山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

田舎暮らしとくるま旅くらし

2009-10-19 05:17:09 | くるま旅くらしの話

先日宝島社が発行している「田舎暮らしの本」という月刊誌の取材を受けた。定年後の生き方の様々なスタイルの中で、キャンピングカーを使っての田舎旅というのもその一つという捉え方で、その例としてどのような車で、どのような旅をし、その費用は如何ほどかかるのかといったことなどを問われたのだった。

田舎暮らしは、私にとっても定年後の暮らしの選択肢の一つだった。元々田舎育ちの私にとっては、田舎暮らしというのは、その昔に似た暮らしを、自分が主役になって行なうというだけの話で、さほど興奮や感動も覚えないごく当たり前の暮らしなのだと考えていたのだが、相棒の方は都会での暮らしが主体の育ちだったので、山奥に引っ込んで狸や狐と一緒の生活には耐えられそうもないということで、断念せざるを得なかったのである。

キャンピングカーを使っての田舎旅というのは、勿論田舎暮らしなどではない。くるま旅は都会を訪ねるよりも田舎を訪ねることの方が遙かに多いと思う。しかし訪ねるのはそれなりの魅力を感ずる場所であって、何もない場合はその価値に気づかない限りは、通過してしまうことになる。だから、くるま旅を田舎暮らしと結びつけるのには無理があると思う。

田舎暮らしにもくるま旅にも共通していることといえば、定年後の人生を自分の思い通りに楽しみ、あの世に行くまでの時間を充実させて過し、納得の中に終らせたいという考えではないかと思う。そしてその大きな違いは、田舎暮らしは腰を据えて新しい環境である地元に溶け込むというスタイルであるのに対し、くるま旅の方は自在に動き回って自分の好きな場所を訪ねるというものであり、静と動、農耕民族と牧畜・狩猟民族との如き差があるということであろうか。

どちらを選ぶかは、その人の自由であり、どちらが優れているとか、劣っているとかの比較はナンセンスであろう。好きな方を選べば良いし、そのどちらをも選ばなくても一向に差し支えはないのである。大切なのは、あの世からお迎えが来るときまで、活き活きとした生き方を続けられるかということではないか。生・病・老・死はお釈迦様の教えの中にある4つの不可避的な出来事であり、我々の世代(=高齢化世代)では、最後の「死」という現実を残して、大なり小なりにもう3つの出来事を体験・実感している。残りの一つに直面するまでの間、病や老を避けながら生を持続できる術(すべ)を何に求めるかということが、田舎暮らしやくるま旅の意義ということになるのだと思っている。

私は結果的にくるま旅を選んだ。自分としては今、それは正解だったと思っている。くるま旅には人を元気づける大きな力が秘められている。そのことについては、くるま旅によらず田舎暮らしにも、或いは定年後に始めた趣味などの中に自分の才能を見出し、残りの人生を生き抜く道を見つけた人にも、皆その人を元気づける大きな力が備わっているに違いない。けれどもくるま旅には、過度な思い入れも労苦も無用の、自然体の楽しみと喜びが無限に詰まっている。人は旅に出るだけで、新しい発見、新鮮な感動に出会うことが出来るのである。

例えば、旅に出て、朝起きて窓の外を見れば、そこには見知らぬ世界が広がっている。その季節に彩られた昨日とは違った世界がそこにあるのだ。人はそれだけで旅を実感でき、大きな刺激を受けるのである。長いこと仕事に打ち込み、或いは見慣れすぎた環境の中での暮らしぶりの中では、なかなか気づかなかった新しい世界を見出して、人は知らず心を打たれて、生きていることを実感するのである。それが旅というものの本質なのではないか。

この新しい世界の気づきが、人を元気にし、生きる力を強めるのだと思う。そして、この新しい世界は単に風景だけではなく、様々なものとの出会いに満ちている。その中で最も心を揺さぶられるのは、やはりお互いに心を共鳴し合える新たな人との巡り会いであろう。旅に出なければ多くの場合、何か特別のことがない限りは、人と出会うチャンスは限られており、新たな知人を獲得することは難しく、今までの知人は次第に減ってゆくことになるのではないか。

