山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

酒との付き合いも淡交へ

2011-11-03 05:17:26 | 宵宵妄話

 私の酒との付き合いは古く、成人式を迎える前には既に家にある酒を時々何とか飲みをしていました。育った我が家では、父がそれこそ一滴も飲めず、母は飲めても女は酒を飲むべからずの雰囲気の家だったものですから祝い事のときに一口たしなむ程度でした。従って、我が家に間違って酒が届いたときなどは、誰も飲まないので放っておけばそのまま飲めない古酒になり果ててしまうことになりますので、高校時代の後半くらいから自分がそれをつまみ飲むのを楽しみにする様になりました。その頃から酒はいいなあと密かに思うようになりました。この辺りが酒と知り合い、付き合いの始まりだったと思います。

大学時代は貧乏だったので、酒を買って飲むなどという機会は滅多にありませんでしたが、運動部(バスケットボール)に入っていましたので、合宿の打ち上げなどには二日酔いで頭が割れるような痛さを覚えるほどビールを飲んだことを思い出します。若者時代は、味わうというよりもどれくらい飲めるかという、愚かなチャレンジの様なアルコール類との接し方だったと思います。今の若者たちはあまり無茶をしなくなっているような気がしますが、自分たちの頃には、一気飲みなどして救急車で運ばれたりするような、若者の起こす事件は珍しくはありませんでした。

酒との本当の付き合いが始まったのは、就職して名実ともに社会人となってから、そして本当に酒と親しくなったのは、結婚してからだと思います。何しろ酒の飲めない親の家に育ったものですから、常飲するという発想は無かったのですが、結婚した相手の親父さん(=義父)は鼻の頭が赤くなるほどに酒好きの方だったので、そのような家に育っている家内は、毎晩酒を飲むということには何の疑問も感じない人なのでした。これは望外の幸運(?)だったように思います。その母親(=義母)も酒の肴づくりには長けていた人で、実に酒を美味しく飲ませてくれるのです。このようなありがたい環境の中では、我が身の中に眠っていた酒飲みの魂が俄然目を覚まして、気がついた時には毎日の晩酌が当然の生活スタイルが出来上がっていたのです。

30代の頃は絶好調でした。四国の高松に転勤となり、豊かな海の幸に恵まれ、魚大好きの自分には最高の環境でした。仕事の合間を縫って休日には釣りや貝掘りに出かけ、短時間で大量の獲物を手にして戻った後は、知人を呼んでの貝料理のパーティなどを良く開いたものです。3年物のアサリ貝を使っての酒蒸し、唐揚げ、パエリア等々を肴に、酒1升を15分で飲み干してしまうなどの暴飲を何とも思わない、そのような時があったのです。まだ焼酎がはやり出す前で、酒といえば日本酒です。びん詰を1本ずつ買っていたのでは面倒なので、一升瓶が6本木枠に入った奴を酒屋にオーダーするというような暮らしだったのです。日本酒だけでも毎月10本以上はこなしていたと思います。この他にも仕事上の付き合いもあり、家以外の場所での飲酒も結構多かったと思います。しかし、私は外で酒を飲むのはあまり好きではなく、酔ったら直ぐに寝られる場所(=家)での飲酒が何よりも一番だと思っているタイプですので、酒の上でのトラブルは少なかったと思います。

絶好調はその後も続き、次なる転勤先の福岡でも、これは上司が酒好きの方だったものですから、腰ぎんちゃく的にお伴をして、連日中洲の酒場を訪ね歩くという状況でした。どちらかといえば、酒を楽しむというのではなく、酒に振り回されるといった感じであり、この時期は安心して酔うという時間が少なかったように思います。

このようにして30代から50代近くまで、酒を飲まなかった日は皆無と言っていいほどの暮らしぶりでした。こんなことをし続けておれば、そのまま身体が無事に済むわけがありません。飲酒と過食が祟って、40代の初めころから糖尿病の境界型というのをさ迷うようになりました。50歳になった頃は川崎市に住んでいましたが、ある日突然原因不明の病に取りつかれ、身体が全く言うことを効かなくなって、通勤不能の状態となってしまい、1カ月ほど会社を休んだことがあります。結局その病のはっきりした原因は判らず終いだったのですが、諸々の検査の結果、最終的には血糖値が高かった(この時で150くらい。ヘモグロビンA1Cが7のレベル)こともあり、それまで境界型だとか言われていたものが、この時点で明らかなる糖尿病という宣告を受けたのでした。

それからは大変でした。80kgあった体重を半年ほどで12kgほど減らし、68kgとしました。この時には結婚以来初めて3カ月ほど酒を一滴も口にしませんでした。半年後に血糖値は100程度に、A1Cも5を切るレベルに戻しました。この間の糖尿病の治療に関しては、注射は勿論、薬も一切飲まず、食事と運動療法だけで健康体レベルに戻すことができたのです。ヘビースモーカーを自認していた喫煙も、この頃の値上げに反発しての休煙が、いつの間にかそのまま続いて、今でもその状態にあります。この間少しは辛い部分もありましたが、やればできるものだという自信の様なものを得ることができて、これは大きな収穫だったと思います。

それ以来自分の健康に関する考え方は大きく変わり、食事と運動に大いなる関心を持った生き方となりました。運動のメインは歩くことで、毎日万歩計での記録をとり続け、年間500万歩以上の目標を達成し続けて来ており、それは現在でも続いています。又、歩きに楽しさを覚えるようにするための様々な工夫は、例えば野草や樹木の観察などをはじめ、ラジオやウオークマンなどを用いての情報収集や音楽鑑賞、或いは著名人の講演の聴取などなど、新たな人生の楽しみ方の数々を開発させてくれました。また、食事についても次第に肉食を避けるようになり、カロリーコントロールへの関心を持ち続けるようになりました。これらの新たな取り組みは、糖尿病への怖さよりもむしろその反対の親しさを覚えるほどでした。つまり、糖尿病によって、新たな人生の在り方が見えてくるような気がしたのです。

