花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

ディシプリン

2006-11-12 02:58:34 | Weblog
 「好きこそものの上手なれ」という言葉がありますが、「好き」と「上手」は無媒介に直接結びついているのではなく、その間を取り持つ何かがあるような気がします。私はそれがディシプリン(discipline:訓練、規律)ではないかと考えています。好きであれば上手くなりたいと思うのは当然ですが、好きな料理をたくさん食べるのとは訳が違います。好きなことばかりやっていても、それが必ずしも上達につながるとは思いません。量をこなせばそれなりに上手くなりはするでしょうが、それだけでは遅かれ早かれ壁にぶち当たります。そこで大切なのがディシプリンです。上手くなるにはどの分野でも基本が大事です。定石を知らずに将棋が上手くなることはありませんし、野球におけるキャッチボールや素振りの重要性は言うまでもありません(世界の王貞治は素振りで部屋の畳が擦り切れたそうです)。その基本を身につけるためには、毎日毎日繰り返される訓練が必要です。ただ好きだからと言って気分やノリで闇雲にやっていては本当の上達は望めません。日々の基礎訓練を通じて基本をしっかりと身体に覚えさせることを避けて、上手の域に達することはないでしょう。このような意味において、私は「好き」と「上手」をつなぐものとしてディシプリンを捉えています。
 さて話は飛びますが、教育の面でもディシプリンの果たす役割は大きいと思います。日々の基本の反復にあたる訓練には、こつこつと真面目に物事に取り組む姿勢や忍耐力、持久力を養う契機が含まれています。そして、好きだから上手くなりたい、だからこれこれのためにこれこれをやるという態度、つまり目的意識を持った上で自分自身を自ら手段化し努力を積み重ねる態度には、自分をコントロールする力、すなわち自律の精神を育む土壌があります。ただし、いくら基本が大事だからと言って、いつまでも同じことを馬鹿のひとつ覚えでやっていては、いずれ頭打ちになってしまいます。さらに上を目指すためには、自分に必要なものを分析し、それを身につけるべく創意工夫や理にかなったトレーニングを試みるサイクルが必要です。そのような過程からは、自分を客観的に見て合理的な思考や判断を行う素地が産まれます。思うに、真面目さや忍耐力、自らを律する力、客観的で合理的な頭脳の働き、これらはどれも教育に求められているものではないでしょうか。このようなことから、教育においてもディシプリンの意義は大きいと思います。
 昨今、にわかに熱を帯び始めた教育論議に触れたり、あるいは、「子供には好きなことを伸び伸びとやらせてあげたい」という善意にあふれた、それでいてある面無責任な声を聞くにつけ、子供が好きなことを見つけられるよう後押しすることはもちろん大切だけれども、それと同時に発達段階に応じてディシプリン的視点を持って接しなければならないのではないかと、そう思います。それは、親のためでも、国のためでもなく、子供自身のために。