山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

給油所あれこれ(1):価格を表示しないセルフスタンド

2007-02-08 00:05:34 | くるま旅くらしの話

くるま旅くらしでは、移動費用がかなりのウエイトを占めることになります。旅くらしのコストを少なくしようとするならば、移動を抑えるスタイルを選択することがキーとなります。そういうわけですから、給油所に対しては知らず知らず関心が高まります。

私はマーケティングという視点から世の中の商売を見ることにしていますが、今回はその俎板に給油所(ガソリンスタンド)を取り上げたいと思います。

一くさり、マーケティングの話をしますが、小生の理解では、マーケティングというのは、生産者と消費者をつなぐ全てのプロセスにおけるヒューマンリレーションを言うのだと思っています。マーケティングは大別すればマス(1対多数)とワンツーワン(1対1)に区分できますが、今までの大量生産・大量消費の世の中では、その殆どはマスマーケティングの発想で動いてきました。マス・マーケティングは顔の見えないお客様に商品をアピールする関係ですが、ワンツーワンマーケティングは顔の見えるお客様に対して働きかけるスタイルをとります。現在では例えばITなどの技術革新によりワンツーワンのマーケティングが力をつけつつあるように思います。そしてこれからの商売は、ワンツーワンマーケティングの発想をどれだけ上手く活用できるかが、その成功のキーになるのではないかと考えます。

さて、そのような理屈をもって、世の中を旅をしながら漂っていますと、様々なものが見えてきます。世の中の全ては人間と人間との係わり合いによって成り立っているのですから、どのような場所の、どのような世界に行ってみてもマーケティングの視点は成り立つのです。このような目で世の中を見て行くと、様々なものが見えてきて実に面白いのです。

今回はその入り口として、全国に点在する給油所のあり方についての感想を少し述べてみたいと思います。

商売が上手か下手かは何で決まるのか?それは極論すればお客様を大事にするか否かで決まります。この考え方をCL(Customer Loyalty=顧客第一。顧客忠誠)と呼びます。即ちCLの感性が高ければ高いほど優れた経営が構築可能となります。最近話題の菓子メーカーや消え去った乳業メーカーなどは、CLの発想を置き去りにした結果であるということが言えると思います。

最近はセルフスタンドなるものが数を増してきました。人力がカットできる分だけ価格が安くなっていますので、私のような年金旅くらし人は、より多く利用させて頂いています。このセルフスタンドなのですが、いろいろな商売の仕方があって、感心するのもあれば怒りをさえ覚えるものもあります。つまりCLの発想をどれだけ理解して商売しているのかということなのですが、その実態に関して少しコメントをして見たいと思います。

商売の原点を忘れているんじゃないの?というのが、価格表示をしていないスタンドです。これがこの業界では結構多いのです。セルフということを高らかに宣言し、出血サービスだとかなんだとか派手に幟を揚げたりして騒いでいるのですが、肝心の価格の表示が何処にもありません。価格の表示は、お客様に対する必要最小限の仁義だと思います。それをしないのは、人道にも反するというのが私の見解です。ですからそのようなスタンドでは、絶対に給油をしません。消費者にどのような誠意を示すかは、半端な飾り文句だけでは通用しないということを、このような店は反省すべきと思います。

価格の表示をしないで商売が出来る世界は限られていると思います。金持ち相手の商売は価格よりも品質やブランドなどが優先すると思いますが、一般大衆を相手の商売では、価格はお客様が購入の是非を判断する際の最大の基準となるものだからです。

旅をしていると、この仁義に反する商売を行なっているエリアがだんだん分かってきました。価格表示無しのエリアは、地方へ行くほど広くなる実態があるように思います。給油所の経営が、どのような仕組みで行なわれているのかは分かりませんが、私の考えでは、供給に関わる大手のサイド(元売企業)の配慮が怠慢のような気がします。小さなスタンドでは、経営のノウハウなど何も知らないまま油を販売しているように思われますので、せめて価格表示くらいは必須要件だということを指導すべきと思うのです。

想像するに、石油の供給も販売も限定された条件の中で行なわれているので、車の所有者は、それを動かすためには、どれほど油が高くなっても油を購入せざるを得ない、という当然の発想が業界の中に隠然とあって、原油の輸入価格が上がれば最終的には消費者に負担させれば良いということなのかも知れません。

しかし、現実の給油所の競争を見ていると、閉鎖に追い込まれている店が結構多いのは、単に業界の仕組みだけではなく、CLの感性を置き忘れかけている部分が表出した結果なのではないか、という気がします。

地方の交通不便なエリアでのスタンドの存在はありがたいものですが、価格も表示しない店では、車を止める気は起きません。車というのは、少し走れば都市部でも何処へでも行けるのです。価格表示が全てでは決してありませんが、顧客への仁義を忘れ、何の経営努力もしない店は、遠からず消え去って行くような気がします。

 

 

 

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出会いのメモリー(旅のエッセー):喜連川の猿山

2007-02-07 00:29:13 | 宵宵妄話

 ‥‥今日は何匹目の猿になるのかな?と思いながら入口の引き戸を開けて脱衣所に入る。狭い脱衣所には、あまり多くはないけど、脱いだ衣服の数は結構あって、湯気が上がっている池の向こうの猿山には、20人以上のお猿さんが湯に入ったり、岩山に登ったりしている。のんびりとした露天風呂の風景である。自分もたちまち素っ裸のお猿さんになって、湯に浸かる。未だ太陽が空に残っている。

栃木県北部の、中央やや東よりの所に喜連川という小さな城下町がある。現在はさくら市となった。茨城県だと、緯度はほぼ大子町辺りか。喜連川は足利家の正統を継ぐ、喜連川氏が治めた城下町である。石高は1万5千石と少なかったが、十万石格を与えられていたのは、徳川幕府といえども、やはり足利一族に対する畏敬の念があったからなのかも知れない。歴代の城主の名前などを見ると、例えば最後の城主が「氏綱」であったように歴代「○氏」という名を用いている人物が多いのは、その証しなのかも知れない。

喜連川の町には、城跡の中央高台にスカイタワーと呼ばれる塔が建っている。どうしてこのようなものを造ったのか知らないが、観音像よりはいいかもしれない。目立つことには役立っているが、城下町の雰囲気は壊されているような気がする。喜連川辺りの地形は、幾筋もの丘が連なっており、それらの小高い丘に登ると、北方右手には那須連山がどっしりと構え、左方には日光男体(二荒)山の大きな山容が望見できる。茨城県からは見ることができない景色である。

この喜連川に温泉が見つかったのは、それほど古い話ではなく、昭和50年代初めの頃とか。今では数箇所の温泉宿や入浴施設がある。この温泉に魅せられて、かなり前から時々訪ねるようになった。大抵は町営の露天風呂というのに入りに行く。ここは掛け流し(受付のオバちゃんは「ここは垂れ流しだよ!」と胸を張って言うのだが)の露天風呂しかない入浴施設で、余計な設備は一切ない素朴な風呂なので、それがすっかり気に入っている。料金も300円也とリーズナブルである。

何年か前、バネ指という妙な病気というか、左親指の故障というのか、それになったことがある。親指の第2関節がバネ状に勝手に動き、携帯電話を左手では扱えなくなるような症状である。これは子供に多い病気らしい。とすれば少し若返りの傾向にあるのか、などと妙に嬉しくなったりして、病気をからかう気分もあったりした。医者の話では、手術をすれば簡単に治るというのだが、それがどうしても嫌で、薬など貰っていろいろやってみたのだが、どうしても具合がよくならなかったのだった。

それで、温泉にでも浸かって指を揉んだりしたら少しは良くなるかもしれないと、何箇所かの温泉を訪ねてトライしてみた中で、この喜連川の湯が大当たりだったのだ。4、5回通う内にバネ指はすっかり治ってしまった。本当はお湯の所為ではなく、放っておいても時期が来たので治ったのかもしれないのだが、とにかくこの温泉に入ると調子がよくなり、すっかり治ってしまったので、それ以来時間を見つけては此処の露天風呂にやって来るようになった。

露天風呂の中には、恰(あたか)も猿山のような岩組をした浴槽があり、そこではお爺さんと思しき世代の人たちが、湯の中だけでなく岩山の上にも寝そべったりして、思い思いの湯浴みを楽しんでいる。観光案内などで、温泉に入っている猿たちの写真をよく見かけるが、此処へ来るとあれを思い出すのだ。皆お猿さんになって、湯浴みを楽しんでいるのである。殆どがジジイ猿で、子供や若者が入ってくるのを見かけるのは珍しい。

今日の一仕事を終えた若い爺さま、人生の大仕事を終えた年寄りの爺さまなど様々だが、皆リラックスして穏やかな表情なのがいい。中には倶利伽羅紋々の爺さまが混ざることもあるが、これとて今は強面(こわもて)が抜け去って、いい顔になっている。そのような人たちを観察しながら、こちらも一匹の爺さま猿になって湯に浸っているのである。

本物の猿と違うのは、これら爺さま猿たちはやたらとおしゃべりだということ。95%以上は地元の人たちなので、みな知り合いらしい。他愛もないここでの世間話が、人びとをストレスから解き放つ大きな役割を担っているのであろう。それを聞いている自分も思わず微笑んで相槌を打ったりしている。それにしても、これら爺さま猿たちの話題は、恐ろしいスピードで縦横無尽に展開されている。4、5人のグループでの、ある話を紹介してみよう。

「この間よう、30年ぶりで中学校の同窓会やったんだけど、イヤー、誰だったけがわがんねんで、困ったどー。特に女の人は変わっちゃったんで、ながなが思い出せながったなあ。」

「そうだっぺねえ。女の人は子ども生んだりすっからなァ」

「幹事やってっから、名前はわがんだけど、実物ど一致しねえんだ。エイコちゃんとヨシエちゃんとマサコちゃんと、三人一緒に来たんだけど、エイコちゃんはすっかり変わっていて、わがんながったなあ」

「そうげえ、ところで先生は誰が出たの?」

「うん、ヤマダ先生が出たんだわ。あと、ヨシダ先生は死んじゃったっぺよ。」

「ヤマダ先生って、飲兵衛だよなァ。前に俺らたちの同窓会の時に、2次会が終わった後、もう一軒行ごうってしつこかったもんなァ」

「うん、そん時は体調が悪くてあまり飲めねえって言ってだけど、調子悪くてあれだげ飲んでんだから、すげーよなァ。今度も、はァ、ずいぶん飲んでだなァ。あれじゃあ、身体こわすんじゃねえげ。先生があんなに飲兵衛だなんて知らながったなァ」

「そういえば日本人の寿命も、これがらは減って来るんじゃねえが? なんか、TVの健康番組で、そんなごど言ってだど。」

「うん、俺も見だ。昔は肉なんが喰いたくても喰えながったものなァ。今みたいに肉だの油っ気の多い奴を喰っていだら、身体はおがしくなっちゃうべよ。若いのは、ほんと、長生きでぎねんでねえかなァ。」

このあと、話は延々と続き、鉄道自殺は迷惑だ、ライオンにきれいに喰われるような死に方がいいとか、それが発展して松島トモ子がアフリカでライオンに襲われた話、若い女性の方が美味いんじゃないかというライオン側の嗜好に立った話から、酒漬けのお前の肉も結構いけるんじゃないか、いや俺のは焼酎漬けだからライオンは喰ってくれないんじゃないか、などなど果てしもない広がりを見せて話題は展開されてゆく。

これは下手な寄席の話を聴いているよりも遙かに面白い。天然のお笑い話のように思える。この辺りの栃木弁は、茨城県北部の大子や常陸大宮辺りの話し言葉とイントネーションも殆ど変わらないから、数十年前の昔に戻った感じで、なんだか嬉しくなってしまう。

この他、話題は国際政治の問題や経済情勢の分析、断定に至るまで、相当の自信というのか誤信というのか、老人の頑固さを彷彿(ほうふつ)させるトーンの話が、あちらこちらで湯気と一緒に立ち昇っているのである。露天風呂なので、長く入っていてもあまりのぼせることは少なく、岩の上に坐れば何時間でも過ごすことが出来るようで、「俺は、はァ、もう3時間ぐらいになっかなァ。そろそろ出っかなァ」などといっている人が結構いる。しかし、自分はせいぜい1時間が限界だ。1時間、この猿山の風情を楽しめば、何だか元気づけられて、娑婆(しゃば)に戻れるような感じになるのである。我が家からのロケーション的には、旅という気分には少し遠いのだが、喜連川の猿山は、いまはとても大切な憩いの場所である。

