山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

出合いについて(1)

2007-02-16 09:03:34 | くるま旅くらしの話

私のくるま旅くらしにおける最大の目的は、「出会い」にあります。多くの場合、出会いといえば人と人との出会いをイメージすることが多いように思いますが、私が考える出会いは、その対象が人間だけではなく、動物、植物、風景、出来事、天候(気象状況)等など、私の五感を揺さぶる全てのものを意味しています。

くるま旅くらしではなく、毎日の家における暮らしの中にも様々な出会いがありますが、旅くらしでは、毎日の環境が大きく変わり、刺激的になります。つまり、今までの家での暮らしとは全く異なった世界の中に身を置くことになりますから、相当に鈍感を自認している人でも、感性の働きのレベルは自然と上がるのではないかと思うのです。

出会いというものをシビアーに考えて見ますと、我々は生まれた時からこの世を去るまで、絶えず出会いの毎日を送っているといえます。しかし、同じ日は二度と無いのを知っていながら、感覚的には昨日も今日もそして明日も同じだと思い込むようになってしまうのです。これはまさに感覚即ち感性の働きの為せる業であり、知らず知らずに毎日の変化を感じ取るための感性がその働きを失い、活き活きと生きることのパワーを低下させているのではないか、と私は考えます。

人が旅に憧れ、束の間であっても旅に出かけようとするのは、失った感性や弱まった生きる力を回復させたいという根源的な欲求の働きによるのではないかと思うのです。旅を、快楽を求めた遊びと考える人もいるかもしれませんが、私はその種の旅を旅とは考えません。人びとが本当に願っている旅というのは、失われ弱まった感性を回復させてくれる素晴らしい出会いであり、それがもたらす感動であり、癒しなのではないかと考えます。

特に定年という長い間の拘束労働から解放された世代の人びとにとっては、この思いは相当強いものがあり、新しい人生の再スタートのあり方を、何らかの旅を通して見出してゆきたいと考えられるのではないかと思うのです。私自身もそうだったし、私の知り合いの多くの人たちもまた、何らかの旅を経験しています。そして旅を通して新たな生きる力を獲得しているように思うのです。

私の場合は、これからの人生の多くの時間を、旅の中に身を置いてみようなどと大それたことを考えているものですから、「くるま旅くらし」などという妙な旅のこだわりに取り付かれてしまいました。しかし、形はどうであれ、旅の中には、人が求める新たな出会いと感動そして癒しがたっぷりと用意されているに違いありません。

出会いを思うとき、何が一番大切かといえば、それは前述のように「感性」だと思います。感性というのは「気づき」ということでもあります。どのように素晴らしい出会いの環境や場面に直面していても、それを素晴らしいと感じ取れなければ、出会いの感動はもたらされません。感性が働かなくなってしまった人は、感動を得ることができず、従って本物の喜怒哀楽から遠ざかり、人間の抜け殻のようになってしまうのでないかと私は考えます。これは恐ろしいことで、はっきり言えば人間ではなくなってしまうことでしょう。今の世の中には、この種の似非(えせ)人間ともいうべきインベーダーのような輩(やから)が、増えてきているように思えてなりません。

大自然の中で、或いは見慣れない異郷の中で、我と我が身の存在を思うとき、新しい出会いがどれほど大切かということに気づかされるのです。旅には、劣化した我が感性を自然と修復させてくれる、大きな力が秘められています。還暦を過ぎても米寿に至っても、瞳をキラキラさせながら、目に映る総てのものとの出会いに胸を弾ませることの出来る感性を持ち続けたいものです。(2.15.2007記)

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする