毎年年末に恒例の、京都の清水寺貫主が揮毫される今年の漢字一字に、昨年は「絆」が選ばれました。これはもちろん3月11日に東北地方太平洋岸を襲った大震災に立ち向かう、彼の地の人々をはじめとする多くの復旧・復興に係わる人々の、人間同士の心の強い結びつきの大切さを表した一字だと思います。
この文字が選ばれたことについては、何の異存も違和感もないのですが、このひねくれジジイには少し気になることがあるのです。そもそも絆というのはどういう意味を持っているのか、ご存知でしょうか? 広辞苑には、①馬、犬、鷹など動物をつなぎとめる綱②断つにしのびない恩愛、離れ難い情実。ほだし とあります。でも一字ですから漢和辞典も覗くことにして、新漢語林を見ますと、①きずな。ほだし。牛馬などの足をつなぐ縄、ものをつなぎとめるもの、自由を束縛するもの②ほだす。つなぐ。つなぎとめる。 とあります。又角川漢和中辞典には、「半」が音を表し、ひっぱるの意の語源「挽」から来ている。ひっぱるつなの意。と書かれています。
これらの内容から、改めて絆ということばを考えてみますと、そこには二つの大切な意味が含まれているように思えるのです。その一つは結びつきはしっかりしたものでなければならないこと、その二は絆には自由を束縛されるという側面があるということ。「しっかりしたものでなければならない」というのは、いい加減につないでおれば、つながれることを嫌うものはたちまち逃げ出すということになるでしょう。そして「自由を束縛される」ということについては、本質的な抵抗を含んでおり、結びつきに対しては相矛盾するものがあるということです。
私が気になっているのは、この二番目の自由の束縛という側面です。簡単にいえば絆というのは、何がしかの不自由を伴ったものであるということです。絆の大切さは瞬間的に感ずるレベルならば、自由の束縛などの考えが入る余地などないのでしょうが、絆を大切に維持するということになりますと、これはもうたくさんの不自由さがついて回ることになります。私たちは絆の大切さを忘れないためには、このことをしっかり受け止めてくことが必要ではないかと思うのです。
何故こんなことを言うのかといえば、今回の大災害で見直されたというか、再発見、再確認された絆の大切さというのは、それが現代社会における我々の抱えている暮らしの問題点の裏返しにつながっていると考えるからです。というのも、日頃の我々の暮らしの中では、絆を無視したり否定したりしていることが明らかな出来事や現象が多数起こっているからです。別の言い方をすれば自分勝手というのか、他人無視ということかもしれません。
これらのベースとなっているのは、個人主義の高揚というか蔓延ということのような気がします。良し悪しを抜きにして個人主義が定着し、社会全体よりも個人が大切という考え方が当たり前となり、結果的にそれが人と人との結びつき即ち「絆」を弱いものとしているように思えるのです。個人主義を安易に批判する気持ちはありませんが、若者たちが「カンケー(関係)ねーよ」などと、澄ました顔をしてほざいているのを耳にすると、冗談じゃねえよ、と思ってしまうのです。この世の中で「カンケーネ~」などというものがあるわけがないのであり、「風が吹けば桶屋が儲かる」のストーリーがいい加減とは断定できない現実が厳存しているからです。世の中の成り立ちは、全てのものが何らかの関係があってこそ可能なのですから、個人主義の生み出している「カンケーネ~」という安易な無関係思想は、絆を否定する危険な考え方のように思うのです。
今回の大災害には、多くの若者が復旧・支援のためのボランティアに駆け付けてくれましたが、これらの人たちは決して「カンケーネ~」などとは思っていない筈です。恐らく普段から様々な状況、立場に置かれた中で、個人主義の限界を感じ、絆の大切さを本能的に知っている人たちなのだと思います。
今の世の中、不自由さを自由と考えることが出来る人たちの出現が「絆」というものを支えているのではないかと思ったのでした。個人主義の自由というのは、無制限の自分勝手で成り立つものではなく、他人を慮るという不自由さを当たり前のこととして受け入れることによって成り立つものなのだと思うのです。今回の大災害で絆というものの大切さが再確認されたということは、歴史的な意義があるように思えます。それは誤りかけていた個人主義に「喝!」を入れる出来事だったような気がします。
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