山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

石見銀山間歩の恐怖

2009-11-17 05:16:19 | くるま旅くらしの話

私が何時から高所・閉所恐怖症を自覚するようになったのか良く覚えていないのですが、子供の頃ではなく、大人になってかなり時間が経ってからのことのように思います。渋滞に巻き込まれた車の中で、かなりの時間殆ど動かない状態が続いている時、知らず冷や汗のようなものが全身から流れ出てきて、何だか知らないけど居たたまれない気分になったのでした。それは自分の意思でコントロールが不可能な出来事だったのです。このまま車に閉じ込められて動けなくなってしまうという恐怖なのでした。現実にはそのようなことはありえず、我慢していれば事態は改善されるのは良く解かっているのですが、それなのに冷や汗が出てくるのです。

子供の頃は、結構冒険派で、洞穴の探検などには興味があって、狭い箇所でも平気で潜り込んだりしていたのですが、現在ではとてもそのようなことは出来ません。臆病になったのではなく、勇気がなくなったのでもなく、身体がそれを受付けない症状を呈すのです。それは閉所恐怖症という、ある種の病なのではないかと自覚をするようになったのでした。これに合わせて高い場所も苦手になりました。特に足が地についていない状況での高所が苦手です。飛行機や橋などがその典型です。しかしこちらの方は、閉所の恐怖から比べれば遙かに小さいように思います。

このようなどうでも良い様なことを冒頭に書きましたのは、今回の旅で石見銀山を訪ねて、改めて閉所作業の恐ろしさを実感したからなのです。

石見銀山は日本の持つ世界遺産の中では最も新しく登録されたもので、2007年6月となっており、これは知床などよりも2年も後のことなのでした。世界遺産というのは、4つの領域(①文化遺産②自然遺産③複合遺産④危機遺産)があり、日本には現在①の文化遺産が11箇所、②の自然遺産が3箇所の計14箇所があり、③と④は無いという状況です。この中では石見銀山は(正式には「石見銀山遺跡とその文化的景観」)文化遺産ということになります。このほかにも世界遺産の登録を待つ暫定リストに12件、更にその暫定リスト入りを目指すものが3件あり、これらが全て登録されれば日本には29件の登録された世界遺産があるということになります。

ちょっと脱線しますが、馬骨的には世界遺産などというのは顕微鏡の世界の出来事に過ぎないと思っています。あと千年も経たないうちに、地球そのものが宇宙遺産となってしまいそうだし、もうすでにそうなっているのではないかという気がするのです。登録の如何を問わず、かけがえないものとしての存在をその要件とするなら、地球そのものがそれに当てはまるといえるのではないかと思うのです。暴論なのは承知していますが、日本国も、アメリカや中国という国そのものが、皆世界遺産の一つのように思うのです。現在登録の是非を云々しているものは、即世界遺産として登録を承認すべきです。何故なら地球そのものが既に宇宙遺産なのですから。

さて、元に戻って今回訪ねた石見銀山遺跡とその文化的景観のことを書きたいと思います。その最大のものは、「間歩の恐怖」ということです。間歩(まぶ)というのは、鉱石を採掘するための坑道のことをいうのだと、行ってみて初めて知ったことばでした。最初はどう読むかも解からず「かんぽ」とか「まほ」とかと読んでいました。当初鉱山というのは、今まで見て知っている知識からは、石炭や銅の採掘などのように、大きな穴を掘って掘り進めるものと想像していました。そしてその坑道は地下に向かって延々何キロも掘り進められているというようなイメージがあったのです。

ところが、ここへ来て初めて判ったのは、石見銀山での採掘は、手掘りの真に狭くて細い坑道なのでした。間歩と呼ばれるその坑道の入口は、600余もあるといわれ、現在未だ確認されていないものもあるということですから、驚くべきことです。その坑道の状況を見学できるように、龍源寺間歩というのを公開していますが、これは観光用に拡大して造られたものであり、実際の坑道とは違うものでした。

   

龍源寺間歩の入口の様子。柵が邪魔して見にくいが、中央右手に入口がある。間歩の中に入れるのはここだけのようだ。

本物の坑道はその観光用に造られた坑道の内部で、横に掘られている真に狭いもので、電気の照明に青白く、真っ黒の闇に向かって埋まっているように見えました。

   

