2.「快食」について
「快食」とは、「何でも美味く腹七分」と書きました。つまり、何でも美味い、美味いと腹一杯食べるのは快食ではないということです。まず最初に、私の食と病の履歴のようなことについて、振り返ってみたいと思います。
私は幼少のころから食欲だけは旺盛でしたが、小学生時代は食糧難で食べるものが少なく、なかなか満腹を得るのは難しい時代でした。中学、高校となるにつれて世の中は次第に豊かになり、食べ物も種類が増えてきましたが、それでも好きなものを好きなだけ食べるのは難しい時代でした。大学を卒業して人並みに東京にあった会社に就職し、自立の道を歩み始めたわけですが、食べることに関してはしばらくの間は会社の寮での暮らしでしたので、そのルールに従っての食生活でした。それでも食事での摂取カロリーは学生時代の運動量に比べて殆ど汗を流さない暮らしとなったため、大幅にカロリーオーバーな暮らしとなり、58kgだった体重は、たちまち65kgのレベルに到達し、その後の30代の家庭を持った暮らしでは70kgに達しました。
この頃から仕事が終わってからの酒食が増え出し、何の制限も考えずに好きなものを好きなだけ飲食するようになり、40代になる時にはとうとう80kgの大台に至り、胴周りが1mに近づくというありさまでした。この頃から健康診断で糖尿病が迫っている「境界型」になりつつあることを医師から忠告されるようになりました。少し気にはなりましたが、さほど重大とは受け止めず、多少は飲食の量を減らしたり、食事の内容も野菜類等を増やすなどして注意し、運動の方も、休日に気が向けばジョギングなどをして身体を動かすよう心掛けたりしたのですが、かなりいい加減なレベルに終始していたように思います。
それが決定的に食のあり方を転換させられたのは、50代になった初めの頃のある日、突然出勤途中に、いつも乗る南武線の中の島駅の階段を登っている時に、急に身体全体が虚脱感に襲われ、脚がいうことを利かなくなって、歩くのも出来なくなるという出来事に出くわしたことでした。当時住んでいたマンションは、駅のすぐ傍にあり、家からは300mくらいの距離でしたので、しばらじっとしていた後、何とか家まで引き返したのですが、これは大変ショッキングな出来事でした。2日ほど休んで、ようやく歩ける状態になったので、病院に行って何がどうなのかを検査して貰ったのですが、はっきりとした原因は判らず、しばらく様子を見ることとなりました。その後も虚脱感というのか、心身共に気合が入らず、とても仕事ができる状態ではなく、1カ月ほど会社を休むという、私にとっては前代未聞の出来事に見舞われたのでした。
その後病院に通う間に判ってきたのは、血糖値が異常に高いレベルにあり、これが何らかの悪さをして今回の症状をつくり出したのではないかということでした。それが糖尿病を宣告された時の状況なのです。心身の虚脱感や無力感をもたらす真の原因が、果たして本当に血糖値の異常だったのか、糖尿病だったのかということは、未だに不明のことなのですが、この時以来糖尿病の専門医に通い、糖尿病対策を堅持していることは、明らかなことなのです。
「快動」の項でも、糖尿病のことに触れましたが、この「快食」においても、糖尿病は私の「快食」に深くかかわっています。糖尿病対策の核となるのは何といっても「食事療法」であり、如何に適切な「快食」を実行し続けるかということが、糖尿病患者を病のレベルから健常者のレベルに引き戻して生きながらえさせるかにつながっているからです。
さて、「快食」の中身ですが、理屈的にはいろいろあると思いますが、
① 身体が必要としていないほどのエネルギーを決して取りこまないこと。
② どんなものでも、必要なものは「美味しい」と感謝して食べる こと。
この二つに尽きるように思います。この二つが守れない暮らしや生き様は、老を生きる際の大きな障害となり、必ず病を招来するに違いありません。
これをどのように実現させ、継続させるかということですが、私の場合は、①に関しては、現在の毎日の必要カロリーの摂取量を1600Kcal(=20単位)としており、これを守るための自戒の項目を、机の眼前に書き出して掲示し、毎日毎時目に入れて己に言い聞かせるようにしています。現在のその項目は5つあり、因みに紹介しますと、
・腹七分目
・間食断禁
・平時断酒
・野菜増食
・糖分減食
となっています。これらの項目は、2カ月毎に受診している糖尿病専門医の報告データなどを参考に、現在の自分に求められている飲食のあり方を考えた結果であり、楽しみながら守るようにしています。具体的な中身にはいろいろあるのですが、それは書かないことにします。加齢に伴って、或いは体調の変化に伴って、これらの項目も変わってゆくのだと思いますが、今のところはこれでいいのだと思っています。
次に「何でも美味しいと感謝して食べる」というのは、私の場合は、父母から貰った胃腸が丈夫だったこともあって、過去不味くて食べられなかった物など無く、何を食べても(気持ち悪いゲテ物はダメですが)美味いということなので幸いなのですが、生来胃腸が弱くて食が細い人などは、なかなか感謝に至るのは難しいことなのかもしれません。
