山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

羽黒岩伝説と遠野幻想

2017-07-01 03:39:50 | 旅のエッセー

東北を巡る旅では、遠野を外すことはできない。何故なら遠野には昔のこの地方の暮らしの思い出がいっぱい詰まった話や場所がたくさん残っているからである。遠野を旅した人なら、「とおの物語の館」に立ち寄って、地元のおばあちゃんが語ってくれる昔話、そう、「昔、あったずもな、で始まり、‥‥‥どんどはれぇ」で終わる、遠野弁での解りにくいけど、何となく土地の温もりの伝わってくる話を聴かれたことがあるのではないか。遠野は民話がいっぱい生まれ、育ち、そして残っている土地であり、そのことは柳田国男の遠野物語にも数多く書き留められている。

今年(2017年)の東北春旅の中で、遠野を訪れたのは4月下旬だった。その日は夜明け近くまで雨が降り続き、日中の天気回復も期待できそうもないので、予定していた荒川高原牧場(国指定重要文化的景観)に行くのを諦めたのだが、朝方になって雨がやんだので、一寸付近を歩こうと出掛けたのだった。泊っている道の駅:遠野風の丘は、国道283号線沿いにあり、どうやらこれは新しく造られた道のようで、下を走るJR線の近くに旧道らしき道があるので、それを市街地とは反対の方向へ歩いてゆくことにした。

初めての道であり、東西南北も見当がつかない。北国や日本海側を旅すると、時々東西南北の感覚が180度狂うことがある。特に南北の感覚が狂うことが多いのは、自分の育った土地では北の方に山があったのに、この地では南の方に大きな山があるという風な場所である。東西の感覚が狂うのは、育った土地では海は東側にあるのに、日本海側では西となってしまうからである。人は生まれ育った環境によって、方向の感覚が随分と違うものなのである。磁石がないとTVのアンテナ設定も覚束無いことを何度も経験している。

国道よりは少し道幅の狭いその旧道らしい道を歩いて行くと、直ぐに妙な物が道端に建っているのに気づいた。近くに行ってみると、何と大きな下駄だった。それは石で出来ていて、紅白の巨大な鼻緒が挿(す)げられていた。なんだろうと、案内の標識を見たら「遠野遺産第78号 羽黒堂と羽黒岩」とあり、傍に羽黒岩についての伝説の説明が書かれていた。また、もう一つの石には「湯殿山」と刻まれていた。直ぐ傍には朱色の鳥居が建っており、それらを見て、これは出羽三山に絡む修験道信仰に関係がある場所なのかなと思った。

羽黒岩伝説の残る出羽神社の入口にある巨大な下駄の案内標。

道の駅から歩き出してまだ10分ほどなのに、これは面白いものに出会ったと、俄然興味が湧き、その羽黒岩というのを見に行こうと決めた。参道とも思えない農道のような細い道を辿って歩きを開始した。間もなく道は森の中に入り、もう直ぐかなと緩い傾斜道を軽い気持ちで歩いていたのだが、300mも行った辺りから登りが次第に厳しさを増し、息が上がり出したのには参った。その羽黒岩というのがなかなか見えないのである。ハアハア言いながら登って行くと、神社と思われる粗末な建物が見えて来た。その傍に巨石があったので、これが羽黒岩だなと直ぐに判った。神社の掲額には「出羽神社」とあった。やはり出羽の修験道の山伏などと関係のあるものだなと思った。遠野のこの辺りにも山伏が布教のために訪れていたのであろう。

羽黒岩を御神体とするのだろうか。傍にあった神社は何の飾り気もない質素な造りだった。

その羽黒岩は、二つに分かれており、高い方は9mほどであろうか。てっぺんの方が少し欠けているのが、天狗に蹴飛ばされたという箇所なのであろう。近くに矢立松というのがある筈だが、それは見えなかった。松の代わりに何本かの杉の木が立っていたが、皆若いものばかりで、松の樹に変わるほどの貫禄はなかった。少し拍子抜けがしたが、恐らく松の樹は伐られたか枯れてしまったのだろうと思った。何年前に生まれた伝説なのか見当もつかないけど、植物がそのままの姿で今まで残ることはないのだから、これは仕方がない。それにしてもこれほどの巨石を蹴飛ばして頭を欠かせるというのだから、天狗というのは物凄いパワーの持ち主なのだなと思った。そこに出羽三山信仰の秘めた力の様なものを感じた。

羽黒岩。二つに分かれていて、右側の方が高い。てっぺんが少し欠けているのは、天狗に蹴飛ばされた跡だという。いやあ、おもしろいことを発想するものだなと思った。

いやあ、早朝からいきなりいいものを訪ねることが出来て、ラッキーだった。真に偶然であり、このような伝説があることもこの場所も全く知らない初めての来訪だったのである。説明板に「遠野物語拾遺」に収められているとあったので、旅から戻ったら調べなければならないなと思った。遠野物語は読んでいるけど、その拾遺というのは読んだことがない。楽しみが一つ増えたと喜びながら住まいの車に戻った。

さて、旅から戻って、早速「遠野物語拾遺」を買って来て調べてみた。以下はその全文である。

 「綾織村字山口の羽黒様では今あるとがり岩という大岩と、矢立松という松の木とが、おがり(成長)競べをしたという伝説がある。岩の方は頭が少し欠けているが、これは天狗が石の分際として、樹木と丈競べをするなどはけしからぬことだと言って、下駄で蹴欠いた跡だといっている。一説には石はおがり負けしてくやしがって、ごせを焼いて(怒って)自分で二つに裂けたともいうそうな。松の名を矢立松というわけは、昔田村将軍がこの樹に矢を射立てたからだという話だが、先年山師の手にかかって伐倒された時に、八十本ばかりの鉄矢の根がその幹から出た。今でもその鏃は光明寺に保存せられている。」(遠野物語拾遺 題目:石 番号十 柳田国男)

これを読んで、首肯すること大だった。矢立松が無かったことも判明した。先年というのが何時のことなのか判らないけど、伐り倒されてしまったのだから在るわけがない。また、石には二つに裂けただけではなく、更にひび割れしている箇所も見られたので、天狗説よりも石自身がくやしがって裂けたという説の方が面白いなと思った。矢立松の由来に坂上田村麻呂が登場するのも面白いし、更にはこの将軍が射た矢の鏃(やじり)が現在も光明寺に保存されているというのも面白い。今回は気づかなかったので、光明寺に寄ることはなかったけど、今度行った時はお寺を訪ねてその鏃のこと訊いてみたいと思った。

遠野の伝説はそのほとんどが空想なのだろうけど、それらの話には現地、現物が存在しているのが面白い。伝説の生まれたその現地を訪ねることが出来るのである。この羽黒岩の他にもデンデラ野(蓮台野)やダンノハナ、それにカッパ淵など数多くその現地がある。

その昔(といっても僅かに100年ほど前までのことなのだが)、東北地方の長い冬の、閉鎖された空間の中での暮らしの中で、そこに住む人々は、何か目立った特徴のあるものや出来事に対して、様々な空想を思い描いたに違いない。伝説の多くは、恐らく冬の間に生まれたのではないかと思った。深深と雪の降り積もる、音一つ聞こえぬ世界の中で、耳を澄ませ目を閉じれば、出来事にまつわる様々な思いが膨らみ、そこに一つの物語が生まれてくるのを止めることができないのであろうか。それほどに東北の冬という季節は、寂しく厳しいものだったのだと思う。そしてその分だけ、心の世界は豊かに活動するのではないか。もしかしたら、その創作者の多くは老爺・老婆だったのではないか。自分の経験や親などからの話を孫に語って聞かせ、それが代々伝わって来ていて、その内いつの間にか空想ではなく現実の世界に定着してしまった、などということもあったのかもしれない。遠野の昔話は、今日のような騒々しく、暗闇の夜を忘れた、明るくて情報の入り乱れる世界に住んでいる者には、なかなか味わえない話なのだと思う。

現代に生きる人びとは、科学の力を頼んでの利便性を享受していることに甘えて、200年前の人たちよりも自分たちの方がはるかに優れていると錯覚していはしないか。よく考えれば、優れているのは、科学を頼んだ利便性だけであって、人間としての心の持つ力は、それほど豊かになっているとは思えないのである。むしろ、あまりにも効率や利便性などを追いかけるのに気を奪われてしまって、心をすり減らしているのではないか。現代の科学の進展をまるで自分の手柄のように錯覚して思い上がるのは、これは実はとてつもなく危険なことではないのか。羽黒岩の伝説に絡んであれこれと思いを巡らしている内に、ふと、そのようなことに思い至ったのだった。

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