風呂から出ると、那珂川の支流の荒川と内川が合流する箇所に造られた道の駅「きつれがわ」に行き、そこに旅くるまを停め、ビールで乾杯したあと、一夜を過ごす。翌日はこの地特産の温泉ナス(温泉を利用した暖房で冬季栽培のナス。このナスは刺身で食べてもいける高級品なのだ)と温泉パン(ドイツ菓子風の重量感のあるパン)を買って帰路につくのである。

 

 

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ストーリーのない旅を楽しむ

2007-02-06 00:26:11 | くるま旅くらしの話

旅というのは概ね計画的に行われることが多いようです。日程を決め、訪問先や宿泊場所等を決めて、スケジュールに従った行程を辿るのが一般的です。それなりに大切なことだと思います。

 しかし、私の提唱するくるま旅くらしは、どちらかといえば非計画的です。大雑把な行き先や日程は決めますが、曖昧です。例えば九州へ行くというのは決めてもどのように行くかの実際は未定ですし、日程も出発日と帰着予定日を漠然と決める程度で、あとは成り行き任せです。

何故このようなことが出来るかといえば、使える時間が自分の意思で自由になること、そして宿の心配が少ないからです。くるま旅くらしというのは、宿を背負って移動しているようなものですから、これを最大限に活かすのであれば、細かな計画などは無にして、成り行きに任せて出会いを拾ってゆく楽しみを満喫しなければつまらないというのが私の考え方です。

このような旅の仕方は、現役の人には無理でしょう。自由に使える時間の範囲内でしか旅を考えられないとすれば、時間の活用はどうしても計画的でなければならなくなるからです。しかしリタイア後の私のような者にとって、有り余る時間を活用するとなれば、計画のない方がより充実した旅となるのではないかと思うのです。

現役の社会は、如何なるケースであっても効率化の求められる世界での生き方を余儀なくされていると思います。時間を如何に効率的に活用するか、その結果として費用対効果は最大限発揮できたか、などということが生きて行く上での仕事の必須要件となっていました。競争に勝つためには当然の発想であったわけです。

しかしリタイア後の生き方には、この発想は必ずしも大切とは思われません。現役の人たちと同じように、老人といわれる人たちまでが全て効率第一主義で人生を送っていたら、世の中は歪んだギスギスしたものとなり、それに耐えられない人間が続出するに違いないと思います。効率第一主義は現役時代の必要悪ではないかと私は考えます。

 リタイア後は、この必要悪を修正、改善して、より人間らしさを求める生き方が必要になってくると考えたいのです。リタイア後も必要悪の中に留まって頑張る人もおられるとは思いますが、心豊かに生きるためには、どこかでこの必要悪を一度放棄されてみては如何でしょうか。

私がくるま旅くらしを提唱するのは、この必要悪を一度は放棄して、心の赴くままに、自由を自分のものとして使い、効率などとは無縁の本来のありのままの自分の姿を確認することが、残された人生を心豊かに生きて行く上の大きな力となるのではないかと考えるからです。

それゆえ、ストーリーのない旅を楽しむのがくるま旅くらしの基盤となるように思うのです。旅のストーリーは結果のもたらすものであり、そこにくるま旅くらしの意義が存在するように考えます

今回はくるま旅くらしの根っこの理屈を少々述べさせて頂きました。

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しまなみ海道の島々滞在記から(その3:海に架かる大橋の散歩)

2007-02-05 00:45:46 | くるま旅くらしの話
その3です。

<名橋「多々羅大橋」を3日連続で往復する>

多々羅大橋は生口島と大三島に架かる世界一の斜張橋です。生口島は広島県、大三島は愛媛県ですから、この橋は県境にあり且つ中国と四国を結ぶ橋でもあります。この橋を3日連続で往復したというのが次の話です。

多々羅大橋は、全長約1,480m。斜張橋としては世界一だと聞きましたが、斜張橋というのは、支点となる高塔から斜めに張ったケーブルで橋桁を支えるもので、安定性に優れるという特長を持つとのことです。瀬戸内に架かる多くの橋は斜張橋ではなく、ケーブルを真下に垂らして橋桁を支える吊橋の構造となっているようです。斜めにケーブルが幾つも出ている様子は、大鳥が翼を広げたような感じがあり、とても美しいものです。確か室蘭だったか、白鳥大橋という海に架かる橋があったと思いますが、多々羅大橋も又白鳥が大きく羽ばたく様を思わせるスケールの大きな橋です。

この橋の大三島側の袂(たもと)近くが公園になっていて、そこに道の駅があり、私たちはこの道の駅にお世話になることが多かったのでした。
道の駅の駐車場に車を止め、10分ほど坂を登ると、多々羅大橋の入り口に着きます。橋には歩道と車道があり、歩行者は無料で橋を渡ることが出来ます。バイクや自転車の人は有料で歩道脇の道を通行することになっています。3日間通いましたが、我々の他に歩いていた人を見かけたのは、たった一人だけでした。バイクや自転車の人は何人か見かけましたが、ほんの僅かでした。つまり、よほどの用がある人か或いは物好きでないと、この橋を歩いて渡ろうなどとは殆どの人が考えないのでしょう。

初日、その入口から歩き始めたときは、正直言って渡り切れるかどうか心配でした。というのは、好奇心は人一倍ですが、高所恐怖症の気があり、高い所は苦手なのです。ましてや揺れのある橋を渡るのですから、思わず心拍数は数を増します。以前来た時は、大三島側からではなく、生口島側の瀬戸田PAから渡ろうとして、半分ほどで引き返したという実績(?)があります。今回は何としても往復してみたいと、相棒共々覚悟をして臨みました。