今の時代は、飽食の時代と言われ、日本人の多くの人たちが「食」というものを安易に考える傾向にありますが、私などのように国全体が「飢える」という恐ろしさを体験した世代から見ると、飽食という現状こそがより恐ろしい恐怖のように思えるのです。TPPの論議の中で、国の食料自給能力などが問題となったりしていますが、今の時代もっともっと恐ろしいのは、「食」を安易に考え、動物としての本性を忘れ、「食」への感謝を喪失しているという人間の増加ではないかと思うのです。この思い上がりは、何時か必ずしっぺ返しを受けるに違いありません。TVなどでは、大食いを競わせるなどという、ただ一時の興味関心を煽るだけの番組が放映されたりしていますが、真に愚かとしか言いようがありません。大食いを暮らしの糧につなげるようなことをしている人たちは、いずれ必ず何らかの健康障害に見舞われるはずであり、可哀そうなことです。
老の世代に入ったら、人は皆もっと謙虚になって「食」の大切さに気づき、「食」への感謝の気持ちを持つべきと思います。真老世代(75~85歳)になっても、美味いの、不味いのなどと言って飽食に甘えているようでは、次の世代(深老・超老)に進むことは難しいのではないかと思えてなりません。
私は、老の世代の課題である「世代に応じて健康を保持して、活き活きと生きる」ための最大のキーは「快食」にあると思っています。他の三つの項目(「快動」「快眠」「快便」)も皆その根源となるのは「快食」なのだと思うのです。「快食」ができなければ他の項目も決して実現が叶わないのです。
では、どうやって快食を見出せばいいのかということですが、私のような過食傾向の人間は、前述のような方法などを取り入れたの自戒の食べ方が重要だと思いますが、それができない人は、基本的には徹底的に「飢え」を体験する必要があるように思います。つまり、人間(=動物)の本能である「食欲」を呼び起こすことが重要と思うのです。これはいわゆる「絶食療法」になるのだと思いますが、専門家(専門医)の力を借りながら、食べない体験を通して、何をどう食べるかを知り、やがて「食」への感謝に気づくというステップです。このようなチャレンジは、その人の根底に「謙虚さ」がどれほどあるかによって決まるものであり、それが無い人は老をうろつき回るだけということになるのかもしれません。
3.「快眠」について
「眠る」ということについて、私自身あまり困惑するようなことが無いため、不眠に悩まされる方たちには殆ど頼りにならない話となるのかもしれませんが、私の快眠の秘訣は「眠くなったら寝る」というものなのです。私自身過去に眠れずに困ったという経験が全くなかったわけではなく、どうしたら上手く眠れるのかと悩んだこともあったのです。しかし、そのような時は眠ろうと思えば思うほど眠れなくなるばかりで、不眠の悪循環に嵌まるばかりでした。これを脱出した時にしみじみ思ったのは、眠るというのは人間の本能の一つであり、眠れなくてもそれを放っておけば、必ず眠りがやってくると気づいたことでした。それ以降は、眠れない時は眠らないことにし、眠りがやって来るまでは好きなことをしたり、好きな本を読んだりしていれば、もうそれで十分な対策となるということなのです。そして、眠りについても深いとか浅いとかあれこれ考えるのを止め、浅くても深くても眠りたい時に目覚めるまで寝ればよいということにしたのです。
旅に出て、車を運転していると、時々運転中に眠気が襲って来て困惑することがあります。そのような時には無理して運転を続けるのを止め、適当な場所を探して車を止め、寝巻に着替えて寝床に横たわることにしています。たいてい1時間ほど眠れば頭はすっきりし、運転への不安は解消します。車の運転時に限らず、夜遅くまで起きていても、なぜか頭が冴えてしまって眠れない時があったりしますが、そのような時も眠くなるまでは寝ないでも大丈夫なのだと自分に言い聞かせ、本など読んだり、TVを見たり、音楽を聴いたりして眠りが来るのを待つことにしています。悩みごとなどで眠れない時も、その悩み事を堂々巡りさせるのを止め、別のことをしていれば眠りは必ずやってくるのです。
又睡眠時間についてもあまり気にしないことにしています。眠りの浅深に係わらず、長くても短くても眠ることが出来さえすれば、その過不足は必ずどこかでバランスを取ってくれるのが人間の身体なのだと考えることにして、余計なことに惑わされ悩まないことにしています。私の場合「快眠」というのは眠れれば良いというだけで、その質を問うなどということはナンセンスだと考えています。
