山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

置賜の二大老桜樹に想う

2017-06-16 03:56:47 | 旅のエッセー

 山形県南西部に位置する置賜地方の中で、長井市と白鷹町にまたがって「置賜さくら回廊」と呼ばれる、桜の老名木が点在する場所があります。置賜地方は、1万年以上も前から人が住んでいた遺跡の点在する、気候風土に恵まれた土地だった、というのを高畠町の「まほろばの里歴史公園」の中にある「うきたま風土記の丘考古資料館」を見学して知りました。この辺りは、東西にかなりの高さの山が連なり、そのほぼ中央を最上川が流れていて、それに沿って人々の住む町や村が広がっています。太古の地形は、現在とは大きく異なるものだったのでしょうが、それがどのようなものなのかは、見当もつきません。しかし、さくら回廊の桜の古老たちが生まれたのは、1200年ほど前ということですから、その頃は未だ原生林や原野が多かったとしても、全体の地形は現在とそれほど変わってはいなかったように思います。

 その置賜地方にある「さくら回廊」を訪ねるのが、東北の春を訪ねる旅の中での一つの楽しみとなっています。全国に桜の名所は数多くありますが、限られた地域の中に幾つもの一本桜の老名木がある場所は、それほど多くは無いように思います。老樹が多くあるというのは、古来より桜の木が生育するのに適した場所だったという証でもあり、そこは同時に、人間が暮らしの場を持ち続け得た、桜との共存共生の場でもあったということにもなるのではないか。そのように思えてなりません。

 思うに、桜というのは、古来より人々がその花をこよなく愛でた樹木であり、それは自然界の原野にあるそのままの姿を観るだけではなく、人々が暮らしの営みの傍に持ち来たりて植え、代々の時間を共有しながら今日までやって来た、特別な樹木であるような気がするのです。名木と呼ばれているような桜の樹には、単に花の美しさや樹の逞しさだけではない、もう一つの人間の歴史との関係が存在し、観桜の際にはそのことに思いを馳せることが大切なのではないか。そう思えてならないのです。

 さて、理屈はともかくとして、その置賜地方の桜の名木を代表する二本の老樹についての私の所感を述べたいと思います。その二本とは、長井市上井佐沢の久保桜、それから同じ長井市草岡の大明神桜です。今年は久しぶりにこの桜たちを訪ねました。つい2~3年前に訪ねたつもりでいたのですが、記録を見るとなんと前回の訪問から10年が経過していたのでした。桜たちにとっての10年は、人間のそれと比べれば瞬き一つの時間に過ぎないほどだと思うのですが、それでも今回は感ずること大でした。

 最初に訪ねたのは、久保桜でした。久保桜は、長井市の東を流れる最上川の更に東に位置した小さな盆地の上伊佐沢地区にあり、直ぐ傍に伊佐沢小学校があって、そのグランドの片隅に連なる小さな崖の上に、その痛々しげな老体を見せていました。

 

 今年(2017年)の久保桜の様子。大きな包帯を巻いたように巨樹の根元は厚く保護されているのだが、咲かせている花はほんのわずかで、痛々しい感じはぬぐえない。

樹齢1200年といいますから、日本の歴史では奈良から京都へ都が遷される頃に誕生したことになるのでしょう。桜の樹もこれくらい古いものになると、幾つもの口伝があるようで、この桜については、征夷大将軍の草分け的存在である、坂上田村麻呂に係わる言い伝えが残っているとのことです。

それによると延暦11年(792)、坂上田村麻呂が蝦夷征討軍に従事し、この地に来た時に土地の豪族久保氏の娘のお玉がその面倒をみたとのこと。将軍が去った後もお玉は追慕の恋情に耐えられず、翌年に病没してしまった。これを知った将軍が一株の桜をお玉の墓に手植えして、墓標とした、という話です。この他にも様々な口伝があるということですが、真実がどうなのかなどは追求する必要もなく、ただ、今の世に残って花を咲かせ、その生を止めている姿を見て、古に思いを馳せることが大切なのだと思います。

征夷大将軍というのは、今の時代から見ると随分と東北地方に住む人々を見下げた言い方であり、それが江戸時代まで権力者の象徴として用いられていたというのは、良く考えれば変な話だなとも思うのですが、中央に坐する権力者から見ると、往時の東北に住む人たちは、言うことを聞かない厄介な存在だったということなのでしょう。歴史というのは、最大の権力を握った民族や者たちによって正当化されるのが普通ですから、日本国においては、大和民族であり、その当時の天皇(=桓武)の下の中央政府がそれに該当するのだと思います。征夷大将軍となった坂上田村麻呂という人物は、相当の知略に富んだ豪傑というイメージがあり、なかなか従わなかった蝦夷の人たちを、初めて従わせるに至ったということなのだと思います。その征伐として語られる一方的な話の中には、様々なプロセスと出来事があり、東北地方を旅すると、至る所に坂上田村麻呂に係わる伝説が残っているのを実感します。このお玉の話も、勿論真実は解りませんが、お玉の豪族の側から見た時には、本当に美談の如きものになるのかどうか? 自分の歴史解釈の中では違う要素も含まれている感じがするのです。真実を知っているのは、この桜の樹だけということなのでしょう。

今回見たその桜の樹は、10年前とは愕然とするほど衰えた姿をしていました。この桜の樹はかつて四反桜(4反=4a=1200坪)といわれるほど、樹葉と花の溢れる大木だったとのことですが、幕末の頃に根元の空洞部分で浮浪者が煮炊きをしようとして火事を起こし、そのため樹形が一変するほどの酷い事件があったとのこと。その後の人々の手厚い看護の下に今日まで花を咲かせ続けることができたということなのですが、今回見たその姿は、10年前と比べて、がく然とするほどに、急激に樹勢の衰えを感じさせるものでした。10年前は元の洞の部分から二つに分かれていた幹の双方から伸びた枝に花を咲かせていたのに、今回は片方の幹は完全に枯死してしまっていて、もう一方も辛うじて僅かな花を懸命に咲かせているという姿でした。

花は相変わらず艶やかさを保ってはいるものの、全体から聞こえてくるのは悲鳴のようなものでした。人々の手厚いターミナルケアの下にここまで存(ながら)えて来た生命(いのち)も、旦夕に迫っている感じがしたのです。それは花を愛でるという気持を通り越して、何か悲しみのようなものが膨らむのを抑えることができませんでした。生命あるものはいつか必ずその終わりがやってくるという。その1200年の生命が間もなく終わってしまうのではないか。そう思ったのでした。そして、それはどのような手立てや祈りを捧げても、もはや何ものにも止めることができない、厳粛な時間なのだと思ったのです。斯くなる上は、静かにその最後を看取るしかないのだと、観桜の気分とは全く違った、今回の久保桜との出会いでした。

   

 十年前(2007年)に撮った同じ久保桜の景観。このときは左方の幹にもまだ力があり、4反桜のイメージを彷彿とさせる圧倒感があった。

もう一つの、いわば1200年の時間を共にした、同期の桜とも言える草岡の大明神桜の方は、どうなのかと心配を抱えながらの訪問でした。実はこの桜が花を豊かに咲かせているのを未だ見たことがないのです。桜の花は季節の遷り変りに敏感で、気候の微妙な変化に反応するものですから、その年によって花を咲かせるタイミングが違うのです。大明神桜は久保桜とは最上川を挟んで反対の西側にあり、どうやらこちらの方が少し開花期が遅れるようです。今年はどうなのかと期待しながら行ったのですが、やはり少し早かったようで、あと1週間後くらいが観桜の時期になるとの地元の方の話でした。久保桜の方は、力を振り絞って咲かせている花は4分咲きほどでしたが、こちらは蕾は膨らんでいるものの、咲いている花は皆無でした。同じ長井市にあるのに、今回も花を見ることが叶いませんでした。10年前は丁度いいタイミングだったのですが、その年には花芽が膨らみだした頃に、鷽(うそ)という鳥が大挙飛来して、その花芽の殆どを食べてしまったということでした。僅かに咲いている花たちを見ながら、その鳥たちを恨んだのを思い出します。

大明神桜も坂上田村麻呂との係わりがあり、これは田村麻呂が蝦夷を平定した際に記念植樹をした5本の桜の内の1本だと伝えられているそうです。他の4本の桜がどこに植えられたのかというのは判りませんが、それは考えないことにします。この桜にまつわる話で面白いのは、戦国時代末期の東北の英雄である伊達正宗に関する話で、彼がまだ若かりし頃、初めての戦に敗れた時、この桜の蔭に身を隠して生き延びたという伝説があり、「桜子の 散り来る方を頼み草 岡にて又も花を咲かせん」と詠んだとのことです。(ウィキぺディアより)その後、大成し身を立てた後にもこの桜を手厚く保護したという話です。

現在この桜は民家の裏庭の一角に在り、個人の所有となっているようですが、なにせ花の時期となると、一目見ようと自分たちのような者が大勢が押し掛けてくるのですから、実質は町の共有物となっているのでしょう。どのような経過を辿って現在のような所有形態となったのかも興味あることですが、それも又本当のことを知っているのはこの桜の樹だけということになるわけです。もしこの桜の樹が人間と同じことばで語ってくれるとしたら、伊達正宗のこと、そのずっと昔の坂上田村麻呂のことなど、一体どのような話が聞けるのか。そのようなこと思うと妄想は尽きることがありません。

この桜がいつから大明神と祀られるようになったのか判りませんが、久保桜と比べると、人気は今一の感じがしますので、少し遅れてそう呼ばれるようになったのかも知れません。大明神桜は、久保桜と比べての容姿はぐっとスマートでダンディな感じがします。久保桜はどちらかといえば樹幹が太くてがっちりしたタイプですが、それに比べると樹高が高くてすらっとした感じがします。長生きしている多くの樹木は、久保桜タイプが殆どのように思いますが、風雪や雷などの被害のことを考えますと、大明神桜の存在は、格別のような気がしてなりません。

今年お目にかかった大明神桜の姿は、10年前のそれと比べて、殆ど変っていないことに大いなる安堵感を感じました。その時ふと思ったのですが、これから10年も経たないうちに、久保桜の時代は終わり、大明神桜の時代がやってくるのではないか、と。置賜さくら回廊のなかで、名を為していた釜の越し桜は既に完全に枯死しており、久保桜のあの姿を見た後には、1200年を生き抜いて来ている誇りを示せるのは、この大明神桜しかないのですから。この桜には久保桜の分まで歴史の無言の語り部として生命を永らえて行って欲しいと願っています。

(2017年東北春旅から))

  

 今年(2017年)の大明神桜。まだ開花前なので、花の豊さが分からない。少し離れて撮っているので、小さく見えるけど、根元近くの幹は10mを超える巨大さである。この樹は20m近い樹高があるので、すらりとして見える。

 

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