今年の東北の春を訪ねる旅の最初の向かい先は、福島県いわき市にある白水阿弥陀堂だった。何故ここだったのかと言えば、一つには我が家から最も近い場所にある浄土を表わそうとした寺院だからである。真老世代(75歳~85歳)ともなると、時々あの世のことも考えるようになるのである。今の世の科学万能の時代では、あの世などある筈がない、と一方的に無視する嫌いがあるのだけど、何千年もかけて人々が描いて来た死後の世界は、科学などでは辿りつけない不思議の彼方にあるのではないか。この頃そう思う気持が強くなって来ている。
平安時代の末期の頃から、人々の間で浄土思想というものが強くなりだした。仏教の世界においては、或いはそれ以外の宗教においても、この世の終わりが来るという恐怖に取りつかれた末世の思想が浮き沈みするのだが、浄土思想の蔓延はそれを裏付ける一つの歴史の証なのかもしれない。この世の終わりというのは、世の中が余りにも汚れてしまっているというのが、一つの大きな要因ということなのかもしれない。平安時代というのは、その名の持つイメージとは異なって、時間が経過するにつれてその汚れや濁りが酷くなりだした時代なのかもしれない。
そのような世の中であったからこそ、人々はこの世では望めない極楽浄土という安寧の世界を求めたのであろう。そして、それを現実の世界に描き出現させようと考えて創り出したのが、浄土庭園といわれる形式の園池を有する寺院だったのだと思う。
人々(と言っても権力や財力を備えた人物に限られるわけだが)は、汚濁した現世の苦悩から逃れるために、或いは汚濁した現世の中に没した人を慰めるために、永遠の安寧が保障される世界を描き、それをこの世に創り出そうと考えたのであろう。宗教というもののもたらす人間の執心は、祈りだけにはとどまらず、何か形ある物を見出そうという、そのようなエネルギーを内在させているように思う。それがどのような形で実現しているのかを示すのが、即ち浄土式庭園と呼ばれるものなのだと思う。
自分は京都にはあまり馴染みがないため、宇治の平等院を除いては、この形式の寺院を見たことがない。それゆえ、浄土庭園の姿は、奥州平泉の毛越寺や福島いわき市の白水阿弥陀堂などを訪ねて確認しているのだが、とりわけて白水阿弥陀堂に往時の建立者の浄土というものに対する思いを汲みとることが出来るように思っている。毛越寺の方は、規模が大き過ぎて浄土からは少し遠い感じがするのだ。寺院の規模が大きく豪勢になればなるほど、本物の浄土というのからは遠ざかるような気がしてならない。
白水阿弥陀堂を訪ねるのは三度目だろうか。ここへ来た時は、往時の世の中のこと、自然環境の状況などを目一杯想像を働かせて思い描くことにしている。恐らく往時のこの辺りは、原生林に近い山野の中にこれらの建物や池などが造られたのではないか。春の今頃の季節は、現在ほど濁ってはいない池の周辺には、山桜などの花と樹木の若芽に彩られた中に、阿弥陀如来を中心とする浄土へ導く力を有した仏たちが祈っている堂宇が佇み、それらが池の水面に静かに影を映して、鎮まりかえっていたに違いない。そこに描かれている浄土の姿は、唯唯大自然に取り込まれて、安寧の中に永遠に息づく心が休む、そのような景観だったのではないか。白水阿弥陀堂は、その姿を容易にイメージさせてくれる場所なのだ。境内を歩きながら、時々立ち止まって眺めたりしながら、想像は膨らみ続ける。
白水阿弥陀堂の景観。池の水面に映る阿弥陀堂は、質素でただ静けさだけをそこに集めてひっそりと鎮座している風情だった。1千年前の人が描いた浄土は、全てが自然の中にあった。
建立した藤原清衡の娘の徳姫の亡き夫に対する思いとはどのようなものだったのか。往時の岩城氏の力とはどれほどのものだったのか。藤原家との関係はどうだったのか。治世の状況はどうだったのか。なにゆえに徳姫はこの寺の建立を思い立ったのか。様々な疑問が湧き起こってくる。本来そのような疑問を抱くのは、浄土を目の前にしては、真に不謹慎なことなのかもしれない。
我に返って、ああ、自分は今現代にいるのだっけ、と気がつく。そして思うのだ。今の世も同じように末世が近づいているのではないか、と。いや、それが近づく速さは千年前以上とは比較にならないほどのものとなっているのかもしれない。平安末期の人たちには、この庭園のような浄土を描く力があったけど、現代人は、果たして浄土を描く力を保持しているのであろうか。残念ながら私自身、今それを描く力はない。もしそのような力を持つ人物がいたとしたら、一体どのような浄土が描けるのであろうか。
この千年の間に、人間は世界規模で、安らぎを与えてくれるはずの大自然を、破壊し続けている。奢り思い上がり続けている者が描く浄土は、大自然とは無縁の、人工物に溢れる偽物に満ちた世界なのかもしれない。そのような世界に馴れ出している者には、浄土を描くことなどできないのではないか。いま、現代人は、浄土から見放されつつあるのではないか。白水阿弥陀堂の浄土景観を眺めながら、ふと、そのようなことを思った。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます