山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

生命の画家・安達巌(2)

2009-10-21 00:15:56 | くるま旅くらしの話

<少年時代の大事件>

安達巌は、1939年10月、大阪の西区にて生を受けた。生家は祖父が鉄工所を経営していたと聞く。西区は、阪神工業地帯の中核エリアであり、明治以降の日本の経済発展に重要な役割・貢献をした地域でもある。すぐ隣の大正区には、その区名の由来となったその当時の日本最大のアーチ橋である大正橋があったが、祖父はその橋の架橋にも大きく関わったという。裕福な家庭の一人息子だった父親は、いわゆるボンボンで、家業を顧みるよりも好きなボクシングなどに熱中していたようで、その当時の伝説のボクサーであるピストン堀口との交友もあったらしい。その父が迎えた妻は、松竹歌劇団で、その後大女優と呼ばれるようになった京マチ子などと一緒に舞台に立っていたこともあったとか。その当時の流行の先端近くの暮らしぶりであったに違いない。そのような若夫婦の長男として誕生した巌は、戦雲が立ちこめ始めた時代ではあったが、何一つ不自由のない恵まれた環境の中ですくすくと育っていったのだった。

しかし、そのような幸せな環境は、あの太平洋戦争で完全に破壊し尽くされたのだった。家も土地も戦後のどさくさの中で、不明の状態となり、巌一家は、母親の親戚などを転々として居候せざるを得ない状況が続いたのだった。今の世の中からは想像も出来ないほど、戦争は人びとの暮らしを破壊し、容赦なく生きる道を混乱させたのである。

私自身も茨城県の日立市に生まれ、戦中には祖母の実家や母の実家などに兄弟が別れて疎開したりして、一家が離散した時期があったのを経験している。結局日立には戻らず、現在の常陸大宮市にあった開拓地に入植して、そこで育つこととなったのだが、あの戦後間もない時代には、一家が離散しているなどは未だ恵まれている方であって、父母の消息も不明というような子供は、都会の路傍に満ち溢れていたのだった。

そのような戦後の環境の中で小学校4年生になった時、巌の一生を大きく転換させる大事件が起こったのだった。その頃学校の子供たちの間で、小鳥を飼うという一種のブームみたいなものがあり、巌も小鳥を飼いたいと母にねだったのだが、それが可能な経済的余裕があるはずも無く、その願いは叶わなかったのである。しかし子供にとってはその夢はなかなか捨てがたく、ある日のこと、腕白同士が集まって雀の子を獲ろうという話となった。近くの近鉄八戸ノ里の変電所の建物の屋根辺りに雀が巣を作っているという情報のもとに、そこへ行くこととなったのである。

変電所の構内に入るなど、今では考えられないことだが、その当時は抜け道や近道として大人も子供も平気で出入りをしていたのだという。4~5人の腕白共が揃って変電所に来て見たのだが、誰にも鉄塔の高所に登る勇気はなかなかなく、怖気ずいて尻ごみする者ばかりだった。こんな時、人一倍運動神経の優れていた巌は、蛮勇を奮って「ほんなら、僕が行く」と、他の子供たちが見上げる中を鉄塔をよじ登って雀の巣に近づいていったのだった。そこにはたくさんの雀の巣があって、その中の一つに卵を発見し、近くで雛の鳴く声を聞いたときは、もう興奮して恐さなんぞはどこかに消え去ってしまっていたのである。

ところが、その雛を獲ろうと手を伸ばした瞬間、すっと巌のその手は3万3千ボルトの高圧線に吸い取られたのだった。その後のことはよく解からなかったが、下で見ていた仲間の子達の話では、変電所の建物の屋上にバ~ンと弾き飛ばされたという。頭を打ち血を流しながらも、気丈にも「おかあちゃん、堪忍やで~」と立ち上がって泣き叫んでいたという。本人はそのようなことは覚えておらず、気づいたときはどこか病院の玄関先に筵(むしろ)に包まれて転がされていたという。

後から聞いた話では、変電所の異常に気づいた近鉄の職員の方が、電車を止め応急処置をして病院へ運んでくれたのだという。しかし、病院ではこの子はもう助からないという判断で、そのまま放置されそうになったのを、両親の必死の懇請でとにかく処置をしてくれたのだという。流れた電流が心臓を避けてくれたことが、結果として巌の生命を救ったのだった。しかし、両腕から足の先に向かって流れた電流は、左手の二の腕の半分を残して、両腕を切断するのを余儀なくしたのだった。足の方は歩くに支障はない状態だったのは幸いだったが、指の何本かは吹き飛んでなくなってしまったのだった。

