山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

碧祥寺博物館を訪ねる

2017-07-05 03:31:33 | 旅のエッセー

 岩手県西和賀町の沢内という所に本宮山碧祥寺というお寺がある。このお寺に、この地方の民具などを集めた博物館がある。そこには、このお寺の先代の住職(第14代)が、村の教育長、村長を務める傍ら私財を投げ打って近隣各地から集めた膨大な民具や資料が展示されている。ご住職は、現代化が進むにつれて急速に失われてゆくこの地方の少し前(昭和30年代頃)までの暮らしの証となるさまざまな用具や資料を、何とか保存して残し、後世に伝えたいと思い立たれて、それを実践されたのである。その膨大なコレクションが、庫裡や新しく造られた二つの収蔵庫に残されている。これらのコレクションの中には、国の有形民俗文化財に指定されているものが数多くある。雪深いこの地の暮らしは、相当に厳しいものだったに違いない。その分だけ、生きるための暮らしの知恵は、暖地や都会に住む者には想像できないほどの独創的な力を持ったものなのだ。それはここに収められている多種多様な民具を見ていると、自から伝わってくることなのだ。

 旅というのは、たった一度だけその地を訪ねて、優れた景観や美味なる食べ物などを味わいさえすればそれで良いという考える向きもあるのだけど、くるま旅を提唱する自分は、同じ場所を何度も訪ねることに意義があると考えている。その地の本当の良さは、たった一度や二度の訪問などでは到底解る筈がないと思っている。訪ねる回数が増すごとに味わいが増す。そこにこそ、くるま旅の真価があるのではないか。同じ場所を何度訪ねても少しも飽きがこないという旅こそ、本物のくるま旅なのだと思っている。人間の出会い・発見とそれに伴う感動は無限・無数であり、それを創り出し味わうことこそがくるま旅の本質なのだ。碧祥寺博物館は、そのくるま旅の醍醐味を味わわせてくれる場所の一つである。ここを訪ねるのはまだ2度目なのだが、このあとも東北を巡る旅では可能な限り寄り道をして、奥羽山脈の懐深い山里のその昔の暮らしを思い描いて見たいと思っている。

碧祥寺博物館は、5つの資料室が3つの建物の中にあり、第1から第3資料室はお寺の大きな庫裡がそれに充てられ、別棟として雪国生活用具館とマタギ収蔵庫が建てられている。旅をしていると、各市町村に民俗資料館などが数多く存在していて、その土地の暮らしの歴史の証を示す様々な民具や用具などが展示されているのを見ることが出来るのだが、この碧祥寺博物館ほど膨大な土地の歴史の証を取り揃えてある場所は無いように思う。国立や県立等の博物館とは違った、たった一人の発案と行動で成し遂げられた、その人の思いのいっぱい詰まった品々が数多く収蔵され展示されている、他とは一味違った感動を覚える場所なのだ。

碧祥寺博物館第1.2資料室のある庫裡。この中には膨大な数の民具などが収められている。

第1,2資料室に入ると、江戸末期の頃から昭和の戦後辺りに至るまでの、この地に住む人たちが暮らしの中で大事にしていた、大小様々なの民具などが数多く展示されている。それらのすべてを短時間で見るのは不可能と思われるほどの量である。恐らくもう不要となったそれらの品々を、近隣の人たちから譲り受けたりして集められた物なのだと思う。自分のような戦前に生を受け、戦後の厳しい社会経済環境の中で子供時代を過ごした者には、何とも言えない懐かしさを覚えるような民具も数多くあり、あの頃の貧しくてもそれなりに目一杯生きていた時代を思い出すのである。

民具の中にはオシラサマなどの信仰の対象となっていたものも混ざっており、それらを見ていると遠野物語の世界を思い出す。遠野は、奥羽山脈のはるか東に位置する早池峰山や六角牛山などの山麓に位置する山国だけど、この奥羽山脈和賀岳の西麓にある沢内村も、その暮らしぶりにおいては殆ど変りはなかったのではないか。都会からはるか離れた閉ざされた空間の中では、そこに暮らす人々の思い描くものは、遠野でも沢内村でもそれほど違わなかったように思えるのだ。遠野には「遠野物語」のような記録の数々が残っているけど、この沢内村でも、もし柳田や佐々木喜善といったような方が居たなら、「沢内物語」が出来上がっていたに違いない。数々の民具を見て回りながらそのようなことを想った。

雪国生活用具館の中に入ると、大型の生活用具が目立った。雪国の暮らしには、季節を通して様々な工夫によってもたらされた、様々な生活用具があるのを知った。中には見知っているものもあるのだが、展示されている物の多くは初めて見るものであり、その使い方も見当もつかないほど不思議で且つ迫力あるものだった。ワラビの根からでんぷんを抽出する大型の木製の桶は、大木をくり抜いて作った野性味あふれた造作物であり、この地の食料調達の厳しさを思わせた。又橇(そり)といえば、ワンパターンの形しか思い浮かべられなかったのだが、実際にはその用途に合わせて様々な橇が作られ使われていたのを知り、その暮らしの逞しさに感動したりした。

雪国生活用具館の景観。4月下旬のこの時期は、建物の周辺にはまだかなりの残雪があった。まさにここは雪国なのだと思った。

自分的に一番興味があったのはマタギ収蔵館だった。というのもマタギの暮らしぶりには何故か心惹かれるものがあり、その実際を知りたい気持が膨らんでいたのである。その最大の理由は、最近になって太古の人々の暮らしなどに興味を覚えるようになり、特に縄文時代の人々の暮らしに関心大なのである。マタギの人たちの暮らしは、その縄文人の暮らしにつながっているように思えるのである。農耕の暮らしが始まった弥生時代よりも遥か前から何千年も続いていた、狩猟と採集の暮らしの縄文人に魅せられるのだ。特に狩猟というのは生き物を捕獲することで暮らしを成り立たせるのであるから、一個人の腕前だけでは限界があり、集団の力がどうしても必要となる。マタギの人たちは、そのために必要な掟を決め、それを厳しく守って暮らしを継続してきたのである。展示室にはそれらの掟を定めた巻物なども展示されていて、「ああ、あれを手にとって開いて見てみたいなあ」と思った。今が食べ時の美味しいご馳走をガラス越しに見せつけられているようで、何とも悔しい思いの見学だった。

マタギ収蔵館の入口の景観。内部の展示資料は撮影禁止なので紹介できないのが残念。

というようなわけで、ワクワクしながら、時に遠野物語の世界を思い浮かべたりしながら、或いは前後の貧しかった時代を思い起こしたりしながら、外は雨の降る中を2時間ほどの見学を済ませたのだが、残念なことに展示資料については撮影禁止となっており、ここに写真を掲載できないのがもどかしい。これは文化庁とやらの指示によるものらしく、何だか通り一遍のやり方のように思えて疑問を感じた。というのも、今の時代は、カメラのフラッシュなどたかなくても、写真はそのままできれいに撮ることができ、展示物に害を与えることなどない筈なのだ。何で撮影禁止なのかが判らない。

訊くところによると、文化庁の指定はただ指定するだけで、保護や維持に関する予算的手当てなどは無いということである。このままでは折角のコレクションも維持が難しくなって、空中分解しなければよいがと思ったりした。これだけの収蔵物を一個人や財政の厳しい町の行政にゆだねて維持してゆくのには無理があるのではないか。文化庁の役割の仕組みがどのようなものか知らないけど、「重要有形民俗文化財」として指定するなら、その保存・維持に不可欠な支援は為すべきであり、経済的側面のみならず展示品の紹介解説等についても学芸員を派遣して整備するなど、専門的な面からの支援を行うべきではないか。このままの状態では、やがてはその名称も使われ方も忘れられて、ただ物だけが残るといった状態になりかねない、そのような展示物が結構多くあるように思った。きちんとした記録を残し、明文化された解説資料がもっともっと用意されなければならないのではないかと思った。それこそが文化庁の義務ではないか。

見学が終わっても未だ雨は降り続いていた。境内にはまだ解け残った雪の塊が幾つか残されており、今見て来た世界を証明する現実の世界が目前に広がっているのを感じた。200年前の今頃もこの残雪のある景色は今の時代ともそれほど違わなかったのであろう。もう後戻りする必要もない現代に居るのだけど、200年前の先祖たちの暮らしを忘れたてはならないのだ、と思った。

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