さて、いよいよ歩きの始まりです。それにしても巨大な橋です。下を見ると中央辺りは潮流が渦を巻いているのが何とも不気味です。遠くを見ると、左右に瀬戸内の島々が幾つも連なり、海には時々大型の船も行き交っているのが見えます。いい眺めです。しかし、脇の車道を走る大型のトラックが風を切って通過する度に揺れを感じ、更に中央に近づくに連れ、大型の船が荒波に揉まれる様な感じの.薄気味の悪い揺れを感じて、足元が覚束なくなるのでした。

真ん中近くまで来ると、ケーブルを吊っている大きな塔があり、そこで不思議な現象を体験することが出来ます。これは以前来た時に知ったのですが、何とその場所へ行き、手を合わせてポン!と拍手を打つと、ウオーン!と大きな反響音が返ってくるのです。「多々羅鳴き龍」と名付けられたその場所は、不思議な空間でした。日光の東照宮の鳴き龍は有名ですが、この多々羅鳴き龍は日光のそれとは比べものにはならないほどの壮大なスケールです。橋の下を見る怖さをしばし忘れて、何度かその巨大な反響音を楽しみました。

その後はおっかなびっくりの前進です。途中から相棒の歩くスピードが早くなり出しました。普段の速さの倍以上のスピードで先行しています。これはどういうことなのか? ここへ来れば誰でもわかることなのですが、橋の向こう側へ到達しなければならないとなったら、とにかく一刻も早く通り抜けたいという気持ちが、下を見、揺れを感ずる度に強くなるのです。とにかく周りをゆっくり展望する余裕などとてもないのです。いやはや笑い事ではなく、人間はそのような怖い想いの虜(とりこ)になると、これは又実に他愛のないもので、斯く言う私自身も相棒の後を脇目も振らぬ心持ちで続いているのです。20分ほどで瀬戸田側に着いた時は実にホッとした気分でした。

瀬戸田町にはミカン畑が広がるのどかな風景が広がっています。先ずはPAまで行って、今日は名物の蛸飯などを賞味する考えです。今来た橋の方を振り返ると、銀色のその巨大な建造物は何事もないように大三島に向って道を広げて建っていました。あそこを渡ってきたんだ!という何ともいえない満足感が心を満たします。

瀬戸田のミカン畑は本当に牧歌的です。「みかんの花咲く丘」という童謡がありますが、あれは確かこの辺の状景を歌ったものではないでしょうか。たわわに実った黄金色のミカンの木々の向こうに、真っ青な海が輝いています。そして沖には行き交う船が望見できるのです。本当に癒される風景でした。ミカン畑の道脇には取り立てのミカンを販売する無人の売店があり、100円を入れると数個のミカンをゲットすることが出来ます。まるで天国のような感じでした。

ミカンを頬張りながら、しばらく坂道を登り下って行くと、瀬戸田PAに到着しました。ここは蛸飯が名物です。さっそく食堂に入り、蛸飯と蛸天うどんというのをオーダーしました。相棒と半分こしながら食べましたが、蛸飯の方が美味かったのは予想通りでした。

お昼を終え、PAからの景観を楽しんだ後は、再び橋の復路にチャレンジです。来た道を戻るのですが、かなり余裕が出てきたのは経験がものを言うからなのでしょう。橋の入り口から、今度は時々相棒とムダ口を叩きながら歩き始めました。橋の袂の遙か下に山もみじの木らしいのが何本かあって、それが紅葉の真っ盛りなのが美しく見えます。橋の中央辺りに来ると、やはり多少の穏やかならぬ気持ちは禁じ得ません。それでもかなり余裕を持って下の潮流渦を覗くことが出来るようになりました。今日は天気が好いので、海の青に空の青が連なって、ほんとにいい気分です。鳴き龍をもう一度楽しんで、20分ほどで復路も無事に戻ることが出来ました。いやあ、満足です。恐怖心よりも好奇心の方が勝ったことに満足です。


2回目はその翌日。この日は雨模様で、どうするかしばし迷ったのですが、大した降りにはなりそうもないと判断し、傘持参で歩くことにしました。一昨日の宿泊場所は、橋の袂にある道の駅「多々良しまなみ公園」でしたが、昨夜は大三島にあるもう一つの道の駅「しまなみの駅御島(みしま)」に泊りました。

早朝に道の駅に隣接する大山祇(おおやまずみ)神社に参拝し、楠(くす)の巨木に心を打たれたあと、食事は多々羅大橋を見ながらしようと再び多々羅しまなみ公園の道の駅にやってきました。どんなに粗末なものを食べていても、ここへ来ればリッチな気分になります。

9時過ぎ、出発です。昨日と同じ坂道をゆっくりと歩きます。何しろ橋はかなり高い所にありますから、入り口まで行くのが結構きついのです。急いで歩くとその後が問題となってしまいます。今日は天気が悪く、橋の入り口から見下ろした瀬戸内の海は鈍色(にぶいろ)をしていて、昨日とは大分違った景観でした。風もかなり強くて、うっかりすると帽子を飛ばされてしまいそうです。しかし、昨日の経験が大きな自信となっている所為か、昨日の初めほどの恐怖心はありません。

鳴き龍を楽しんでしばらく歩いていると、橋の中央にに差し掛かった頃に突然胸のポケットが鳴って、メールが入りました。誰だろうと開けてみると、親友のKさんからでした。旅の状況を知らせろという内容でした。さっそく歩きながら返信に取り掛かりました。都会の真ん中なら、歩きながらメールを打つのは危険な行動となりますが、ここではその心配は全くありません。誤って海に落ちる心配もありません。今まで歩きながらメールを打ったことはなく、初めての体験でしたが、面白いなと思いました。それにしてもこの巨大な橋の上からメールを打っているなど、Kさんには想像もできないことでしょう。うんと羨ましがらせてやろうなどと怪しからぬふざけ心が頭をもたげるのを押さえるのに苦労しました。

何事もなく、相棒のスピードも平常ペースに戻ったままで橋を渡り終えました。車を出てから瀬戸田のPAまで約2kmほどの行程です。景観を楽しみ、歩くことを楽しみながら30分ほどでPAに到着しました。PAの入り口の所にヒマラヤ桜という名の冬桜が何本か植えられていて、それが僅かですが花を咲かせていたのが印象的でした。今日は食事はせず、相棒が「塩餅」というのをゲットしていました。

