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山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

老進化下り階段 説

2025-04-07 04:22:59 | 宵宵妄話

老の心境について少しばかり語りたい

私は古稀を迎える頃に老についての世代論として、準老(65歳まで)→ 順老(65歳~75歳まで)→ 真老(75歳~85歳まで)→ 深老(85歳~95歳まで)→ 超老(95歳~)の考えを唱えたことがあります。それは今でもその通りだと思っており、例えば国や自治体のいわゆる高齢者に対する治世のあり方は、前期・後期などという大雑把な区分ではなく、自分の世代論の様により細分化して対応を考えるべきではないかと思っているのです。

私は現在真老の最終段階に居て、間もなく深老の世界、即ち老を深く味わう世代に入ることになります。私の考えでは、実はこの真老の世代まで到達するのはそう簡単なことではなく、到達できない人もたくさんいるのです。私の知人の中にも順老までさえ届かなかった人もおり、ましてや真老に届いてからは何人もの知人のあの世への旅立ちを見送っています。

それで、老の進み方について考えてみました。 老進化と言いましたが、これは実は老退化というべきことなのかもしれません。ま、どのように言ってみたところで、中身は同じことなのですから、こだわる必要もありません。老化というのは、時間的にはどのようにして進むのだろうか?それを考えてみました。

それは下降線を表す曲線(又は直線)で表すことが出来ると思います。すなわち、老のレベルを縦軸とし、横は時間軸とした場合、例えば老の始まりを60歳とした場合では、60歳を始点として、命が無くなるまでの時間は、それが直線であっても曲線であっても右下がりとなります。この下降線について、私はその線は、下り階段を降りるような形をしているのではないかと思っています。しかもこの階段は、その高さも幅も様々であって、或る時は昨日と少しも変わらない段差だったのに、そのあと突然踏み外してしまうような高さや幅になったかと思えば、しばらく平安が続いていていたと思ったら、そのあと再び落差の大きな階段が待っているという風に、下っていることは確かなのですが、その下り方はさっぱり先が読めない、個々人が皆異なっている怪しげで不可解な階段なのです。そして確実なのは、決して上りは無いと言うことなのです。ホンの少し止まることが出来たとしてもそれは錯覚のレベルであり、決してその平安は長続きはしないものなのです。

先日私は突然の不整脈(頻脈)に見舞われカテーテル療法を受けました。4年前には前立腺癌で放射線治療を受け、現在もフォローして頂いていますが、これらの出来事も、これから起こるであろう全ての身体や精神に関わる異常事態も、皆いわばこの階段を踏み外すという出来事なのです。最後にどうもがいてもあがいても身体が動かなくなって、下ることが出来ずにそこに蹲(うずく)まったときが老の終りとなるのだと思っています。

ところで、自分は今この下り階段のどの辺りに居るのでしょうか。残念ながら見当もつきません。判っているのは、自分に用意された階段のかなり下方に居ると言うことだけです。

このように自覚すると、階段の底に着くまでに何をしたいかということが課題となります。別に何もしなくてもいいのですが、私は身勝手な人間なので、今考えているのは、未来ではなく可能な限り過去を知りたいということです。過去とは歴史ということです。先ずは自分の歴史から始めて、日本国の歴史、世界の歴史、地球の歴史、そして最後は宇宙の歴史ということになります。歴史というのは全てのものや出来事には始まりがあって、その経過の記憶や記録を辿ることと考えます。学者ではないので、それら様々な歴史については叉聞きしている断片的な知識を膨らませてのイメージしか作れませんが、それらを思う時には何とも言えない神秘的な歓びのようなものを感じるのです。

「我々はどこから来てどこへ行こうとしているのか」という絶大なるテーマがありますが、このテーマはどのような歴史にも当てはまるものだと思っています。しかし、このテーマである程度の解が求められるのは、どこからどのようにしてやって来たかということだけであって、これから先どこへ行くのかは不明なのだと私は思っています。

しかし、私の密かな思いとしては、その解は宇宙から来て宇宙に還って行くのではないかと考えています。突き詰めて考えれば、自分というこの私は、宇宙からやって来て、やがて宇宙に還って行くに違いありません。今は、その微小なる瞬間を生きているに過ぎないのです。

階段をズッコケて(ズッコケさせられて)動けなくなった時が私の宇宙への旅の始まりなのだと考えています。その世界は多分時間も空間も意味をなさない世界なのだと思います。科学の各分野がどんなに発達・発展しても、その世界の解明は不可能なのだと思っています。

 

現実に戻って、残されている僅かな余命の時間を、私は様々な歴史の世界に野次馬として首を突っ込んで楽しんでゆきたいと考えています。当面はくるま旅と一緒に、この日本とうい国の石器時代から始まる歴史を、あれこれと齧り回る時間を優先させたいと考えています。現在、ようやく縄文時代まで辿り着きました。これからが楽しみです。階段から落っこちるのは、なるべく少なく遅く発生することを願いながら。

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