一命は取り止めたものの巌少年はもう学校へも行くことができず、家に籠もって母の傍で、何もかも母に委ね縋って暮らすという世界しか無くなってしまったのだった。放浪癖のあった父は、期待の息子が事故で不具の身となってしまったのに自棄(やけ)を起こしたのか、家に寄り付かなくなってしまったという。姉の家に身を寄せた母は時々疼く身体の痛みに「痛いよう」と小さな声を上げる我が子を抱きしめながら、何とか悲しみを遠ざけようと必死に生きようとしたのだった。

ところが、巌が命とも頼むその母が、ある時突然倒れて帰らぬ人となってしまったのである。その時母は巌に向かって次のように語りかけていたという。「巌ちゃん、世の中にはね、あなたよりももっともっと可哀想な人が幾らでもいるんだよ。あなたは強い人になって、そのような人たちを助けてやらなければならないんだよ、…」と。これはいわば巌にとって母の遺言だった。(彼はこの遺言を生涯大切に守った)話をしている間にことばが途切れ、母の体が次第に傾き、重く巌にのしかかってきた。「お母さん、重いよう、…」といって身をよじった時、崩れるように母は畳に身を折ったのだった。死因は栄養失調だった。

今の時代では栄養失調などと聞いても、何のことか判らぬ人が殆どだと思うけど、戦後間もないあの頃は、食うや食わずの暮らしの中で、栄養失調で倒れた人は数知れない。栄養失調というのは病などではない。生命を支えるに必要な食物を摂ることが出来ないための哀しい最後なのである。餓死ではないけど、その本質は同じようなものかも知れない。人間は気力だけでは生きてゆくことは出来ないのである。昨日まで、たった今まで元気そうに話をしていた人が、突然ぱったりと命の限界を割ってしまう現象が栄養失調と呼ばれるものなのだ。巌の母は、自分の食事を割いても、我が子のためにひもじい思いをさせまいと懸命に努めたのだと思う。ギリギリの生活は、ついにその限界を超えて、その命を帰らぬ世界へと運んでしまったのだった。巌が事故に遭ってからわずか1年足らずの間の出来事だった。

これから先、巌の本当の苦悩・苦闘が始まった。碌に家に寄り付かない父には殆ど何も期待できない状況だった。伯母の家の居候が小学生の手の無い甥という状況の中では、もはや甘える人などどこにもおらず、自らできることをやらなければ生きてゆくことも出来ないのである。今までは母が全てを支えてくれたけど、ご飯を食べることから着物を着ること、トイレに行くことなどなど、全て自分で何とかしなければならないのである。

ここから先の安達巌の生き様は強烈である。彼は困難の一つひとつを懸命な努力と智恵を用いて乗り越えていったのである。それらの全てを書くことは私には出来ない。両手が無いということが、普段の暮らしの中でどれほど大変な難事を抱え込むか、あなたは正しく想像出来るだろうか。誰の人手も借りず、あなたは両手を縛ったままで、食事をすることが出来るだろうか。トイレの際の下着の上げ下げが出来るだろうか。包丁を使って調理をすることが出来るだろうか。更には針に糸を通してズボンにホックをつけることが出来るだろうか。安達巌はこれらの全てを誰の手も借りず実現できるのである。二の腕の半分が残ったというのが相当の助けとなっていると聞いたけど、健常者の人たちには想像も出来ない人間の能力を彼は引き出し使っていたのだった。

彼の伝記を書こうとして、私は同じことを体験しようと手を使わずにズボンを履くことにチャレンジしてみたが、出来なかった。ズボンが足の方に近寄ってくれるわけは無いので、我が身の方をズボンに近づけて通すしかないのだが、足を通しても立ち上がれば直ぐに下に落ちてしまう。ベルトで止めるなどという作業は至難というより不可能としか思えない。しかし、安達巌はそれらのことを健常者と変わらず、何事もないように対処しているのであった。そこに至るまでの話を初めて聞いたときには、感動の戦慄が背中を走った。   (つづく)

    

安達 巌 遺作展 (昌子夫人の企画運営による)

 

「安達巌 生命(いのち)のメッセージ展」

 

期間:10月22日()~28日()

場所:近鉄上本町店6階 美術画廊(天王寺区上本町6--55

後援:読売新聞大阪本社/社会福祉法人読売光と愛の事業団大阪支

   

 

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