しかし、旅に出れば、特に求めなくても新たな知人は増えてゆく。その出会いは利害得失とは無関係のものであり、新たに得た知己は人生の宝物となるのである。人は人と知り合うことによって、自分の存在を確認できるのだと思う。定年後は、今までの仕事がらみの知己は減る一方であろう。勿論新たな友も少しは増えるかも知れないが、その分野も関係も限定されるに違いない。旅での新たな知己との巡り会いは無限であり、それは残された時間の中で宝物を拾い歩くようなものである。

さて、取材の方では、より現実的にくるま旅の田舎とのかかわりの現実や車や暮らしの経費のことなどを訊かれた。先ず費用からゆけば、旅車はかなり高価な投資であり、決断の必要な事項だと思う。どのような旅をするかにより選ぶべき車は異なってくるのだと思うが、それは自分で好きなように決めれば良い。大切なのは、車を買う前に、何でもいいから車を使って数日間の旅を経験してみることだと思う。そうすればどのような車が必要かが見えてくるはずだ。

私の場合は、バンコンからキャブコンに乗り換えて7年が経っている。後付の装備を入れると700万円くらいかかっているけど、完全に元は取っていると思っている。年に4ヶ月ほどの旅をしているけど、同じ行程の旅を他の交通手段と宿泊施設を使うと仮定すれば、どう計算しても3年ほどで700万は回収できるコストだと思う。勿論旅をしない場合と比べれば相当な費用には違いない。しかし、旅で得られる人生の喜びはその投資額を遙かに超えていると私は思っている。それは家内も同感だと思う。

次に暮らしの費用だが、これは食費などは在宅時と基本的には同じである。旅に出たからといってご馳走ばかり食べているようなことはない。そのようなことをしたら、健康を損ねることは明白だ。地元の新鮮な食材を安く手に入れて食べれば、コストは在宅より少ないかも知れない。最大の費用は移動に要する交通費である。ガソリン、フェリーなどの通行費は不可欠であり、これは移動量を増やせば増やすほど膨らむコストである。従って気に入った場所に留まってそこで暮らすというスタイルを選べば、旅のコストはかなり減らすことが出来るのである。夏の北海道の車旅では、そのようなスタイルがだんだん増えているように思う。今年の夏は家内と二人の北海道50日の旅だったが、約6,500kmを走って、1日の平均費用が約6千円だった。因みに食費は2千2百円、交通費は2千4百円だった。動き回り過ぎた嫌いがある。

最後に田舎というか、地元の人たちとどのような係わり合いを持った旅のスタイルがあるかということだが、これは人様々だ。私の場合は未だ手探り中といったところで、事例として話できるようなものはない。仲間の人たちの中では、一番多いのが農家の方と知り合ってのボランティア活動としての農作業支援ではないかと思う。りんごやサクランボなど、人手が欲しい時期に手助けをするというものである。何しろ家を持参しているので、庭先に車を停め、電源を借り水とトイレを用意して頂ければ、余計な手間や心配は無用なのである。報酬など期待しなくても働くだけで嬉しいのである。この他パークゴルフを通して地元との交流などの事例もある。

私がくるま旅に関して今一番いいたいことは、その環境の整備に国や公共団体がもっと力を入れて欲しいということである。無料などではなく、有料で良いから安心してくるま旅が出来る施設を用意して欲しい。道の駅の一角で良いから、電源と水を安心して使える施設を設けて欲しい。それは定年後の人のためだけではなく、現役の車を使って仕事をしている人にも共通のことではないか。トラックだけが車を使った仕事ではない。車での宿泊のニーズはかなり高いように思う。

田舎暮らしとはあまり関係の無い、くるま旅の主張となってしまいそうである。定年後の生き方の選択肢の一つとして、田舎暮らしの他にも、くるま旅くらしがあるのを取り上げて頂けて嬉しい。「田舎暮らしの本」には、12月号に掲載されるとのこと。ちょっぴり紹介させて頂いた。

コメント
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