一休みの後復路に向かいます。途中の無人売店で青いレモンをゲットしました。ミカン畑もよく見ると何種類もの柑橘類が植えられており、レモンの栽培も盛んに行なわれているようです。レモンといえば黄色いものという感覚がありますが、新鮮なレモンは青いのです。それを市価の半値以下で手に入れられるのですから、感激です。

レモンの入った袋をぶら下げながら、何事もなく当たり前のように橋を渡って車に戻ったのは12時少し前でした。心配していた雨にも降られず、2回目の多々羅大橋往復は終了です。


3回目はその翌日。もう、ここから先はくどくなるので、記述は簡略化します。今日も雨模様の曇り空で、まあ、大丈夫だろうと傘を持参することもなく出かけたのですが、この日は帰りに一時雨に降られて、往生しました。曇りの時には傘は必携なのだということを思い知らされました。また、この日は瀬戸田PAで小さなラン(デルフィニュウム)の鉢植えを買ってきました。この花はとても丈夫で、その後の旅車の中をずーっと飾ってくれ、現在でも健在です。

さて、このようなバカバカしい行為を、私たちは敢えて楽しんでいます。旅くらしには時間がたっぷりあります。今まで出来なかったいろいろなことにチャレンジすることが可能です。旅の仕方にはいろいろあって、夫々が好きなように時間を使えば良いことですから、とやかく言うべきことではないと思いますが、一つの楽しみ方として、走りの中に出来るだけ歩きを取り入れることを私たちは心がけるようにしています。車での走りばかりでは、例えば観光地の見物でも、思い出や感動は一時的で薄いものとなってしまうような気がします。時間をかけて、自分の足を使って動くことによって、より多くの出会いのチャンスが生まれるような気がするのです。

たくさんの場所を訪れ、全国を廻ったといってもただそれだけでは何か勿体ないような気がします。世の中はスピードを落とせば落とすほどよく見えてくる、というのが持論ですが、旅くらしは、車ばかりに依存するのではなく、時には歩き、時には停まっての時間をより多く持つことが大切なのではないかと思うのです。

多々羅大橋を3日も散歩道として使わせて頂けたことに感謝しています。このような贅沢な楽しみがくるま旅くらしの醍醐味なのではないかと思っています。
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しまなみ海道の島々滞在記から(その2:鯛めしの話)

2007-02-04 00:20:40 | くるま旅くらしの話
第2回目です。

<釣り上げた鯛で鯛めしをつくり美酒にうつつを抜かす(因島にて)>


因島には2泊しましたが、最初の日は久しぶりの釣りにチャレンジしました。早朝手元が明るくなるのを待って、6時ごろ車を出て200mほど先の岸壁に出かけました。相棒(=家内)は斑(まだら)眠りの真っ最中です。

地元のお年寄りの釣好きが何人か車でやってきて、早くも釣の準備をしていました。逸(はや)る心を抑えながら、竿を出し、リールを取り着け、餌をつけて最初の一発を投げ込みました。今回は2本の投げ竿を持参しましたが、1本よりも釣れる確率が倍になるなどという浅はかな欲心がどこかにあります。ご老人たちは皆さん浮き釣りで、自分の近くには誰も来ておりません。若しかしたらここは投げには向いていない場所なのか?それともご老人たちは投げ釣などする体力はないのか、など勝手な想像が頭の中を駆け巡ります。

その昔四国に転勤で在住した時には、いろいろな釣に挑戦しましたが、晩秋から冬にかけての季節は、専ら投げ釣りでカレイ等を狙うことが多かったのを思い出します。投げが得意で、あの頃は軽く100m以上は飛ばしてそれだけで悦に入っていたものでした。今日はそれほど飛ばす気は起きませんが、それでも少しでも遠い方が、魚がたくさんいる様な気がして、投げにも力が入ります。

投げ始めて3度目ほどの時に、手応えがありました。潮が動き始めた時なので、魚たちも動き始めたのでしょう。シメシメ、とリールを巻く、この瞬間が釣りの一番の醍醐味です。ワクワクするのは、還暦を遙かに過ぎても変わりはないのです。さてさて、手ごろな重たさに酔いながら挙げてみると、何やら棒状の魚が掛っています。何だろうと手許に引き寄せてみると、なんとキスではありませんか!この季節にキスが釣れるなんて。しかも25センチもある良い型なのです。嬉しかったですなあ。

期待は益々膨らんで、投げるのに力が入ります。しかしその後しばらくは獲物はなく、上げ潮に乗って上がってくる藻草ばかりが引っかかって、釣りの邪魔ばかりしていました。更に何投目かを上げようとすると、ヨッ、今度は魚らしい何かが掛った予感がしました。少し重いのですが、その重さが違うのです。ワクワクしながら引き寄せ、上げてみると何とダブルで鯛らしきものが掛っているではありませんか!そのうちの大きい奴は、20cmを超えているのです。小さい方はその前に何匹か上げた鯛の稚魚ともいうべきもので、もって帰るレベルではありません。しかし20cmを超える奴は充分に賞味に耐えることが出来ます。それにしても投げで鯛を釣ったというのは初めてのことです。釣船に乗って外海に出て行ってもなかなか釣れないのが鯛だということは充分承知していましたので、このヒットは望外の喜びでした。

その後はさっぱりでした。しかし大きなキスと小ぶりですが賞味に耐えられる鯛を1匹ゲットしたことで大満足でした。今日のところはここまで、と余った餌を大事に抱えて車に戻りました。途中の岸壁ではご老人たちに混ざって一人のおばさんが、撒き餌の釣りをしていましたが、他の男性を尻目にサヨリを100匹近くも釣り上げていました。魚は男性よりも女性の方に釣られたいと願っているようでした。

さて、車に戻って、一段落した後は、獲物の調理です。今日はいい天気で、車の直ぐ傍に広がる海は、真っ青に光り輝き、近くを見上げれば昨日歩いて往復した因島大橋が天に聳(そび)えています。このキャンプ場は橋の袂につくられており、現代の瀬戸内らしさを味わうのには最高のロケーションにあるのです。それらを見ながらコンロを取り出し、準備に取り掛かりました。鯛と白ギス1匹ずつですから、単純に焼くだけでいいと思い、内臓の処理をして、網に乗せ焼き出しました。焼き上ったらそれを肴にさっそく一杯やる目論見です。間もなく11時を過ぎようとしています。

