先にタネをまき、6月一杯頃までに収穫できるジャガイモやラディッシュ、旅から戻った9月以降に種をまいて秋冬に収穫できる大根やカブ、ブロコリー、ほうれん草、小松菜、からし菜、春菊、それに冬を越して春に収穫できるサヤエンドウ、そらまめ、等などが野菜作りの定番のメニューとなっている。勿論この外にも思いつきでいろいろな野菜作りにチャレンジはしている。

私は旅好きだけど、農耕民族の一人だと思っている。1箇所に止まって大地を耕し、そこに食糧となる植物を植え育て、春夏秋冬を過す暮らしが嫌いではない。私の本質は百姓だと思っている。だから旅をしていても、その土地の農作物の様子や樹木や野草などに興味・関心があり、それらを見て何故か心和むのである。人間は自然界の中で様々な生き物との共生によって生きている存在だと思うが、その共生の最大の相手は植物なのだと思っている。全ての動物は植物によって生命をつなぎ、生かされているのだと思う。人間が独自に生み出したものだけで命を長らえることなど出来るはずが無い。魚や肉を人工的に作ったとしても、それでもって人々の生命を、世代をつないで維持してゆける筈が無い。科学は万能などという発想は、人間の驕(おご)りに過ぎない。かといって科学を批判したりはしないが、科学が達成していることなどは高が知れており、大自然の中では殆ど無力といっていいのではないか。

ついでに言えば、山を征服するなどということばを西洋の人たちは使ったが、日本にはそのようなことばは元々無かったと聞く。山は大自然の一つの象徴だと思うが、これに登ったからといって、その山を征服したなどと思い込むのは人間の愚かな驕りというものであろう。今年の北海道の大雪山系での山の不幸な遭難事故も、よく考えてみれば一連の関係者の山に対する安易な驕りの心がもたらした出来事のように思える。

さて、元に戻って私は植物との共生こそが人間の生きる原点だと思っている。古稀を迎えたらベジタリアンになるつもりで、この頃はその準備に入っている。野菜を作るのもその一つなのかもしれない。野菜が生き物であることは、野菜を作ってみなければ判らない。スーパーや八百屋で売っている野菜を見ても、それが生き物なのだと実感できる人は少ないのではないか。タネをまき、芽が出て、それを見守りながら水を遣り、追肥をしてやって、一粒のタネからは想像もつかない巨大なその生き物本来の姿が生長して出現し、変転するのである。我々はそのある時期の姿を通常の野菜として食糧にしているわけだが、これらは歴然とした生き物であり、生命体なのである。この変化の凄さは、人間など動物の生き方の比ではないように思う。植物の面倒を見ていると、そのことに気づくのである。

私の本質は百姓だと書いたが、これにはいろいろな意味が含まれる。私は馬骨というのをペンネームにしているが、それは百姓と無縁ではない。百姓という言い方には現代では一種の軽蔑観のようなものが含まれているようだ。広辞苑には、田舎者をののしって言う語とあった。しかし、百姓の元々の意味として、同じ広辞苑には①(ひゃくせい)とも呼び、一般の人民、公民②(元荘園農民の呼称)農民、とも書かれていた。歴史上では、世の中の大半の人びとを百姓と呼んでいたのである。つまりは一般大衆ということであろう。百姓(ひゃくせい)が百姓(ひゃくしょう)として新たな意味を持つようになったのは、恐らく徳川幕府の身分制度の徹底以降からではなかったか。金も力も無い人々を武士の直ぐ下の階級に位置づけ、国の経済基盤を作る働き手として、生かさぬように、殺さぬようにとコントロールし続けたのであった。この時代から百姓(ひゃくせい)は百姓(ひゃくしょう)となったのである。

しかし百姓も大別すれば二つのレベルがあった。本百姓(高持ち百姓、本役)とその使役人や小作人である者である。後者の方は水呑み百姓という呼ばれ方で代表されると思う。この割合が具体的にどれくらいの数値であったかは専門家ではないのでわからないけど、恐らく土地にへばりついて汗水たらして働きに働いた、水吞み百姓といわれる人たちが圧倒的に多かったのではないか。本当の百姓とは、水吞み百姓のことを言うのだと思う。家屋敷や田畑を持ち、年貢や賦役を負担する一人前の権利義務を持つ本百姓は、農業経営者であって、本物の農民ではない。本当の農民は、水吞み百姓と言われた人たちであると私は思っている。

そして、これが自分にとって一番大事なことなのだが、私はその水吞み百姓の末裔(まつえい)に違いないと思っているのである。水吞み百姓は、恐らく誰一人として歴史に名を止めていないだろうと思う。庄屋のメモ書きの端っこの方に名が書かれて残っているか、或いはお寺の人別張に辛うじて名を止めるくらいかも知れない。これは馬の骨と同じレベルではないか。勿論、一生を水吞み百姓で終った人ばかりではないのだろうけれども、そのような人は極めて稀だったに違いない。出世などと言うものは、何時の世も同じである。太閤秀吉のような人間がそれほど多くいる訳がないのだ。

年をとってくると、妙にご先祖のことが気になり出し、どういうわけかあれこれ調べて、挙句の果てに家系図などというものをつくっている人がいるものだが、私の父もその気があった。私は最初から自分は水吞み百姓の末裔だと思い込んでいるので、父からその話を聞かさせれる度に、愚かなことだとしか思わなかった。それは今でも変わらないし、死ぬまで変わらないと思う。水吞み百姓には家系図など無用である。馬の骨で十分なのである。たった1万年後でさえも、この地球に名を残せる人など殆ど居るわけではなく、過去生きていたほぼ全員が馬の骨と同じ存在になるに違いない。そう思うと、水吞み百姓の末裔と言う思い込みは、まんざら間違ってはいないように思えるのである。

ところで、水吞み百姓というのは畑や田んぼの仕事が嫌いだったのだろうか。私のご先祖は、決してそうではなかったと思っている。むしろ、植物を育て実りに至るプロセスをこよなく愛したのではないかと思っている。嫌いだったのは、労苦に報われることが少ない世の中の仕組みだけだったのではないか。現代に生きるその末裔の私は、趣味としてホンの少し土をいじっているだけだが、ご先祖といえば、もの心ついてから死ぬまでの終生の間、空腹に耐えるに水を吞みながら、額に汗して働いても報われるものは少なかったのであろう。

私はご先祖に比べれば想像もつかないほど恵まれていると思う。それはその後の時代がもたらしてくれた恵みの中にいるからだと思う。私はその恵みに甘えるだけではなく、ご先祖が好きだったに違いない百姓の仕事の本質、すなわち植物との共生を大事にする生き方を受け継ぎたいと思っている。そのような血が私の中には流れている気がするのである。

何時だったかこのブログで「耕して天に至る(=耕至天)」のことを書いたが、これこそが百姓の精神の表れだと思っている。わずかに50㎡の畑だけど、汗を流しながら万能を振るい、耕して鍬で畝を作り、肥料を遣って土をなでながらタネを播いた後の被土を行い、芽が出れば早く自立せよと水を遣り、虫や病気に気を配り、その生長を期す。これが百姓の基本形である。そのどれ一つをとっても嫌だなどと思う余地は全くない。私は百姓が好きである。百姓の精神が好きである。

   

家から遠い方の畑の様子。この畑は休耕地だったのを市が借り受けて、菜園として一般市民に貸し出している。長いこと作物を作らなかったので、土が堅くなっていて当分は土作りに苦心しそう。それが又楽しみ。

コメント
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