山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

7年目の急伸(ソヨゴの話)

2011-10-10 05:42:21 | 宵宵妄話

 

堅忍力行」とか「堅忍不抜」ということばがあります。いずれも我慢強く、粘り強く努力をし続けるというような意味ですが、「堅忍力行」というのは、確か高校の時の校是ではなかったかと思います。校是というのは、学校の教育方針と言ったような意味だと思いますが、辞書(広辞苑)などを引いても記載されておりません。今はもう死語となってしまっているようです。堅忍力行などということばも、死語となってしまっているのでしょうか。今の時代は、もしかしたら何よりも堅忍力行が求められている時代なのかも知れないと思ったりしますが、現代人の大半は安逸や安楽を求めて目先の欲求を満たすことに汲々としている感じがしています。斯く言う私自身も、日頃安きに付くことばかりを思い振舞っているようです。

守谷市に越して来てから満7年が過ぎ、間もなく所帯を持って以降最長期の在住地となるのですが、ここに越して来た時に一番考えたことは、庭に可能な限り樹木を植えたいということでした。そして植えるとすれば、可能な限り花を楽しみ、緑を楽しみ、果実を楽しみ、紅葉を楽しむことができるようなものをと考えたのでした。その結果、現在20種の樹木(生け垣のイヌマキ・キンメツゲを含む)を植えています。これは明らかに植え過ぎです。時間経過と共に、樹木たちはそれぞれの個性を発揮し、大きく生長したもの、じっくりと生長しているもの、ひねくれて暴れまわっているもの等々様々です。しかし狭い限られた空間では、何もせずに放置しておけば、彼らの生命力に圧倒されて、人間としての(?)の暮らしに支障を来たす部分も出て来てしまうため、そろそろ思い切った整理が求められています。人間に都合のいい発想で固められていますが、これはもう致し方が無いと樹木たちには諦めてもらうしかありません。

さて、今日の話の主役はその樹木たちの中で、7年間その生長がさっぱりで、枯れはしないかとやきもき心配させられ続けて来たソヨゴという木の話です。ソヨゴという木をご存知でしょうか?ソヨゴは漢字では「冬青」と書き、文字通り冬でも青い葉を付けた常緑樹です。モチノキ科の低木で、雌雄異株の雌株には秋になると小さな赤い実がたくさん付きます。風にそよぐという、あのそよぐということばは、一説にはこの木の葉っぱが、風が吹く度にかすかな音を立てて揺れ動くところから来ているなどという話があります。私はまだその音をじっくりと聴いたことがありません。

この木が好きで、庭のある家に住むことになった時には、是非植えようと考えていました。勿論植えるのならば実の付く雌株の方です。1本では寂しいので、連株のものを玄関先に植えたいと思っていました。けれども玄関先には、結局ゲンを担いで楠天(難を転ずる)を植え、ソヨゴは門の脇に植えることになったのでした。

門の脇に植えられたソヨゴは、我が家の玄関口のシンボルツリーとして、その後順調に生長してくれる筈だったのですが、それがどういうわけなのか毎年秋になると僅かに赤い実は付けてくれるものの、初夏の新緑の季節には辛うじて必要最小限の葉っぱを新しくする程度で、病葉(わくらば)がかった葉がかなり混ざった、活力に欠けた姿をずっと続けていたのでした。もともと1.5mほどの高さの幼木でしたが、5年経っても6年経っても一向にその高さは変わらず、これはもう何か特別の病持ちの木なのではないかと思ったのでした。植え替えて貰おうかと、建築の際の樹木担当の人に申し入れて診て貰ったりしたのですが、特に問題は無いというのです。もしかしたら、土に問題があり、門をつくった辺りは何か怪しげなものが土中に埋められているのかなとも思いました。もし枯れるようなことになったら、全部掘り起こして根を調べてみようとも考えました。しかし、枯れることもなく、今年の春も相変わらずの生気のない佇まいを見せたまま満7年を迎えようとしていたのでした。6月の中旬に北海道の旅くらしに出発したのですが、その時も特に変わったこともなく、そっけなく我々の出発を見送ってくれたのでした。

なぜこれほどに我が家のソヨゴにこだわるのかといえば、今住んでいる住宅地は、7年ほど前から新しく14軒の家が建てられた一区画にあり、各戸には様々な樹木がほぼ同時期に庭先などに植えられたのですが、その中に何本かのソヨゴがあり、それらのどれもが皆我が家のソヨゴよりも大きく伸び伸びと生長しているのです。中には4mを超すほどに大きく生長しているものもあり、それらと比べると我が家のソヨゴはあまりにも寸詰まりで、生長できないままに留まっていたのでした。大きく育ち過ぎるのにも困惑しますが、元気を欠いたままいつまでも伸びることができないままに止まっている樹木にも失望感を覚えます。ましてやそれが長年の夢の実現の期待を背負ったものであれば、その落胆のため息は毎年大きくなるばかりというものでありましょう。

それが、それが、大変身なのです。北海道の旅くらしから戻って、真っ先に家の庭や周辺の除草に取り組み、その後で梅やクロガネモチなどの伸び過ぎた枝の剪定などを行って、それらの作業に気を取られて門脇のソヨゴには気づかなかったのですが、一通り他の樹木等の手入れが済んで、ふと気がついて門脇のソヨゴを見ると、何か今までの雰囲気とは違っていたのです。うっかり見過ごしていたのですが、良く見ると今までの樹高とはかなり異なって、50cm以上は伸びており、小枝もぐっと膨らんで、歩道を通行の人に邪魔を感じさせるほどになっていたのでした。スッと伸びた新しい枝には、たくさんの青い実が付いていました。このようなことはここ7年間全く無かったことでした。

 

    

 

我が家の門の脇に植えたソヨゴの木。一気に50センチ以上も樹高を伸ばした。これほどに生長の勢いを感じさせてくれたことは、今までに一度もなかった。   

 

たった3カ月足らずの留守期間でしたが、この間に我が家のソヨゴは何かとてつもない大きな壁を乗り越えたようなのです。ここに植えられてから7年もの間、一体何が彼の生長を妨げ続けて来たのでしょうか。外気の方は何も変わっていませんから、恐らく原因は土の中にあったのではないかと思います。もしかしたら、今回の大震災の揺れの影響で、土中の障害物が取り除かれたのかもしれません。とにかく7年間の苦闘の堅忍力行が報われ、大きな壁を乗り越えることができたに違いありません。

動物の時間と植物の時間の違いを時々実感することがあるのですが、このソヨゴを見ていると改めてそのことに気づかされた感じがします。この木の堅忍力行の時間は、動物の私から見れば相当に長い時間だったのですが、ソヨゴにとってみれば、7年などというのは、ほんの一息の束の間だったのかもしれません。この木の寿命がどれほどのものであるのか見当もつきませんが、彼の生長はこれから始まるのだと思います。あとどれくらいこの木の生長を見続けることができるのか、どのような姿形で伸びて貰わなければならないのか、生きている間の自分の都合を考えながら、この木とのこれからの付き合い方をあれこれ思いめぐらしているところです。

    

    

 

もう色づいて来たソヨゴの実。まだ橙色だけど、秋の深まりにつれて、次第に赤が濃さを増して、青空に美しく輝くのだが、晩秋頃までにはヒヨドリたちがやってきて、全て彼らの腹の中に収まってしまうようだ。、

 

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