焼き出し始めて途中で、ふっと何故か鯛めしのことを思い出しました。どこかで見た野外料理のレシピのことが頭を過(よ)ぎったのでした。そうだ、焼いたものをただつついて食べるのではなく、鯛めしという奴を作ってみよう、と思い立ったのでした。軽く焼き上げて、米を研いで入れた釜の中に入れ、炊き込むことにしました。本当はこの中にお酒を少し入れると肴の臭みがとれるらしいのですが、お酒の方は早や在庫切れです。鯛の大きさが、尻尾を除くと丁度釜の大きさと同じくらいになり、好都合です。火を入れて20分ほどで完成です。相棒は白ギスの塩焼きを美味い美味いといいながら平らげていました。

炊き上がって、上々の出来具合でした。少し早や目の昼食ですが、ビールで乾杯して出来上がった鯛めしを肴に、さあ、二人だけの宴の開始です。いヤア、さすが鯛は鯛だなあと思いました。急な思いつきの割には鯛もご飯も、これ美味なり、でした。昼間からビールを2、3本飲(や)って、すっかりいい気分になりました。久しぶりの投げ釣りで、思いもかけなかった鯛を釣り上げ、思ってもいなかった鯛めしなどに与(あずか)って、最高の気分でした。瀬戸内の島にきてよかったなあ、と改めてこの幸運を喜びました。店で買えば、僅かな値段の鯛でありましょうが、我々にとっては、恵比寿様が抱えている大きな鯛と同じくらいの価値のある嬉しい海の幸でした。

島くらしの始まりは鯛めしのご馳走からでした。その後はすっかりいい気分になって、早々に午睡を貪り、心行くまで怠惰の喜びを味わったのでした。人生、毎日がこのような楽しみの連続であれば、たちまち恍惚の人と成り果ててしまうと思いますが、時には一切のストレスを放棄するためにもグータラな快楽が不可欠だと思います。
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しまなみ海道島々滞在記から(その1:まえがき)

2007-02-03 01:13:55 | くるま旅くらしの話
くるま旅くらしの実際の様子などを紹介してゆきたいと思います。長くなりますので3回に分けることにしました。今回はその1回目です。地図があると良いのですが、ブログを始めたばかりで、要領がよく分からないのです。お許しあれ。

昨年の晩秋、11月13日から12月8日まで、1ヵ月足らずでしたが、北陸、中国地方を回り、尾道からしまなみ海道を通って四国に渡り、四国を半周ほど廻って、淡路島から明石海峡大橋を渡って神戸、大阪を横切り、東海道を経て富士山麓の忍野に立ち寄って、茨城県は守谷市の自宅に戻って来ましたが、その時の旅くらしの一部をご紹介します。 

今回の25泊26日の旅は、私共夫婦の旅としては短い、短すぎると言う感じのものなのです。最低でも2ヶ月くらいの時間をかけて旅くらしがしたいと願っているのですが、なかなか些事の障害が多くて、実現が難しいのです。

さて、今回の旅で一番願っていたのは、しまなみ海道に関わる瀬戸内の島々でのんびりと、最低でも1週間くらいは過ごしてみたいということでした。 尾道から入って、最初の向島に着いたのは、自宅を出発してから8日目でした。私どもの旅は、スケジュールを細かく決めず、できる限り一般道を使って、ナビ無しで走るというスタイルをとっています。また、途中で知り合いのところに寄らせて頂いたりしますので、一直線に目的地へなどと言う効率的な旅とは無縁のものとなってしまうのです。

しまなみ海道は二度目の来訪です。3年前の前回は、今治側から尾道へと抜けたのですが、今回はその反対です。前回は途中で大三島の道の駅に1泊し、大山祇(おおやまずみ)神社に参拝した後、生口島(=瀬戸田町)に立ち寄り、平山郁夫美術館と国宝三重塔のある向上寺を訪ねた外は一挙に走り抜けてしまったので、島々の様子はあまり分かっていないのです。ただその時に見た瀬戸田のみかん畑の穏やかな風景が印象に残り、いつかあのような島々でのんびり過ごして見たいという願望が次第に膨らんで来ていたのでした。

島に渡る前に尾道で島々の情報に関する資料を求めました。しまなみ海道の島々としては、主なものとして「向島」「因島」「生口島」「大三島」「伯方島」「大島」があります。何処にお世話になるとしても、一応はこれらの島々のキャンプ場の存在や温泉や入浴施設の有無などを知っておく必要があるからです。それらによると、キャンプ場は各島々にあるようですが、温泉等は大三島に集中しているようです。入浴日が来たら大三島に行く必要があるようです。

というようなわけでしまなみ海道の島々の訪問は先ず「向島」から始まりました。この島は尾道の目の前にありますから、島というよりも尾道と同じ感じがしたのですが、尾道大橋を渡って行って見ると、やはり島でした。高見山という島の最高峰に展望台があり、そこから眺める瀬戸内海の景観は、尾道側を除けば、正に島々と言うのがぴったりでした。向島も幾つかの入り江に小さな漁港を抱えている様子がよく分かり、尾道側だけが島の中で異常な景観となっているのがよくわかりました。島の庄屋だった吉原家や洋ランセンターなどを訪ね、半日程度を過ごした後、隣の「因島」へと移動しました。初日の今日はここのどこかに泊る考えです。

因島大橋を渡るのはあっという間です。直ぐにICを出るのが勿体無いので、出口の手前にある大浜PAにて休憩することにしました。このPAの直ぐ傍が記念公園となっており、今通ってきた因島大橋を歩いて渡る側道につながっているのです。とにかくこの巨大な橋を渡って見たいという好奇心が疼き、若干の高所恐怖症気味であるにも拘らず、チャレンジしてみることにしました。