ところで、「快眠」については、他の3項目が大きく係わってくるということも心しておく必要があると思います。すなわち、「快動」や「快食」或いは「快便」というのも関係が深いように思うのです。何よりも関係が深いのは「快動」でありましょう。動くのが苦手なのに良く眠れるという人は、却って要注意だと思います。肥満につながり易いと考えられるからです。又満腹を快食と勘違いしている老人も危険です。満腹の眠りは老の世界では必ずしも健康維持に貢献しないと考えられるからです。メタボを増進させ、各内臓の機能障害を来し易くする危険があるからです。腹七分目の快眠が大切なのだと思います。そして、「快便」というのも眠りに大きく係わると思います。出るものが出ないとストレスが溜まって不眠につながる結果となります。これもまた要注意です。
4.「快便」について
最後に「快便」についての考え方ですが、これは勿論「快食」とセットになっている重要テーマです。何をどれだけどう食べるかということが、それらをどう排泄するかにつながるわけです。私の考えでは、動物の身体というのは、簡単に言うと丁度竹輪(チクワ)のようなもので、真中が空洞となった身体を持ち、その空洞に口から栄養となる食材を流し込み、それを消化しながら栄養を吸収し、身体を動かし、育て、維持してゆく存在であり、最後に不要になったものを排泄するという仕組みを持っていると考えられます。これはアミーバ等の下等動物から人間のような高等動物まで、基本的には皆同じ構造を持っていると考えられます。食べるという行為は、身体を動かし生長させて行くために必要なエネルギーや栄養を獲得するための食材を取り入れることですが、このプロセスにおいては、吸収の全てが終わった後の残存物が、完全に排泄されることが重要なのだと思います。この作用が途中で不具合を来し、詰まったり、急ぎ流れてしまったりすると、身体全体に支障を来す原因となるわけで、食物摂取から排泄終了までの行程の流れは極めて重要だと考えられます。
下痢や便秘は人の常であり、これらに悩まされている人は多いように思います。元々消化器管が弱くて、体内の消化プロセスがうまく運用出来ない人もおられるのだとは思いますが、多くの人たちは「快食」が手に入らないために「快便」をモノにすることができていないように思います。生まれ来て物心がついた頃から人間は食事をするようになり、それをし続けて来ているのですが、例えば還暦に至っても或いは古希を過ぎてさえも、何をどうどれほど食べたら良いかが判らない人が多いのです。私もその一人に違いないのですが、もはや真老に足を踏み入れた今では、何とかこの厄介な「快食」を実現させようと悪戦苦闘しています。
実のところ、何をどうどれほど食べることが「快食」につながるかというのは、マニュアルのようなものがあるわけではなく、その個人の現在の身体状況に合わせて決めるべきものであり、これはもう相当に覚悟して取りかからないとなかなか実現できるものではありません。
私の場合は、今では常に「快便」を意識した食べ方を心がけています。大雑把に言うと、ベジタリアン指向の食事を心がけていることです。この背景には50代の初期に宣告された糖尿病への対策があり、私が食についてそれなりの知識などを得ることができたのは、まさに糖尿病のおかげであり、ある意味では感謝しています。一病息災ということばがありますが、私にとって糖尿病はまさに息災のための一病に違いありません。この糖尿病から学んだことは多く、一番役立っているのは、何をどうどれほど食べるかについてのカロリー計算をモノにしたことだと思います。
カロリー計算というのは、80Kcalを1単位として1日の摂取量を決める方法ですが、私は現在1日20単位の食事摂取を目安としており、これは1600kcalとなります。この20単位をどのような食べ物を選んで食べるかを考えるわけですが、ベジタリアン指向というのは、野菜等の食材を多く摂るという考え方で、これらの食物は低カロリーのものが多いので、多めに摂取してもカロリーオーバーとなることはなく、かつ繊維質も多く摂ることができるので、「快便」の実現に有効だからです。勿論、食事は偏向することには問題があり、栄養素摂取のバランスも考えなければならず、そのための工夫が必要ですが、馴れてくると、さほど面倒でも難しくもないように思います。
糖尿病のような食事に深く係わる病の体験のない人には、カロリー摂取の知識を得るのは面倒なことで、なかなか馴染みにくいのだと思いますが、とにかく強調したいのは、「快便」のためには「快食」の工夫が不可欠であり、悪しき食習慣から脱却することを心がけることをお勧めします。「快便」を実現するための食事を少しでも多く心がけ、それを継続することが何よりも大切なのではないかと思います。
以上老と病に関して私自身の考え方や取り組みについて述べて来ました。かなり冗長となった感じがしますが、まだまだ自分の考えや思いを十分に披歴出来ているとは思えません。この後も思いつくままに随時補填をさせて頂こうと考えています。ただ今真老世代に良足を入れたばかりですが、出来るならば深老を体験して、超老の世界にまで到達してみたいものだと思っています。(おわり)
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