間歩の中の本物の横への坑道。この坑道は四角というよりも楕円形に掘られていた。狭い。

もし今自分が立っている坑道の大きさがなかったら、一体自分はどうなってしまうのだろうという恐怖が一瞬身体を過()ぎりました。観光用の坑道には立派な照明が点いていますが、その昔には電気などあったわけではなく、恐らくロウソクだって高価なものだったのですから、使われていたのはもっと質の悪い何か魚などの油に灯心を点した程度のものだったに違いありません。明るさよりも暗さの方が遙かに勝る世界の中で、ノミやタガネを打ち込んで鉱石を砕いて採り出していた姿を想像すると、恐ろしさを通り越した地獄の世界がそこにあったように想ったのでした。実際に作業をしている人たちは、恐らく恐怖などというものは感じなかったのだと思いますが、暗闇の世界で明日に向かっての希望の灯を点すことは出来なかったのではないかと想うのです。人たちと書きましたが、恐らく掘っているのは同じ場所に複数ではなく、たった一人で掘り進んでいたのではないか、そのような掘り方が殆どではなかったかと想像します。狭いのです。二人の人間が行き交うには無理があるほどの狭さなのです。

暗い思いを膨らませながら坑道から出て来た時には、石見銀山という往時の、世界に冠たる銀鉱山の正体を知ったような気がして、間歩に入る前とは相当に違った心境となっていました。

その龍源寺間歩を出た直ぐ下に、匂い袋を作って売っている店があるのですが、そこの店主の方の説明で、店の近くの岩壁を見ると、そこにも間歩があってしかも上段と下段の二箇所の入り口なのです。下段の方が少し広く、上段の方が狭い感じでした。

   

二段の間歩の入口。恐らく縦に長い鉱脈があったのだと思う。下の方が大きく、上の方はうっかりすると間歩であることを見落としてしまいそうな感じだった。

その方の話では、間歩の平均的な大きさは、縦が4尺横が2尺だということです。これは大人が常に背をかがめて歩く高さであり、すれ違うのがやっとという幅でありましょう。薄暗いというよりも真っ暗といって良い石を穿った穴の道の壁なのです。それを鉱脈に沿って300m以上も掘り進んだというのですから、信じられない!の一言です。明るい空間の中では決して想像できない恐怖の世界だと思います。

石見銀山といえば、江戸時代ならずとも直ぐに出てくるのは「ネズミ捕り」という言葉です。現代の交通違反の取締りなどではありません。真正正銘のネズミ退治のための毒薬です。この殺鼠剤の方は津和野(津和野も石見の国でした)にあった鉱山で銅と一緒に産出した砒素を含む砒石というものが使われたもので、銀山とは直接関係無いようですが、銀鉱石に全く毒がなかったといえば、それは疑問です。仮に無かったとしても、暗闇の中で石を砕き続けていれば、その粉塵を吸い込んで肺は侵され、まともな健康を保持することは不可能だったと思います。殆どの人が30代前後で命を落としたというのが店の方の話でした。

龍源寺間歩に入る前までにも、幾つかの間歩の入口を見ているのですが、それらは戦争時に掘られた防空壕や横穴の入口のような感じで、大して気にも留めずに、こんなものかなどと軽薄な気持ちで見ていたのですが、中を覗き、話を聞くともはやそのような観光気分にはなれませんでした。石見銀山というのは、銀鉱脈の走っている仙山という岩石の山を、人間という生き物が600余の小さな穴を穿って、蠢きながら掘り進んでいた場所なのです。しかもその生き物は、石を削るのと同じように、奈落の底で自らの生命をも削りながら掘り進んだのでした。

鉱脈が尽きたことは幸いだった様に思います。もしここに無尽蔵の銀が残っていたとしたら、燃え尽きる命の数は更に増えたに違いありません。遺跡というのは、常にそのような人間の生命の歴史を織り込んで作られたものなのだなということを改めて実感したのでした。

それにしても、自分はいいタイミングでこの世に生まれ、生きているなと思ったのでした。もし彼の時代に生まれ、間歩の中で働く境遇にあったとしたら、恐らく自分の場合は発狂してしまうだろうなと思いました。そして実際にそのような人は多かったのではないかとも思いました。しかし、その時代は恐らく発狂など許すような世界ではなかったのだと思います。そのような世界に思いを馳せるとき、今の自分の恵まれた時代と境遇に感謝すると同時に、生命を燃え尽きさせられた人たちの冥福を祈らなければならないと思ったのでした。石見銀山遺跡は、今回の旅の中で最もショッキングな訪問先でした。

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