前回このしまなみ海道を通った時、瀬戸田PAから多々羅大橋というのを歩いてみようとチャレンジして、半分ほど行ってギブアップして戻ってきた経験があるものですから、今回はこれを何とかクリアーしたいと考えていました。その手始めに因島大橋を往復してみようとしたわけです。 因島大橋は約1300mの長さがありますが、それを40分ほどかけておっかなびっくりしながら往復しました。いやアー、これは渡ってみないと分からないですが、海に架かる橋というのは川のそれとは随分と趣きが違うものです。先ずはその長さ、そして景観です。車が高速で走り抜けているのですから、安全度が高いのは承知していても、遙か下に渦巻く潮流を見たりすると、いい景色と言う前に、穏やかではない心持ちになってしまいます。そして人間と言う生き物の持つ途轍(とてつ)もない力に驚嘆せざるを得ません。やはり地球上で一番恐ろしい生き物は何かと言えば、今までの地球の歴史の中で、「それは人間だ」というのが正解のような気がします。人間がそのパワーの使い方を間違えると、とんでもないことになるのは自明のことだなと改めて感じながら橋を渡り終えたのでした。

橋を往復した後は、いよいよ因島へ。ICから降りて、先ずはどのような地理状況なのか島を一回りして見ることにしました。この島では是非とも釣をしようと考えていますので、餌を売っている店を探すのも目的の一つです。宿は、大浜崎という所にキャンプ場があるようなので、そこでご厄介になりたいと考えています。島の道は港に入ると狭くなることが多いので要注意です。ICを降りて右へ行くか左へ行くか迷いましたが、右の方は何となく狭くなる様な予感がして、左の方向へ向うことにしました。まあまあの天気で、海が青く輝いていました。思ったよりも良い道で、安心しました。ところが一所懸命釣の店を探してもなかなか見つからないのです。道の途中で釣をしている人を何人か見かけたのですが、どうして餌を売る店が少ないのか疑問でした。「餌あります」の案内板があったので、それらしき所へ行って見たのですが、迷路のようになっていていくら探してもその名の店は見つかりませんでした。諦めてキャンプ場の方へ行って見ました。

キャンプ場は通年営業と案内書には書かれていましたが、行って見ると閑散としていて、管理棟にも誰もいません。でも広い駐車場があって、少し遠いのですがトイレもあり、水も汲めそうです。これならば泊るのにそれほど問題はないなと判断しました。駐車場は岸壁に近い平地につくられているのですが、直ぐ裏が山で、風を防ぐのには好都合な場所のようです。瀬戸内の海は内海なので、よほどの強風でも吹かない限り波を被る様なことはないでしょう。

くるま旅の宿泊場所の選定は結構気を使うものです。周囲の状況を確かめずに安易に場所を選ぶと、気象状況によっては大変な災難を被ることがあるからです。今夜はこのキャンプ場の駐車場を使わせてもらうことに決めました。

しかし、依然として肝心の釣りの餌がないのです。已む無くもう少し先まで行って見ることにしました。すると、なんとまあ直ぐ先の曲がり角の所に釣具屋さんがあるではありませんか。最初から知っていれば何の心配も要らなかったのに、であります。

餌をゲットした後は、キャンプ場に戻って、腰を据えることにしました。夕方までには未だ大分時間があるので、さっそく釣竿を下ろして、近くの防波堤に出かけて試し釣りをしてみることにしました。200mほど歩いて、良さそうな場所を選んで投げてみました。釣はこのところあまりやっていませんが、その昔高松に在勤していた頃は、殆ど毎日海に行っていたのです。今回は投げ竿しか持ってきていないので、この辺の海の釣りにフィットしているのかどうかさっぱり分かりません。1時間ほど投げてみましたが、小さな鯛が2、3匹しかかかりませんでした。潮の状況から見て釣れない時間帯だと言うのは分かりますので、魚がいることが判っただけでも満足です。

くるまに戻って、夕食の準備です。日中は何台かあった車も夕方になると消え去って、我々だけが取り残された感じとなりました。少し寂しく、又不安にもなりますが、この場所は夜になって悪さをする連中がやって来るような所ではなさそうなので、それほど心配はありません。時々近くを通るタンカーなどのエンジンの音が聞こえてきます。食事の後、それらの音を聴きながら島での最初の夜は何事もなく過ぎてゆきました。

さて、このような調子で旅の経過を綴ってゆきますと、とんでもない長話となります。今回は11月20日に向島に入り、26日に今治にフェリーで上陸するまで各島々を訪ねたり、泊ったりしましたが、その中でいい記念となった出来事を二つだけ取り上げて紹介することにします
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私の旅車と旅車について

2007-02-01 22:52:58 | くるま旅くらしの話

 

私は車を使って長期的な旅をすることを「くるま旅くらし」と名付けています。短期間の車での旅はくらしではなく、単なる旅だと考えます。どちらも同じことのように思われますが、例えば、1週間のくるま旅と1ヵ月のくるま旅とではその中身はかなり違ったものとなります。前者は単なる旅であり、後者は暮らしの要素が多いものとなります。これらについては追々理屈などを述べさせて頂くつもりです。

さて、今回は、暮らしの中の「衣・食・住」の「住」に相当する旅車について紹介することにしたいと思います。私の旅車は、グローバル社製のキング5.3というキャブコンのキャンピングカーです。愛称をSUN号といいます。購入したのは2002年3月で現在5年目に入りました。走行距離は約8万kmとなりました。この車はディーゼル車で、前住の東京では規制が関わりますが、現住の茨城県ではNOxに関してはセーフということですので、これからは、この車の命の続く限り乗り続ける考えでいます。

旅車にはたくさんのメーカーがあり、たくさんの魅力的な車がありますが、私の場合はお台場のキャンピングカーのショーでこの車と出会って一目惚れしてしまった、それだけで購入したものです。日本製のキャブコンとしてはごく普通の標準的なタイプだと思いますが、私は、装備などにあまりこだわりませんので、ひたすらに自車を信頼して旅を続けるだけです。神経を使っているのは安全性くらいのもので、それは車そのものよりも運転者、利用者の心がけ次第だという考え方です。ですから、タイヤやバッテリーは早めに交換するようにしていますし、運転のスピードも遅さにイライラするよりもその遅さを出来るだけ楽しむようにしています。

旅車については、いわゆる暮らしを行なうための基本的な「住」の場としての機能をどれだけ引き出して使うかということが最も重要だと考えます。たくさんの装備を備えていてもそれを使いこなさなければ結局は無駄になりますし、車に負担をかけることになります。必要最小限の機能を備えていれば、あとはそれに必要最小限の贅沢のための機能を付加するだけのことで、それは旅のあり方によって決まるものだと思っています。私の旅車には、オプションとして付加したのは、バイクキャリアと電動ステップくらいで、後は何もありません。現在、ソーラーだけは追加しようと考えていますが、それ以外はもう何も必要ないと思っています。十二分に満足しています。

くるま旅くらしの「住」で大切なのは、

 ①よく眠れる寝床であること

②雨が降っても室内で調理が出来ること

③ある程度物品の収納に余裕が持てること

 ④夜間に内部でトイレが使えること 

 ⑤親しい友人・知人たちと歓談できるスペースが確保できること

などが挙げられると思いますが、①②が基本要件、そして私達の場合は③④⑤が満たされていることに満足を感じています。

何しろ車という狭い空間を住居として活用するのですから、考え方として、車はキャンピングカー(=野外活動のための車)ではなく、モーターホーム(=動く住居)という発想が基本になると思います。モーターホームといえば、USAなどの大型の車を想像してしまいますが、日本の場合は、USAの考え方とは違った新しい車を使った旅の形態としてくるま旅くらしがあるのだ、というふうに考えたいのです。即ちくるま旅くらしは戻る家のない旅くらしではなく、あくまでも定住の本拠を持った旅であり、その旅のための「住」の役割を担う簡易モーターホームなのだというわけです。 理屈をこねてもあまり意味のないことはわかっていますが、わが国の現状では、モーターホームという車の捉え方は少なく、キャンピングカーという捉え方で車を作り、求めているというケースが圧倒的に多いように思うのです。しかし、実際にその憧れのキャンピングカーを手に入れ、いざ旅に出掛けるとなりますと、1週間程度であればアウトドア気分で、キャンピングカーとはこのようなものなのかと満足できるのですが、1ヵ月を超えるような旅くらしとなりますと、アウトドア気分は消え去って、旅のための動く家として機能して欲しいという捉え方にならざるを得ません。

 旅車について、これから新しくくるま旅くらしを目指そうとされる方は、アウトドア機能だけではなく、モーターホームとしての機能がどのくらい備わっているかを旅車に求めることが肝心なように思います。私自身の経験からは、日本の旅車は作る側も使う方も、それをどう使いこなすかという楽しみ方やそれにどう応えるかという発想が不十分なような気がしてなりません。

これからは車を使っての旅くらしを大いに楽しむ時代だと思います。日本流のモーターホームとそれを受け入れ活用するツールや設備がより以上に整備されることを願って止みませんが、それは、旅車を使おうとする一人ひとりの思いによって決まってゆくものだと考えます。私は「くるま旅くらし」という新しい旅のあり方を提唱したいと思っていますが、そのためにも旅車に対する見方を確立してゆく必要を感じています。

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ブログ始めました。くるま旅くらしを提唱します

2007-02-01 00:00:00 | 宵宵妄話
今日からブログを始めました。現在66歳のジジイです。現役をリタイアして、3年になりますが、現役時代から車を使っての旅を楽しんでいました。リタイア後は、「旅」を「旅くらし」に拡大して、単なる楽しみではなく、生き方そのものを旅くらしの中に見出そうと努めています。

このブログでは、これからその「くるま旅くらし」についての私の思いや出来事をお知らせし、特に同世代の方々を中心に、リタイア後の生き方などを考える上で、何か少しでもお役に立てればいいなと考えています。

旅には、様々な方法や形がありますが、私が提唱するのは、「車」を使った旅です。移動手段に車を使い、宿泊手段にも車を使うというのがその基本形です。現代は車社会です。自分で運転する、しないに拘らず、車なしでは生活は成り立たないと言っても過言ではありません。それが本当に善いことなのかどうかは判りませんが、少なくとも車社会であることは認めざるを得ないと思います。とすれば、この文明の利器を、本当の利器として活用した旅があっても良いのではないかと考えます。

 車を使っての旅のコンセプトは、現役時代とリタイア後とでは大きく異なるような気がします。それは、使える時間の量が大きく異なることに起因すると思います。現役では、旅に使える時間は週末や連休等の時間に限定されるのが普通です。しかしリタイア後は、特別な仕事(用事)を持たない限りは、旅に使える時間は無制限といってもいいほどです。これら時間の使い方を、車を使っての旅に当てはめると、現役では「くるま旅」となり、リタイア後は「くるま旅くらし」となるのではないかと考えました。つまり、「くるま旅」はせいぜい2週間ぐらいが限度の旅であり、「くるま旅くらし」はそれを超える長期的な旅ということになります。

 私がくるま旅くらしを始めてからは、未だ僅か3年しか経っていません。しかしその3年の中に、これからの人生をより豊かに生きて行くためのヒントや経験をたくさん得ることが出来ました。旅の魅力は、出会いと発見にあると思います。そして新たな出会いと発見には必ず感動がもたらされます。感動の激情が収まると、人は満たされた心に癒しを感ずるのではないかと思うのです。私がくるま旅くらしを提唱するのは、これらの旅の魅力を何よりも多くの同世代の仲間達に実感して頂きたいと願うからです。  

 ブログを始めるに当って、6つのカテゴリーを用意しました。それは次のようなものです。
①くるま旅(くらし)の考え方・理屈など
②くるま旅くらしの情報・ガイド
③くるま旅くらしの衣・食・住について
④出会いのメモリー(旅のエッセー)
⑤旅人の目(世情コメント)
⑥くるま旅くらしの雑感

 これらのカテゴリーを念頭に置きながら、くるま旅くらしの中で拾った出来事や巡らした思いなどについてご報告してゆきたいと思います。それから、これからくるま旅(くらし)を始めようとお考えの方には、是非拙著をお読み頂ければと思います。この本の中で、私のくるま旅くらしについての基本的な考え方やその要領などについて、一通り取りまとめてお知らせしているつもりです。
 
さて、明日からどのような話題やテーマをとりあげたら良いのか。これは旅に出る前のワクワク気分と同じですね。今日は先ずはここまでとします。(馬骨)
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