goo blog サービス終了のお知らせ 

山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

「追い抜き・追い越せ」から「追い抜かれ・追い越され」へ

2025-04-02 10:31:55 | 宵宵妄話

老の心境について少しばかり語りたい

私は守谷市の北守谷地区に住んでいるのですが、ここには北守谷遊歩道という1周約2kmの散策路が造られています、その路の両端には多くの高・低木が植えられており、季節の移り変わりを味わいながら多くの人たちが散歩やジョギングなどを楽しんでいます。私もその愛好者の一人です。春の季節は、それらの樹木たちが多彩な花を咲かせ、新緑が過ぎて夏になると蝉たちの鳴き声が溢れ、秋は僅かながらも紅葉が見られて、たっぷりとそれぞれの季節を味わい楽しんでいます。

先日その道を歩いている時にふと気付いたことがありました。後ろから来た人たちが私を追い越して行くのです。次の人もその次の人も、私が意識してゆっくり歩いているわけでもないのに、です。今まで普通に歩いている時に追い越されるというようなことはあまりありませんでした。それなのに、今だって普通に歩いているのに追い越されているのです。これはちょっとショッキングな気づきでした。

何故なのかをあれこれ考えてみたのですが、思いついた結論は、我が身の老化ということでした。80年以上人間をやっていると、頭の中の意識や感覚は不変と思っていても、身体の方はそうはゆかず、体力が低下して知らず遅くなっているのでした。無理をすれば追い越されないように出来るかもしれませんが、そんなことをしていたら、身体は悲鳴を上げ忽ち壊れ出すに違いありません。最早逆らうことも出来ず、又その必要もないことを思い知ったのでした。

思うに、振り返ってみれば、これは私がこれまでの人生を送って来た考えかたと同じだなと気づきました。子どもの頃から追い越されてもいいなどと思ったことは一度も無く、学校時代も就職してからも他人に遅れてはならないという意識があって、ずっとその考えでやって来たのです。生きる為には、いい意味でも悪い意味でも競争は不可欠であり、それに勝つために多大のエネルギーを消費し続けてきたのでした。時々チャレンジを止めてゆっくりしたいと心が動くこともあっても、休み続けることはできなかったのです。言わば世の中全体の仕組みがその様な考えを基にして出来上がっているからなのでしょう。とにかく落後者にならないためには、追い越されてはならないのです。その考えは、自分のあらゆる言動の中に無意識的に働いて、負けてはならない、勝たねばならぬと沁み渡っていたのです。

しかし、これは心と身体が違い無く働く時に可能なものであって、そのバランスが崩れてしまうと、競争力は途絶えてしまうものなのでした。賢者はいち早くこのことに気づいて、無意味とも思われる言動を控えることが出来たのでしょうが、私のような凡人にはとてもとても出来ないことなのでした。80を幾つも越した年齢になって。初めてそのことに気づかされたのです。少し楽になった気がします。

ところで、追い越されることにもメリットがあることに気づいてもいるのです。というのも、これは30年ほど前に糖尿病を宣告されて以来、運動療法の中心に歩きを置きその実践に努めてきたのですが、その始まりの頃に気づいたのは、走るよりも歩きの方がものが良く見えるという当たり前のことなのです。そして歩くよりも停まっている時の方がもっと良くものが見えるということにも気づきました。これはその当時歩くことが三日坊主で終わらないようにするために、道端の野草観察を始めた時に気づいたことなのです。

その様なことに気づきながらも日々の暮らしの中では、追い越せ負けるなという気持ちが大半を占めていたのです。それはまだまだ身体が意のままに動いていたので、直ぐに忘れてしまっていたのだと思います。その頃から30年が経ってようやくあの時の気づきが本物だったことに辿り着いたのです。

糖尿病というのは不治の病であり、少しでも身体の管理を疎かにすると一見健康レベルに戻ったかのように見えても、たちまち病のレベルとなってしまうのです。私はそのことをよく良く承知しながらこの30年間をやって来ており、今でも毎日5~6kmの歩きを身に課して実践しています。これは私の終生の課題であり、生ある限り続けなければならないと思っています。なので、これからは追い越されてもそれは当たり前と考え、ゆっくりとしたマイペースでものごとをしっかり見ながら生を楽しんで行きたいと考えています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする