山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

無名異間歩の風

2015-08-17 20:28:29 | 旅のエッセー

 暑い! 全く以て暑い! それにしても暑い! 言ってもしょうがない愚痴を、毎日連発しながら在宅の今夏を過ごしています。いつもだと今頃は道東の別海町や中標津町、或いは道北のクッチャロ湖や稚内辺りに滞在して、朝夕の寒さを満喫しているはずなのですが、今年は地元の逃れられない夏に捕まったまま、じっと酷暑に耐えています。

 このような時は、少しでも寒い話が必要な気がします。そこで、今回は先の佐渡ヶ島への旅で体験した肝も冷えるほどの冷たい風の話をしたいと思います。 

 私にとっては、2回目の佐渡への旅でしたが、今回初めて金山跡を訪ねました。初めて佐渡に行く人なら、必ず佐渡の金山跡を訪ねるのではないかと思います。しかし、私の場合は最初はとてもそこへ行く気にはなれず、相川エリアを素通りして他に回ったのでした。佐渡といえば、江戸時代以降の黄金の国、日本を代表する金山のあった所ですから、ここを外すというのは、かなり異常な行動と言われても仕方ないことかと思います。

それには二つほど深刻な理由があるからなのです。その一つは、佐渡を訪れる数年前に、世界遺産となっている島根県大田(おおだ)市にある石見銀山跡を訪ねたことがあり、その時の経験が頭に残っていて、あの岩に穿たれた地獄につながるとも思われる細い坑道の中に入るのは、もう二度と御免だと心に決めたのでした。私にとってのその恐怖というものは、もはや興味や好奇心の限界を超えた世界なのです。灯された細い火が消えれば、まっ暗闇の世界の中で、殆ど素っ裸に近い姿で、岩石を掘り続ける人たちを想う時、そこには到底働く喜びなどがある筈もなく、地獄にうごめく悲痛な姿だったに違いないと思ったのでした。鉱毒に冒されて30代の半ばまで生きられるのがやっとだったという説明もあり、それを知りながら敢えてそこで働かなければならなかった人たちの心情を思うと、世界の銀の生産のかなりの部分を賄ったという石見銀山であったとしても、それを誇りに思って仕事に勤しんだとは到底思われず、ここでの銀の生産は、多くの労働者の命の犠牲によってもたらされていたのではないかと思ったのでした。そのような忌まわしいとも思える場所を物見遊山気分で訪ねてはならない、そう決めたのです。    

それからもう一つは、暗い小さな空間の持つ閉塞感は、生きていることのすべてを奪われる感じがして、あの恐怖は二度と味わいたくはないと思ったのでした。それは、自分の脳の海馬が毀損して、そこに恐怖が入り込んで定着してしまって、トラウマとなってしまった様に思えるのです。だから、坑道や洞窟などに入るのは真っ平御免なのです。つまり、簡単にいえば私には強度の閉所恐怖症という奴がとりついているのです。

少し脱線しますが、そのことに初めて気づいたのは、30年ほど前に遭遇したある出来事でした。仕事でヨーロッパを訪ねた時なのですが、パリのとある高層ホテルのエレベーターに乗っていた時、突然ガタン!というショックと同時にエレベーターが停止したのです。定員が25名ほどのエレベーターのカゴには、ほぼ満員近い人が乗っていたのですが、それまで意識していなかったこの小さな空間が、その時突然恐ろしい密室の空間に変貌したのでした。坐り込むこともできず、全員が立ったままの状態で復帰を待つだけの状況でした。皆外国人ばかりで、エレベーターの性能も荒っぽくて、何だか嫌な予感がしていたのですが、いざ閉じ込められて見ると、5分もしないうちに脂汗が滲み出て来て、あれれ、俺はこんな筈ではなかったぞと思う間もなく、呼吸が切迫して来て苦しくなりだし、こりゃあ復帰するまで我慢できるのかと、突然の不安に襲われたのでした。幸い15分ほどで動いて元に戻ったのですが、乗り合わせた人たちは、この程度の缶詰事故には慣れているようで、皆何でもない顔をしているのを不思議に思いました。生きた心地もなく冷や汗を流していたのは自分一人だけなのでした。日本であれば、たとえ10分の缶詰事故でも場合によってはニュースになり兼ねないし、保守を担当する会社としては問題の要因を突き止め、徹底的な再発防止を図ることになるのですが、パリのこの乗り物はそのような配慮は皆無の感じがしました。 (皮肉なことに私の元勤務先はエレベーターの保守会社だったのです)

この体験をするまでは、洞窟や鍾乳洞なども冒険の対象として何の疑問も感じなかったのですが、一度閉所の恐怖を知ってしまうと、もう二度と日の当らない、閉ざされた狭い空間に入るのは真っ平御免となってしまったのです。石見銀山を訪ねた時にも、坑道の中に入るのは止めようと思っていたのですが、世界遺産となっている場所でもあり、一度だけは中を覗いておかなければならないのではないかと、自分に強く言い聞かせて、恐怖心を抑えながら中に入ったのでした。それ以降はもう二度とこの種の遺跡などには深入りしないことを決めています。

(閑話休題)

 さて、「間歩」と書いて「まぶ」と読みます。「まぶ」といえば間夫などということばを思い起こすかもしれませんが、全く関係はありません。間歩というのは、鉱山用語で、江戸時代が終わって明治となるまでは、鉱石採掘の坑道をそう呼んでいたということです。佐渡の金山跡では、間歩と呼ばず「坑」ということばを使っているようですが、石見銀山では「間歩」が使われています。恐らく佐渡では、明治以降相当に力を入れて鉱山の近代化が図られたため、「坑」と呼ぶことにしたのだと思いますが、自分的には遺産という見方からは、「間歩」と呼ぶ方が昔の時代を反映しているように感じます。

 佐渡の焼き物(=陶器)に無名異焼(むみょういやき)というのがあります。赤茶色の金属音のする硬い焼き物ですが、独特の雰囲気があって、愛好される方も多いようです。この焼き物の原料となるのは鉄分を含んだ赤土ということですが、これは勿論金銀山の掘削の際に見つかったものであり、副産物の一つということになると思います。佐渡の鉱山跡を歩いていた時に「無名異坑」という表示があるのに気づきました。恐らくあの焼き物の原料はこの間歩から出たに違いないと思い、そこへ行って見ることにしました。

宗大夫坑の少し上手の方の小さな谷を入った左上の方にその間歩の入口がありました。赤錆びた鉄柵が入るのを禁止していました。その間歩の入口は、何故か私にとっては宗大夫坑などよりもずっと往時に近い本物の間歩の姿を訴えているように思えました。「無名異」という呼び名が、どんな理由で付けられたのか判りませんが、この呼び方にはある種の不気味さと哀しさの様なものを感じてなりません。あの焼き物にも他の陶器とは違う神秘めいたものを感ずるのは、恐らくこの間歩から出る赤土によるものではなかったかと、そう思いました。

  

無名異間歩への石段。小さな谷の横に穿たれた穴がその間歩の入り口だった。説明板もないので判らないけど、公開されている坑道などよりは古いものに違いないなと思った。

 ところで、その間歩の前に立った時です。そこから猛烈な冷気が噴き出ているのを感じたのです。これはその前に宗大夫坑の入り口でも感じていたのですが、無名異の間歩の冷気はその比ではなく、心の芯までもが凍りつくほどのものでした。一瞬、これは何だろうと思いました。その日はかなり暑くて、日陰を求めたくなるほどでしたから、その冷気は好都合の筈なのですが、そのような気分を凍(こご)えさせるほどのものだったのです。

 思うに、この間歩の中で、何かがあったのだと思います。その冷気の中には、人間の悪しき感情が全て籠められた怨念の様なものを感じました。冷気というよりも霊気といったものなのかもしれません。細く狭い空間の中に、何百年もの間閉じ込められたままの生き物の噴出す強烈な負のエネルギーの様なものなのか、その間歩の前に行くとぞっとするものを感ずるのです。

 無名異の間歩が、佐渡金銀山の中でどのような位置にあったのか分かりませんが、間歩の中で働く人間の中には、世の見せしめとして送り込まれた無宿人と呼ばれる人別(=戸籍)から外された犯罪者や浮浪者も多くあり、それらの人たちの中には冤罪のケースもあったことでしょうから、恨みや無念の念を抱きながら生命を削らされて尽き果てた人もいたに違いありません。そのような人たちの負のエネルギーの凄まじさは、常人の計り知れないものだと思うのです。佐渡のこの間歩の中には、いまだ収まりきれないそれらの人たちの憤怒と虚しさと恨みの念が坑の遠近(おちこち)の窪みにこびりついて残り、そこから風を送っているのではないか。そう思ったのでした。

 いま、そのなぜかを詮索するつもりはありませんが、あの冷気はどんなに暑い夏の日でも、一瞬にして心を凍らせるほどのものだったなと、思い出すばかりです。歴史の中に忘れられたまま怨念の妖怪と化した人たちのことを思うと、暑いなどと言う愚痴を戒めなければならないと、そう思ったのでした。

  

無名異間歩の入り口。この閉ざされた真っ暗な空間からは、今でも不気味な冷風が絶え間なく吐き出されている。

 

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