山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

私がナビを使わない理由(わけ)

2007-02-13 11:50:59 | くるま旅くらしの話

今頃ナビ無しで旅をしている人など、使い方が苦手な人を除けば殆どいないのではないかと思います。私は、使い方が苦手ということもありますが、装置の指示に従って車を運転するなんて、もっての外という高いプライド()を持っているものですから、ナビ無し主義を通しています。 

確かに未知の場所を訪ねる時には、不安は付きもので、うまく見つかるかな、探している家にたどり着けるかなという心配があると思います。そのような時、ナビを装着しておれば大安心というものでしょう。単に目的地へのガイドだけではなく、関連情報もゲットできる便利さは、忙しい現代に生きる私たちには、ありがたい装置であるに違いありません。 

それにも拘らず私がナビを不要と考えるのは、不便さを楽しみたいと考えるからです。目的地に着くまでの迷いを楽しみたいと考えるからです。この地上であれば、どんなに複雑な場所であっても、住所や名前・名称さえ知っていれば、到着できない所はないという、妙な信念があります。いざとなったら、車をどこかに置いても歩いてゆけば必ず目的地を探し当てることが出来ると確信しています。 

一発で目的地にたどり着いた方が良いという発想は、効率主義に基づくものであり、それは現役や特別急ぎの目的を持つ人たちのためのものでしょう。限られた時間の中で目的を達するためには、無駄な時間を排除しなければならないのは、当然のことだからです。車を使う人にとって、今の世ではナビは不可欠のツールとなっているのかもしれません。 

しかし、くるま旅くらしの可能な世代は、多くは定年後であり、時間だけはふんだんに保有している状況にあると思います。少なくとも私の場合は、有り余る時間を持て余すほどです。だから、スローライフで良いし、ゆっくリズムでいいのです。急ぐよりも遅い方が面白いのです。地図を調べる楽しみ、道に迷う楽しみ、そしてようやく目的地にたどり着いた喜び。それらのプロセスの一つひとつを味わおうとするならば、ナビなどそれほど必要とは思いません 

道に迷うのは、最初は悔しくて苛立ち、大変ストレスの溜まる出来事でした。しかし、良く考えてみると、迷うことによって、思いもかけぬ発見をすることも多かったのです。例えば、地方の神社仏閣を探していて、迷った結果目的のものよりもずっと素晴らしい建物に出くわしたこともありましたし、迷って、その街をぐるぐる隈なく走る結果となり、おかげさまで大体の街の様子がすっかり頭に入ってしまった(これは実は釧路の街なのですが)様なこともありました。 

それに気づいたとき、うん、迷うのも結構面白いし役立つぞ、と思ったのです。それ以来迷うのを楽しみにするようになりました。勿論、最初から目的地もなく迷うわけではありません。行き先を決めたら、事前に地図で一応の調べはするのです。この地図を調べるのも結構楽しいものです。単に道筋だけではなく、地図上に記されたいろいろの情報を確認することができるからです。しかし、そのようにして事前に調べていても、地図と現地とでは大違いで、立派だった道がいきなり細道に変わったり、在る筈の信号の表示場所名が無かったりなどして、騙されて迷うわけなのですが、一旦、この迷う楽しみを知ってしまうと、ワクワク心が湧いて来るほどなのです。 

恐らくナビを着けていて迷った時には、裏切られたショックと、さてどうするかという戸惑いで、パニック状態が訪れるようなことがあるのではないでしょうか。ナビを信頼する人は、地図などは不要と考えて、殆ど見なくなり、持参もしなくなるのではないかと思います。それが、いきなり地図が必要となりますと、気持ちが落ち着くまでに時間がかかるのは必定です。

しかし、ナビ無し主義では、最初から迷うのを覚悟し、むしろそれを楽しんじゃおうと思っていますから、いつも平常心で走れるのです。 無理にお勧めしようとは思いませんが、あなたも道に迷う楽しみを体験されてみては如何でしょうか?

コメント (1)
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