さて、そのような新しい生き方を見出した気分の中では、酒に対しても新たな付き合い方を形成すべきであったのでしたが、3カ月の断酒期間を乗り越えた後は、悪賢い理屈を自らに納得させて少しずつ再飲を開始したのです。その理屈というのは、先ずアルコールを単なるカロリー源としてとらえ、歩いて消費したカロリー分だけは酒を飲んでも良いというものです。1日に2万歩近く歩いても消費カロリーは大したことなくて、せいぜいビール1杯ほどの量に過ぎません。最初の内はそれを守っていたのですが、定期健診のデータが悪くなってはいないのに自信を持ち、あっという間に飲酒量は増えてゆきました。と言っても宣告を受ける前と比べれば相当に減ったのは事実です。しかし、その後10年、15年と過ぎる内に量が増えたというよりも、体力の方が低下したというべきなのでしょうか、気がつけば昨秋あたりから足の先にしびれを感じるようになってしまったのです。さすがに、これはまずいなと思いました。何故なら、糖尿病の3大合併症の中に足指先の壊疽(えそ)というのが入っているからです。しびれるというのは、血行不良の表れであり、そのまま放置しておけばやがては指先に栄養が回らなくなり、組織が腐り出すことになるわけです。そんなことになったら、くるま旅の夢も打ち切りとなってしまいます。これは何とかしなければと思いました。

いろいろ考えた結果、やはり一番核心的なことは、酒との付き合い方を変えることだと思いました。糖尿病の基本的な要因は、摂取した食べ物のカロリーの消化に必要なインシュリンというホルモンの一種が不足することにあり、逆にいえば自分の身体が用意できるインシュリンの量以上にカロリーをとり過ぎるということです。この理屈から言えることは、病の進行を抑えるためには、カロリーの摂取を抑えるか、或いは不足するインシュリンを注射等の方法で補うということです。勿論自分が選ぶのはカロリー摂取のコントロールの方ですが、これは単純に主食の摂取量を減らせばよいというものではなく、バランスの良い栄養素の摂取が求められるものです。その理屈や方法については、20年にもなる経験からある程度の知識は持っていますので、それほど困りはしないのですが、一番の難敵は酒との付き合いなのでした。これを止めるということは、かけがえのない人生の友と離別するということであり、それは自分にとっては超困難なことなのです。生きがいを失えば人は生きる力を失ってしまいます。酒は自分にとっては直接的な生きがいではありませんが、幾つかある生きがいを支える大切なエネルギー源となるものなのです。ですから、生死の境目における選択の時まで、酒には傍にいて貰いたいと思っているのです。

しかし、現在の食生活を改めて反省してみると、どう考えても酒との付き合い方が害をなしていることは明らかのようです。インシュリン不足もカロリーの摂りすぎも皆酒が美味いところから始まっているように思うのです。美味い酒にはほど良い酔いが付随し、肴もご飯も美味くなりどうしても過食となりがちです。敢えて不味そうなものをと試みても、何を食べても美味くなってしまうのです。

さて、どうすればよいのか、悩んだ末に先月はとにかく酒の在庫を持たないことから始めようと考えました。酒を止める気にはどうしてもなれません。今までは毎月初めに当月分の酒類を買うことにしていたのですが、これを止めて飲みたくなった時に飲みたいものを飲みたいだけ買うことにしました。実際にどうするかはその時の気分で決めることにしたのです。酒を遠ざけるのではなくメリハリのある付き合いに変更しようと思ったのでした。

ところが1カ月経ってみて思ったのは、これは塚原朴伝の剣でいえば、一の太刀だなということです。今NHKで塚原朴伝のドラマをやっていますが、先々回だったか勝機を見出せない迷いのままに立ち会った強敵に対して、朴伝はいざという立会の際に、何のためらいもなく相手に近づいて一刀の下に相手を倒しています。つまりは、これ以上ないほどに悩み、困惑した末に、そのような懊悩の境地をスイとすり抜けて、無心で剣をふるったということでありましょう。我が酒との係わりも、何だかそのような境地の様な気がしました。というのも、結果的に先月は知人との一杯用にとウイスキーを1本買っただけでした。また、飲酒の方も数回程度で、特に我慢が昂ずることもありませんでした。糖尿病との葛藤がひどくなるのかなと思っていたのですが、これもさっぱりでした。案ずるよりは何とやらという心境です。これならば、この後もあっさりとした酒との付き合いができるように思いました。

そこで、改めて荘子の淡交のことばを思い起こしました。荘子に「君子の交わりは淡きこと水の若(ごと)く、小人の交わりは甘きこと醴(れい)の若し」とあります。この文語は、旅における人づきあいの極意ではないかと自著に書いているのですが、これは何も人づきあいだけではなく、その他のもろもろのものについても言えることであり、酒についても当て嵌まるのだと気づかされたのでした。私は特に君子になりたいなどと思っているわけではありませんが、小人の感性の無さからは脱却したいと思います。この文語の中で、「醴」というのは甘酒のことであり、それはべたべたと甘ったるくネチっ濃い味です。相手に本当の安息を与えるような付き合いというのは、醴ではなく水の様な淡い味わいでありながら、無上の大切さを感じさせるようなものなのだと思います。私の今までの酒との付き合いは、あまりにも酒を強調し過ぎて本当の酒の心からは遠いところで騒いでいた感じがします。これからは本当に飲みたい時に、量ではなく、心行くまで酒の味と酔いとを楽しみたいと思っています。

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