子供が自転車に乗りたいと言うので、日曜には車の進入が止められる近所の路地へ行きました。そこは、都内でも割りと有名な桜の名所に近かったので、あふれた人がその路地にも結構居て、また、焼きそばや味噌おでんのにおいが手招きするかのように漂っていました。子供は赤ら顔のおっちゃんも出店から流れ出る食べ物のにおいも気にならないらしく、楽しそうにペダルをこいでいました。自転車で遊ぶ子供の姿を見ながらぼんやり考えたのは、花の風情でした。咲き乱れる桜の樹の下、ビニールシートを広げて宴を張るのは、毎年恒例の春の風物詩です。桜の開花予想がニュースになりだすと、「花見はいつにする?」と声を掛けたり掛けられたりします。でも、花をめでる風情と桜の花見は少し違うような気がします。私の個人的な趣味では、花をめでるとはどちらかと言えばひっそりとしたものではないかと思っています。昔、福岡市の郊外という程ではありませんが、中心部からやや離れた油山というところへ行ったことがあります。3月のいつかだったと思いますが、南向きの斜面を歩いていると、期せずして数本の桜の樹にパラパラと薄ピンクの花がついているのが眼に入りました。桜目当てではなく、きつめの散歩といった心積もりで歩いていたので、突然出くわした桜の花に、急に心の華やぎを覚えました。立ち止まって、「そろそろ桜の季節なんだぁ」とか、「こんなところにも桜の樹があるんだねぇ」などと思いながら、駐車場目指してとっとこ歩いてたのが、あたりに他に季節を感じさせるものがないかと窺いながら歩くようになりました。思うに、私にとっての花の風情とは、ふっと心に揺らぎをもたらして、それまでとは異なる時間の流れにしばし身をゆだねさせる、あるいは時間の流れに小休止をつけてくれような、そんな花との出会いではないかと思います。正岡子規の句に、「すさましや花見戻りの下駄の音」がありますが、少なくとも「すさましや」と形容される雰囲気のものではないようです。