現役をリタイア後、くるま旅でこの国の未知の世界や来し方などを訪ねて20年余を過ごしてきた。旅は同じ場所に止まることは少なく常に新しい世界を迎えると言うまさに日々是新の暮らしだった。リタイア後の人生の暮らし方としては正解だったと思っている。
今回は思いもかけず3泊4日の短い旅をして来た。くるま旅ならば月単位が殆どなので、短い旅には不慣れなところがある。バッグ一つを持っての旅ならば、気軽な楽しさがあるのだろうけど、今回の旅はそのようなものではなかった。意識の無い無意識の世界を垣間見る旅だった。
今月の初めバッグ一つを持って歩いて自宅を出発した。バッグの中には旅に必要な洗面具一式や電気カミソリと若干の下着類などが入っている。特別なものとしては、ガウンを持参して来ている。これは普通の旅ではバッグには入れないものだ。そこにこの旅の特徴がある。向かい先は東京お茶の水駅近くにある大病院なのである。
楽しい気分になれる筈がない。
昨年末から不整脈(頻脈~心房細動)が続いて収まらなくなり、これを何とかしようとして診察を受けたら、担当の医師からカテーテル療法を勧められた。どうやら薬などでは完治しない病の様で、物理的な処置が必要とのことだった。自力で治せないのであれば、これは医師の力に頼るしかない。多少の危険は拭えなかったが、とにかくお願いすることにした。そのための旅だったのである。
大病院の中は、よくもまあこんなに人が集まっているものだと思うほどに混雑していた。この建物の何処に宿があるのか見当もつかない。とにかく必要な手続きを済ませて指示されたのは、隣の建物の10階の1室だった。そこに行くと看護師の方からいろいろ説明があった。今日は何種類かの検査の後は着替えて休むだけで施術の本番は明日だという。検査から戻ると寝るだけかと思っていたら、胸に心電図計という機器を括りつけられ、点滴が始まった。少しは読書が出来るかと2種3冊の本を持参したのだが、このような邪魔なものを取り付けられては、その気にはなれなかった。4人の相部屋なので、カーテンで仕切られただけの空間では照明は遮られても音は遮断できない。4日間の暮らしでは個室など贅沢なので、相部屋をお願いした。満室だったので、自分を含めて他3名の方の発する様々な種類の音には、聴力に自信の無い自分でも何度も安眠を妨げられて浅い眠りしか出来なかった。
翌日は施術の本番で、7時半にはそのための着替えを済ませ、8時20分施術台に乗せられて施術室へ。エレベーターに乗ったので、10階ではない他のフロアだったのだと思うが、よく判らない。今日の施術は自分が一番最初で、8時30分から開始とのこと。さすがに手際よくスケジュールが運ばれているなと思った。1~2分の後施術が始まった。麻酔は注射なのかと思っていたら、どうやら点滴で行うらしく、何やらやっているなと思っていたら、たちまち意識が無くなった。眠気などというものではない。あっという間に何もかも消え去って、夢など見るどころではなく、一気に生の世界が消えてしまった。施術前に知人などから聞いていた話では、血管の中に細い管を入れるのだということだが、意識の無い世界では何がどうなっているのか、されているのか全く分からない。痛くもかゆくも全く無くて、生きているという実感は微塵もなく、死んでいるのかも不明なのである。死ならば施術の必要はないのだから、やはり生きている時間なのだろうけど、本人には全くそれが自覚できないのだ。勿論それがどれくらいの長さなのかも全く不明なのだ。「
意識が薄れて目を開けて天井が見える頃になって、「終りました」という医師の声が聞こえた。それで、ああ、俺は生きていたのだと思った。しかし、あまりその実感はなかった。考えてみれば、これは恐ろしい時間だったのだ。そこは天国も地獄も無く明るさも暗さもない世界だった。生きているということは意識があることなのだなと改めて思った。この無意識時間の経験は、意識できることがどれほど重要で意味があることかというのを思い知らせてくれた。やがていつか訪れる本物の無意識の時間は、やはりこれと同じようなものなのだとも思った。違うのはその場合は、意識は永遠に戻らず、生は終りとなることだと思った。 施術が終って病室に戻る途中で時刻を聞いたら、11時半頃だという。なので、凡そ3時間ほどの無意識の時間だったのだと判った。この世界への旅は、短かったけど、貴重だったのかもしれない。
その日はとにかく安静にして動かず、トイレにも行ってはいけないという厳しい医師のお達しがあったようで、下腹が痛くなってきたので看護師の方にトイレを頼んでも絶対ダメということで、一件が収まるまで往生した。夕刻になって、施術の医師チームの人たちが訪れて、術後の身体の状態を見て大丈夫だと言って頂いたので、少し安堵した。あとで看護師に訊いたら、カテーテルは動脈の中に入れるのだという。静脈とばかり思っていたのだが、動脈と聞いて、これは大ごとだったのだと改めて思った。静脈なら止血に苦労はすくないけど、動脈の場合は難しいのだと思った。それで医師のチームや看護師が足の付け根や首周りをやたらに覗き込むのだと理解した。
翌日は終日安静に寝るだけ。少しばかり本を読むことが出来た。地球の歴史という本は、施術のことなどすっかり忘れて面白かった。しかし現実はロクに身動きもできず、落差が大きい。夕刻になって回診の医師から明日は退院しても大丈夫と言われてホッとした。この厳しい旅も明日で終わるのかと思った。もっと長居をしたいなどとはゆめ思わないけど、かといって嬉しさもあまりないという心境だった。とにかくこの旅が終ることで、今度はも少し経ったら本物の旅が出来ることが嬉しかった。
かくて小旅行は終わり、翌日妻に精算支払いをして貰い、久しぶりに二人一緒に電車に乗って帰宅した次第。






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